競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』その1〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜

競馬サブカルチャー論とは

 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
 「私は綺麗な光景を見ることはできないけど、でも、その景色は間違いなく今自分が立っている世界に存在してるんだから」「どうして今まですぐ側にあるこんな世界に気づかなかったんだろう…」「捕まえたっ…」「やっと捕まえたっ…」「浩平っ、捕まえたよっ」―馬は、常に人間の傍らに在る。
 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
 ※以下の記述・文中リンクには、18歳未満に販売されない商品に関するものを含みます。それから、ネタバレ全開です。
 
 0:競馬サブカルチャー論とは
 1:NEXTON/Tactics 『ONE〜輝く季節へ〜』より
 2:「ONE〜輝く季節へ〜」の四つの歴史的意義
  1:「To Heart」というフォーマットからの応用と脱却
   1:「To Heart」によるビジュアルノベル形式の完成
   2:"会話とエピソードの積み重ね"という「To Heart」のフォーマット
   3:「To Heart」から「ONE〜輝く季節へ〜」に至るまでの時代背景
   4:「ONE〜輝く季節へ〜」によるビジュアルノベル形式の応用〜恋愛ADV形式の復権
   5:「ONE〜輝く季節へ〜」における「To Heart」的フォーマットの応用
   6:"ヒロインと主人公の物語"という「ONE〜輝く季節へ〜」のフォーマット
  2:「永遠の世界」というガジェットのもたらした衝撃
  3:快楽系の希薄化と感動系(泣きゲー及び鬱ゲー)への端緒
   1:「To Heart」マルチ・シナリオにおける"泣きゲー"のシナリオ構成〜"キャラ萌え"からの帰納
   2:「ONE〜輝く季節へ〜」における"泣きゲー"のシナリオ構成〜"ヒロインの物語"からの演繹
   3:「ONE〜輝く季節へ〜」における"鬱ゲー"の端緒〜長森瑞佳シナリオの意義
  4:Key的世界観の出発点にして終着点
   1:失われた"恋愛"のかけらを求めて
   2:「夢」「奇跡」「空」「光」に関するメモランダム
 3:馬と「ONE〜輝く季節へ〜」 (←ここから読んでも無問題)
 4:主な先行文献と参考資料


NEXTON/TacticsONE〜輝く季節へ〜』より

 とても幸せだった…
 それが日常であることをぼくは、ときどき忘れてしまうほどだった。
 そして、ふと感謝する。
 ありがとう、と。
 こんな幸せな日常に。
 水たまりを駆けぬけ、その跳ねた泥がズボンのすそに付くことだって、それは幸せの小さなかけらだった。
 永遠に続くと思ってた。
 ずっとぼくは水たまりで跳ね回っていられると思ってた。
 幸せのかけらを集めていられるのだと思ってた。
 でも壊れるのは一瞬だった。
 永遠なんて、なかったんだ。
 知らなかった。
 そんな、悲しいことをぼくは知らなかった。
 知らなかったんだ…。
 

(BGM:折戸伸治(がんま)作曲「追想」)

 1998年、冬。幼い頃に家族を失い*1、心に深い傷を負ったという過去を持つ折原浩平は、叔母の家に引き取られて成長するが、仕事で忙しい叔母とはお互いにほとんど干渉せずに過ごし、独り暮らしに近い生活を送っている。成績は可も不可もなく、運動神経が良いわけでもなく、部活*2は幽霊部員。落ちこぼれというほどではないけれど、ぐうたらで平凡な高校2年生だった。
 カーテンの引かれる音と、そして目の奥を貫く陽光。チャイム寸前、校門を一気に駆け抜ける登校風景。退屈な午前の授業。両手に抱えた購買のパンと牛乳。他愛ない友達とのやりとりや、たまのすれ違い。放課後の閑散とした中庭。帰宅部であふれる昇降口。校舎の屋上に佇む人影。真っ赤に染まった夕焼けの空。師走に彩られた商店街。布団を被ったまま眺めるテレビと電灯。適当な宿題と借りてきたCD―。
 幼馴染の長森瑞佳や悪友たちと過ごすそんな日常は、いつも通り変わり映えしない。ちょっとした変化があったとすれば、立て続けに起こった個性的な少女たちとの出会いくらいなものである。
 毎朝、浩平を起こしに来てくれる*3おせっかい焼きで心配性な幼馴染のクラスメイト(長森瑞佳)*4。「真の乙女」を目指して可愛らしく振舞っているけれど、地の性格がとんでもなく、実は失敗だらけの転校生(七瀬留美)*5。まるで誰かを待っているかのように、雨の日に空き地で立ち尽くしている無口で神秘的な同級生(里村茜)*6。盲目というハンデを背負うものの、それを感じさせない社交的で前向きな性格の大食いな先輩(川名みさき)*7。唖障害で言葉を話せないため筆談で会話をする、いつも古ぼけたスケッチブックを肌身離さず持ち歩く表情豊かな下級生(上月澪)*8。唯一心を開いた「友達」を失った悲しみに暮れる、「大人になれない」自閉症気味な登校拒否児(椎名繭)*9
 彼女たちとの触れ合いは、浩平にとって、とても大切なものになろうとする。けれども、それはありふれた毎日に、ちょっとした潤いを添えてくれる出来事のひとつに過ぎない。クラスの仲間や彼女たちとの楽しい日常は、今までがそうであったように、これから先もずっと繰り返されていくはずだった。
 しかし……不意にもうひとつの世界が生まれる。それはしんしんと積む雪のように、ゆっくりと日常を埋(うず)めてゆく。異変は、静かに始まっていたのだ。
 ふと空を見上げる…。真っ赤に染まる信号…。ゆったりとした時間の流れの中で、その場に取り残されそうな錯覚。涙が出てしまうような不思議な概視感。「もうひとつの世界」にいる自分が、空の上から自分をずっと見守っている…。何よりもそれらはイメージだ。そして、それは確実な予感でもあった。
 どうしてだろう…よくわからない。ぼくはこの世界からいなくなる…。

 「えいえんはあるよ」
 彼女は言った。
 「ここにあるよ」
 確かに、彼女はそう言った。
 永遠のある場所。
 …そこにいま、ぼくは立っていた。


ONE〜輝く季節へ〜」の四つの歴史的意義

 「ONE〜輝く季節へ〜*10は、1998年5月26日にゲームブランドTacticsから発売された成人向け恋愛アドベンチャーゲーム(いわゆる18禁PCゲーム)である。本作発表後にKeyブランドを立ち上げることになる制作スタッフ(企画/脚本:麻枝准、脚本:久弥直樹、音楽:折戸伸治、原画:樋上いたる、CG:しのり〜・ミラクル☆みきぽん)によって、Tactics所属時代に企画・制作された2作目の美少女ゲーム*11として名高い本作は、後発のKeyブランド諸作品―「Kanon」(1999年)、「AIR」(2000年)、「CLANNAD」(2004年)など―と同じ系譜に属するものとして、四部作的な評価を受けることが通例である*12
 始祖鳥「同級生」(エルフ,1992年)によって美少女ゲーム(恋愛ADV、恋愛SLG)が成立し*13、「河原崎家の一族」(エルフ,1993年)による黎明といわゆるリーフ・ビジュアルノベル三部作*14―「雫」(Leaf,1996年)、「痕」(Leaf,1996年)、「To Heart」(Leaf,1997年)―による到達をもってビジュアルノベルへの分岐・進化が遂げられた*15とする18禁PCゲーム史観については、本・競馬サブカルチャー論においても繰り返し指摘してきたところである。このような美少女ゲーム/ビジュアルノベル史観に従って、本作の歴史的意義を説明しようとするならば、以下の通りに集約することができるだろう。
 すなわち、(1)パラダイム*16ないし年代論という視点から見ると、「To Heart」というフォーマットからの応用と脱却に他ならないし、(2)表現技法としてのメタフィクション*17という視点から見ると、「永遠の世界」というガジェットのもたらした衝撃は計り知れず、(3)ジャンルないし構造論という視点から見ると、快楽系の希薄化と感動系(泣きゲー及び鬱ゲー)への端緒を見出すことができ、(4)主題論ないし系譜論*18という視点から見ると、Key的世界観の出発点にして終着点であった―という四点である。

 

―「ONE」というのは存在自体が奇跡であり、コピー可能な代物ではない―

(元長柾木「回想ー祭りが始まり、時代が終わった」より)

 

1.「To Heart」というフォーマットからの応用と脱却

 本作の歴史的意義を説き明かすためには、その前年に発表された美少女ゲームの巨星「To Heart」との関係を踏まえないわけにはいかない。
 

―「To Heart」によるビジュアルノベル形式の完成―

「雫」冒頭のとあるシーン。(C)AQUAPLUS/Leaf*19 そもそも、ビジュアルノベル*20とは、文章・画像・音楽*21を表現技法として融合的に用いるPCゲームシステムである。もっとも、この文章・映像・音楽というビジュアルノベルの三大要素は、最初から三つとも同列に揃っていたわけではない。
 時系列を追ってみると、まず、①黎明期*22には、パソコンの内蔵音源が向上したことに伴い、BGMとSEが実用的な水準に到達したため、初めて音楽が効果的に用いられるようになった。次に、②発展期前半*23になると、シナリオを「読ませる」ことを強く意識した制作者*24が現れるようになったため、画像と音楽を背景にしつつ画面全面にテキストを表示するという手法*25が初めて導入され、文章の果たす役割が劇的に大きくなった。ちなみに、この頃までの画像は背景画とイベントCGが中心を占めており、キャラクターの立ち絵については、服装変化に枚数が割かれることはあっても、表情変化は重視されていなかった*26
 そして、③発展期後半、「To Heart」(1997年)の登場によってビジュアルノベルパラダイムはいったん完成を見る。「To Heart」では、演出の一環として、キャラクターの立ち絵に大量の枚数が投入されることとなり、セリフに応じてキャラクターの表情が微妙に変化するという革命がもたらされたのである*27
 ここに初めて、ビジュアルノベルは音楽・文章・画像の三位一体を名実ともに実現したといえるだろう。
 

―"会話とエピソードの積み重ね"という「To Heart」のフォーマット―

 それでは、「To Heart」は、立ちキャラクター表情画の大量投入によって何を表現しようとしたのだろうか。それは、「居心地の良い仲良し空間」*28という世界観そのものだった。―誰かといないとおもしろくない。なぜなら、人間はつくづく共感する生き物だから―。このような世界観*29を浸透させるために考案されたものこそが、主人公とヒロインとの会話とエピソード(コミュニケーション)を丹念に積み重ねることによって、プレイヤーのキャラクターに対する感情移入を促すという、現在なお通用している萌え系美少女ゲーム―いわゆる"ハートフル学園恋愛ストーリー"のフォーマットだったのである*30。立ちキャラクターの豊富かつ微妙な表情変化も、その迫真性を演出するための切り札に他ならなかった。
「えへへっ、どうかな?」/あかりは少し照れた顔ではにかんだ。/「…髪型、変えたのか?」(C)AQUAPLUS/Leaf このサイトでは一部、AQUAPLUS/Leaf製品の画像素材を加工・引用しています。また、これらの素材を他へ転載することを禁じます。 ここでは、佐藤心*31による分析を参考にしながら、「To Heart」のシナリオ構造を俯瞰することを試みたい。佐藤心美少女ゲーム/ビジュアルノベルにおけるシナリオの構造を、探偵小説になぞらえて"叙述の視点とキャラ萌え"*32"会話とエピソードの積み重ね"*33"ヒロインと主人公の物語"*34の三層に解析している*35。すなわち、プレイヤーは、(1)主人公*36の視点を通して、他の登場人物*37の外見と性格に関する情報(萌え要素)*38を収集してヒロインへ関心を寄せると、(2)日常的な会話を繰り返しながら"エピソード"を蓄積してヒロインとの関係性(コミュニケーション)を深めた後、(3)日常で築かれたエピソードの束とは別次元の、いわば非日常的なヒロインと主人公の"物語"*39を知らされてクライマックスに至るというのである。
 このプロットに即していうならば、「To Heart」とは、"会話とエピソードの積み重ね"という第二階層そのものを、そのまま「居心地の良い仲良し空間」というかたちで作品の主題に据えている。そして、「仲良し空間」の「居心地の良さ」を引き立てるための道具として、"叙述の視点とキャラ萌え"という第一階層―会話の相手となるヒロインたちのキャラクター設定―を高度に類型化することに成功した稀有な作品に他ならない。もちろん、キャラクターが個性的であればあるほどそのようなキャラクターを相手にした会話や逸話は魅力的なものになるに違いない、という制作者の確信があってこその所産だということは論を待たない。
マルチ「だれかといっしょにお掃除するのって、こんなにも楽しいものなんですね。わたし知りませんでした」(C)AQUAPLUS/Leaf*40 それは、1980年代風な古典的萌え要素の集大成といっても過言ではない。朝起こしに来てくれるリボンの幼なじみがいて、流行に敏感だけど勉強嫌いなボーイッシュ娘がいて、眼鏡っ娘で三つ編みな委員長がいて、金髪碧眼でスタイル抜群なハーフの帰国子女がいて、格闘技が得意なスポーツ少女がいて、おっとりとした大金持ちのお嬢様がいて、なぜか魔法使いもいるし、超能力少女もいる。そして何よりも、ドジで泣き虫だけど純真なAI(心)を持つメイドロボット―「その登場により、萌えの中世は終わり、近代を迎えた」とも、「萌えにおけるアルティメット・ワン」「人類の叡知による結晶」とまで評される―マルチがいた。「To Heart」が"キャラ萌え"の金字塔として今日まで語り継がれる所以である*41
 

―「To Heart」から「ONE〜輝く季節へ〜」に至るまでの時代背景―

 「To Heart」以降、特に同作品の商業的成功が明らかとなった1998年に入ると、「To Heart」を模倣した"学園恋愛もの"18禁PCゲームが粗製濫造されるようになる。当時、18禁PCゲームの制作現場において、「To Heart」のCD-ROMをポンと上司から渡されて、「これと同じようなゲームを作って」と命じられることは決して珍しくなかったという。
 こうして、この時期は多数の"えせTo Heart""To Heartもどき"が発売されているのだが、哀しいかな駄作であるがゆえに歴史には残っていない。この1年未満の短期間のうちに、退屈と紙一重で当意即妙な会話を描き切るシナリオ、人情の機微を微妙に描き分けるだけの作画、タイミングまで演出し尽くすような作曲が三つとも同一の制作環境に揃うことは、やはりめったに起こらなかったのである。わずか1作品で美少女ゲームのフォーマットを全面的に塗り替えた極星「To Heart」の眩しさには尋常ならざるものがあり、その軌道上を周回する衛星が光を放つことはまったく許されないかのように思われた。
 本作が生み落とされた時代背景には、このような、「To Heart」的な"何か"をLeaf以外のブランドからオリジナルを乗り越えるかたちで送り出したい、という18禁PCゲーム業界の機運と葛藤が存在していたのである。
 

―「ONE〜輝く季節へ〜」によるビジュアルノベル形式の応用〜恋愛ADV形式の復権

デッサンが狂っているとしか言いようがないイベントCGの例/同い年ほどの女の子だ。あからさまに血相を変えている。(C)Tactics 本作は、「To Heart」から遅れること約1年にして、立ちキャラクター表情画の微妙かつ繊細な描き分けに成功してしまった二つめの美少女ゲーム作品である。それは、世に言う"いたる絵"*42の効能によるところ大だった。その画風は、記号的なデフォルメの効いた癖のある絵柄であって、デッサンが狂っているとしか言いようがないにもかかわらず、キャラクターの微妙な表情をドッド単位で描き分ける技巧については絶妙の一言に尽きた。既に「To Heart」における"タレ目"*43に予兆があったとはいえ、当時の主流とされたアニメ的リアルなグラフィックとは明らかに一線を画するものであり、良くも悪くも18禁PCゲーム業界のグラフィック・モードに新風を巻き起こすものだったのである。
 しかも、本作における立ちキャラクターの表情描写には、「To Heart」より一歩先へと進む新規性が含まれていた。それは、セリフがないタイミングでの表情変化である。本作のヒロインたちは、沈黙したまま微笑んだり、気が付くと涙をこぼしているのだ*44
沈黙したまま少しだけ笑ってくれるヒロインCGの例/「……」(C)Tactics 全文表示型のビジュアルノベル形式を採用した「To Heart」の場合は、ノベル的要素が重んじられていたため、文章による叙述を画像と音楽によって補完的に再現するという表現技法に終始しているきらいがあった。これに対して、画像表示部分とテキストフレーム区別型の恋愛ADV形式を採用した本作では、むしろビジュアル的要素とサウンド的要素に比重が傾いており、あえて文章が沈黙したまま画像と音楽だけでキャラクターの心情を物語るという表現技法が可能になったのである。
 この表現技法が画期的だったのは、従来、恋愛ADV形式はテキストフレームにプレイヤーの意識が集中する結果、キャラクターのポーズや表情の変化が見落とされがちだとされ、テキストとキャラクターに満遍なくプレイヤーの注意が向けられるビジュアルノベル形式の方が優れているとみる風潮があったところに、テキストフレームを沈黙させればプレイヤーの視線は自ずとキャラクターの方に向けられるという逆転の発想を持ち込んで、恋愛ADV形式を復権させたところにある。また、プレイヤーの文章読解力という理性に対するよりも、視覚や聴覚といった感性に対して訴えかける効果の方が大きいという特色を備えており、この点にも「To Heart」との差異を認めることができるだろう*45
 

―「ONE〜輝く季節へ〜」における「To Heart」的フォーマットの応用―

 本作のシナリオ構造を俯瞰してみると、「To Heart」を模倣した側面はやはり大きい。本作の制作期間は1998年上半期の三ヶ月程度といわれており、「学園恋愛ものを作ろうとした」という制作スタッフの当時の認識*46からも、この指摘を裏付ることは容易である。
 本作のシナリオ前半は、ありふれた日常を居心地良くかけがえのないものとして描写することに徹している。学園生活を通じてヒロインたちと出会い、"会話とエピソードの積み重ね"という第二階層を経て、二人は恋に落ちる。まさに「To Heart」的な"ハートフル学園恋愛ストーリー"のフォーマットそのものである。
 ところが、本作の場合、"会話とエピソードの積み重ね"と"叙述の視点とキャラ萌え"のあり方は、「To Heart」とは解釈が異なっている。
 "会話とエピソードの積み重ね"という第二階層について、「To Heart」は日常のささやかな会話や出来事を細かく丁寧に描き、主人公とヒロインが少しずつ共感していく様子を写実的に表していた。これに対し、本作では、日常会話をメインにシナリオを書かなければならないという「To Heart」的フォーマットの制約を逆手に取って、主人公とヒロインたちは延々と甘ったるいギャグと漫才を応酬し合い、ささやかだったはずの日常はどんどんコミカルになっていく
盲目で大食いな「みさき先輩」がおでこをぶつけたイベントCG/「…ううっ、いたいよ〜」「…目がちかちかするよ〜」「…ふえっ…」(C)Tactics また、"叙述の視点とキャラ萌え"という第一階層については、確かに本作でも、幼なじみの同級生は毎朝布団を引っぺがして起こしてくれるし*47、街角で出会いがしらに女の子と衝突してみれば*48実はその娘は転校生でした*49、なんてお約束はむしろ「To Heart」以上に強調されている。ところが、そのヒロインたちのキャラ造形を整理してみると、口癖が「だよ・もん」*50好きな食べ物はワッフル*51といった属性もあることはあるが、むしろ「えいえんはあるよ」、夢見がちな自称「乙女」、PTSD、盲目な大食い、唖障害者、自閉症、登校拒否児、死人といったトラウマ的諸要素のオンパレードとなっており、"萌え要素"と呼ぶには前衛的に過ぎる*52新機軸が飛び出していた。
 

―"ヒロインと主人公の物語"という「ONE〜輝く季節へ〜」のフォーマット―

 もっとも、これらの新要素だけでは、いずれも後世の美少女ゲーム業界に及ぼした影響は多大には違いないが、"叙述の視点とキャラ萌え"と"会話とエピソードの積み重ね"という二段階層式の「To Heart」的フォーマットの応用に留まっていたことだろう。それでは、本作を「To Heart」的なフォーマットから脱却せしめたものは、いったい何だったのか。それは、シナリオ構造において、"叙述の視点とキャラ萌え"と"会話とエピソードの積み重ね"に引き続くクライマックスとして、"ヒロインと主人公の物語"という第三階層を極めて効果的に導入したことに他ならない*53
 つまり、ヒロインや主人公は何らかの理由でトラウマ的な過去を負っており、彼女らはシナリオ終盤、「夢」「回想」「告白」などのかたちで自分自身の秘密を語り、プレイヤーはそれをヒロイン又は主人公の"物語"として聴く。そして、最後にはトラウマの克服が果たされ、トゥルーエンディングを迎えるのである*54

 すべてが自分をこの世界に繋ぎ止めていてくれるものとして存在している。
 その絆を、そして大切な人を、初めて求めようとした瞬間だった。
 

(「ONE〜輝く季節へ〜」デモムービー より)

 本作では、張り巡らせた伏線を消化しながら、プレイヤーは徐々にヒロインたちが抱えるトラウマ的過去へと近付いて行く。そして、主人公との恋愛関係がまさに成就する瞬間、ヒロインは個人としての来歴を主人公に告げ、主人公との恋愛をさらにシリアスな高みへと導く。こうしてプレイヤーは"ヒロインの物語"*55を見届けることになるのだが、これだけならば強弱の程度を度外視すれば過去に類例がないわけでもない。
 本作は一挙に、プレイヤーの視点キャラであるはずの主人公にもストーリーを用意した。本作の主人公・折原浩平は、ヒロインとの絆を求めようとしながら、実は自身のトラウマ的過去との葛藤を繰り広げており、むしろ本作のシナリオ構造は"主人公の物語"を描き切ることに主力が向けられている。"ヒロインの物語"を通して"主人公の物語"を読ませるというシナリオ構成の妙は、美少女ゲームの成熟を5年は早めたといっても過言ではない。
 ここに、"叙述の視点とキャラ萌え"→"会話とエピソードの積み重ね"→"ヒロインと主人公の物語"*56という三段階層式のフォーマットが成立し、わずか1年弱にして「To Heart」的フォーマットからの脱却が果たされたのである。


 どこまでもつづく海を見たことがある。
 どうしてあれは、あんなにも心に触れてくるのだろう。
 そのまっただ中に放り出された自分を想像してみる。
 手をのばそうとも掴めるものはない。
 あがこうとも、触れるものもない。
 四肢をのばしても、何にも届かない。
 水平線しかない、世界。
 そう、そこは確かにもうひとつの世界だった。
 

(「ONE〜輝く季節へ〜」 永遠の世界Ⅰ より)

2.「永遠の世界」というガジェットのもたらした衝撃

「永遠の世界Ⅰ」初登場の瞬間イベントCG/どこまでもつづく海を見たことがある。(C)Tactics 本作における「永遠の世界」とは、主人公たちのいる日常世界とは異なる、非日常的な「もうひとつの世界」の絶対的な存在をにおわす世界観の挿入部である。後の「夢。夢を見ている。」「あの日の麦畑が広がっている」(Kanon)、「この空の向こうには、翼を持った少女がいる。」(AIR)、「幻想世界」(CLANNAD) *57にも見受けられる通り、いわばKeyのお家芸的なガジェットといえる*58
 前章との関連でいうならば、"主人公の物語"にプレイヤーを巻き込んでいく導線としての機能が大きいのだが、この「永遠の世界」の抽象度と難解さ*59はKey四部作の中でも突出している*60。たとえば、オーソドックスな読み方をするならば、次のような解釈になるだろう。
 
 ―主人公・折原浩平は幼少期に妹(みさお)を亡くし、心に大きな絶望・孤独・虚無を抱える。悲しい現実を拒絶し、幸せな思い出の中に留まることを願った彼の幼い心は、あるひとりの少女*61のとの「盟約」をきっかけに、やがて現実世界とは異なるもうひとつの世界―「永遠の世界」を自らの中に作り出した。それは潜在的な「可能性」*62に過ぎない世界だったが、現実世界で浩平が他者と深いを築こうとしたため*63、彼は現実世界に留まるか否かの二者択一を迫られることになる*64。やがて、彼を知るすべての人間が彼のことを忘れてゆき、絆を失った彼は「永遠の世界」へと呑み込まれてしまい、現実世界から消滅する。
「永遠の世界Ⅲ」/また…悲しい風景だ。 (どうしてぼくは、こんなにも、もの悲しい風景を旅してゆくのだろう)(あたしにはキレイに見えるだけだけど…でも、それが悲しく見えるのなら、やっぱり悲しい風景なんだろうね)(ひとが存在しない場所だ)(そうだね)(ひとが存在しない場所にどうしてぼくは存在しようとするのだろう。もっと、ひとの賑わう町中や、暖かい家の中に存在すればいいのに)(さあ…よくわかんないけど。でも、あなたの中の風景ってことは確かなんだよ) (C)Tactics 本作のシナリオは、主人公が「永遠の世界」へ連れ去られた時から始まり、「この世界」にいる彼が「あの場所」での日々を追想するというかたちでストーリーが進行する。最後に、主人公が元の世界へと戻ることを決意できたとき、元の世界に残してきたたったひとりの少女との絆の深さによって現実世界への帰還を果たす。結局、「永遠の世界」とは、それを平行世界や超常現象、神秘、言霊、幻想、妄想、精神疾患*65、臨死といった具体的事実に換言されることを巧妙に回避しつつ*66、"別離と消滅、そして再会"をもたらす暗喩的ガジェット*67として用いられた―。
 
 このように読み取るならば、本作における「永遠の世界」は極めて独創的ではあるものの、決して複雑怪奇なものではないはずである。ところが、「永遠の世界」がどのようにして成り立っているのか―暗喩されたものの正体は何か―については、本作内の判断材料から"合理的"に説明することはできない。というよりも、「永遠の世界」をリアリズム的な事象現象へと矛盾なく還元することは不可能といったほうが早いだろう。そのため、本作はしばしば観念的、抽象的、説明不足、ご都合主義といった批判を浴びることも多いわけだが、にもかかわらず本作終盤で全貌を顕わにする「永遠の世界」がもたらす言い知れぬ不気味さ、切迫感には、そこに疑いようのない圧倒的なリアリティを感じざるを得ない。突拍子もない、いわゆる"超展開"であるはずなのに、ストーリーの流れとしては妙な必然性すら覚えてしまう。それはなぜだろう?*68
「永遠の世界Ⅱ」/進んでいるようで、進んでいない。メビウスの輪だ。あるいは回転木馬。リフレインを続ける世界。 (世界はここまでなんだね…) ぼくは彼女に言った。 (C)Tactics とりあえずここでは、「永遠の世界」とは、日常に対する非日常、現実に対する非現実といった二項対立的なものではなく、近代科学的な事象現象の暗喩ですらないということを指摘するに留めたい。それまでの日常から切り離された世界ではなく、地続きのまま徹底してリアルな場面として「永遠の世界」が描かれている点を看過してはならない*69。このように解釈したとしても、「永遠の世界」を含め本作のシナリオは、確かにリアリズム文学の文脈とは無縁だが*70、少なくとも文芸様式としてのファンタジーとして読み解く限り、まったく齟齬は生じないのである*71 *72
 そして、この点については、作中でも氷上シュンという隠しキャラによって言及されている*73

氷上「それは、『誰にだって訪れる世界』だからだよ」
氷上「だから僕にだってわかるんだよ、それが」
氷上「何もキミだけが、幻想の世界に生きているんじゃない」
氷上「誰だってそうなんだよ」
氷上「すべてが現実なんだよ」
氷上「物語はフィクションじゃない。現実なんだよ」
氷上「わかるかい、言っていることが」
 

(「ONE〜輝く季節へ〜」 氷上シュン・シナリオ より)

 「永遠の世界」は、七つ*74のシナリオを通じ、様々な側面が入れ替わり立ち代わり提示され*75 *76、その全貌が容易に明らかとはならない。しかし、それらは決して暗喩として片付けられるような観念的なものではなく、リアルで具体的な物事そのものに他ならないと一貫して描写されているのである。

*1:通説によると、折原浩平は、幼少期のうちに「父親と死別し、妹が死病を患い、母親が宗教に嵌まって蒸発した」という、美少女ゲームの主人公としては相当異色のトラウマを負っている人物だと推量されている。

*2:軽音楽部。

*3:このシチュエーションを実際に再現した剛の者として、http://sukeroku.hoops.ne.jp/kouhei1.html は特筆に値する。

*4:「そして、そこでも、ずっとそばにいてくれたキミ。」 通称「だよもん星人」。

*5:「乙女を夢見ては、失敗ばかりの女の子。」

*6:「ただ一途に何かを待ち続けているクラスメイト。」

*7:「光を失っても笑顔を失わなかった先輩。」 通称「みさき先輩」。あと、おでこ。ところで、最近こそ「涼宮ハルヒの陰謀」の長門有希を推す声が大きいものの、カレーの大食いといえば、「ONE〜輝く季節へ〜」の川名みさき先輩、「月姫」の知得留先生、もといシエル先輩、「ひぐらしのなく頃に」の知恵留美子先生というキャラクター系譜が存在することを看過してはならない。

*8:「言葉なんか喋れなくても精一杯気持ちを伝える後輩。」

*9:「大人になろうと頑張り始めた泣き虫の子。」

*10:以下、単に「本作」と呼ぶときは「ONE〜輝く季節へ〜」を指す。

*11:「MOON.」(Tactics,1997年)に引き続く「心に届くADV第2弾)である。

*12:「MOON.」(Tactics,1997年)を含めて五部作と見る向きもある。なお、「planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜」(Key,2004年)は実験作的な意味合いが大きく、「智代アフター〜It's a Wonderful Life〜」(Key,2005年)は一応「CLANNAD」の外伝なので、ここでは割愛しておく。

*13:拙稿「競馬サブカルチャー論・第08回:馬と『同級生』〜18禁ゲームの始祖鳥/馬は”お嬢さま”と”ポニーテール”萌えを導いた〜」(2004年,d:id:milkyhorse:20041219:1103443200)、拙稿「競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』〜Key的ジュブナイル主題の集大成/人生が競馬の比喩だった〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060406:p1)を参照されたい。

*14:「初心者のための現代ギャルゲー・エロゲー講座 第2集 ビジュアルノベルの完成」(http://www.kyo-kan.net/column/eroge/eroge2.html)も参照。

*15:拙稿「競馬サブカルチャー論・第16回:馬と『Fate/stay night』〜「燃え」によるビジュアルノベルの復興/英雄的"馬"表現の金字塔〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060417:p1)において、ビジュアルノベル史を前史・黎明期・発展期・繁栄期・停滞期・復興期に沿って概観しているので、参照されたい。また、「河原崎家の一族」については、拙稿「競馬サブカルチャー論・第09回:馬と『河原崎家の一族 2』〜マルチエンディングシナリオの極北/滅びは馬によって預言されていた〜」(2004年,d:id:milkyhorse:20041224:1103821200)も参照されたい。このほか、相沢恵「永遠の少女システム解剖序論」(2000年,http://www.tinami.com/x/review/02/page1.html)、「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/)、「「同級生」から「To Heart」までにおける恋愛ゲームの変遷」(2001年,http://web.archive.org/web/20041030195950/http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe10.htm)を参照。

*16:1992年以降について解析した論考として、「美少女ゲームパラダイムは4年で交代する〔仮説〕」(2006年,d:id:genesis:20060406:p1)を参照されたい。

*17:Wikipediaメタフィクション」の項を参照。

*18:Key的ジュブナイルにおける「現実受容」という主題と「家族になる」という解答との関係については、拙稿「競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』〜Key的ジュブナイル主題の集大成/人生が競馬の比喩だった〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060406:p1)を参照されたい。

*19:このサイトでは一部、AQUAPLUS/Leaf製品の画像素材を加工・引用しています。また、これらの素材を他へ転載することを禁じます。

*20:実質としてのビジュアルノベル。この下位概念として、テキスト表示形式に応じて、形式としてのビジュアルノベル(全画面)とADV=アドベンチャーゲーム(画面下部限定)の二つに分かれる。

*21:正確には、音楽と音声とを併せて「音」と端的に呼ぶべきだが、便宜上「音楽」という用語を用いることにする。

*22:「河原崎家の一族」「野々村病院の人々」,1993年〜1994年

*23:「雫」「痕」,1996年

*24:「雫」制作スタッフの下川直哉氏(当時,Leafプロデューサー)と高橋龍也氏(当時,Laefシナリオライター)である。「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/page1.html)を参照。

*25:形式としてのビジュアルノベル。画面下部に数行分しかテキストを表示しないADV=アドベンチャーゲーム形式と峻別される。

*26:服装変化は作中の場面転換や時間の経過を表現するために利用されることがあったが、表情変化はフラグやパラメーターに対応して頬を赤らめたりする程度であり、「電子紙芝居」の域を脱してはいなかった。

*27:「この時、ポルノグラフィとしての美少女ゲームも大きく変質した。ポルノ描写の地位が主から従へと移行したのだ。これは、ポルノ描写が薄くなったとかおざなりになったとかいう単純な問題ではない。ゲームの面白さを主に感じる部分が、フルサイズのCGが表示されているイベントシーンではなく、立ちキャラクターと背景が表示されている日常シーンへと移行したのだ。」,元長柾木「回想―祭りが始まり、時代が終わった」((2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』155頁)より。

*28:高橋龍也氏発言「若い恋愛を書けば、男の立場から言うと…語るドラマもなにもないんです。もしくは相手を束縛したいとか、独占欲とか、そういう方向で書くしかないんですけど。そういうのは書いてもしょうがないと思ったんです。だから『To Heart』でやりたかったのは「一緒にいて楽しい」ということなんです。性欲を抜きにしても、一緒にいて楽しい女の子を。」「そういうときに重要なのはコミュニケーションだと思うんですよ。それを知ってるから、みんな…常にコミュニケーションを持ちたがってると言うか。誰かといないとつらい時代なのかな、と思っちゃたりもするんですけど。…最終的にそういう誰かがいるってだけで、世界が楽しくなる。モノクロで取り込み風の、冷たい背景のなかに、くるくる表情の変わるキャラクターがいるという対比があることで、すごくキャラクターが浮き出てきて、世界に味が出てくるんです。」「『To Heart』は問いかけなんです。こういう空間をどう思いますか、という。それで良いと思うならば、その空間はなぜ構成されているのかを考えると、結局コミュニケーションを大事にしてるんですよ。」,「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/page5.html)より。

*29:To Heart」の場合、主題と言い換えても問題ない。

*30:「何事もなく繰り返される日常に幸福と快楽が潜んでおり、ギャルゲーはそれを表現しうるということ。それが『To Heart』の発見であり、またギャルゲーというジャンルが獲得しゲームの作品領域に付け加えた新たな地平でもあった。」,アシュタサポテ「『ONE〜輝く季節へ〜』(2)」(2000年,http://astazapote.com/archives/200004.html#d17)より。

*31:1979年生まれのPCゲーム評論家・ライター。別名、相沢恵。「生きる『動物化するポストモダン』」と呼ばれているらしい。

*32:正確な言い回しは「キャラクターの層(視点と図像)」だが、分かりにくい表記であるため、この通り書き直してみた。

*33:正確な言い回しは「コミュニケーションの層(日常と関係性)」だが、分かりにくい表記であるため、この通り書き直してみた。

*34:正確な言い回しは「トラウマの層(記憶と物語)」だが、分かりにくい表記であるため、この通り書き直してみた。

*35:佐藤心「オートマティズムが機能する 2」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』178頁)より。初出は『新現実 vol.2』(2002年,角川書店)。

*36:PC。プレイヤー・キャラクターの意。

*37:NPC。ノン・プレイヤー・キャラクターの意。

*38:"萌え要素"を"データベース消費"するという思考ルーティーンの分析については、東浩紀動物化するポストモダン」(2001年,講談社現代新書)が詳しい。また、Ragna Archives Network - Characters Search(1997年〜,http://www5.big.or.jp/~seraph/ragna/ragna.cgi)がまさにその典型例である。

*39:その典型例がトラウマである。たとえば、ヒロイン又は主人公の秘密―トラウマ的過去が「夢」「回想」「告白」といったかたちで明らかにされる、というパターンを挙げることができる。

*40:このサイトでは一部、AQUAPLUS/Leaf製品の画像素材を加工・引用しています。また、これらの素材を他へ転載することを禁じます。

*41:この点に関して、「To Heart」には、たとえば「都合の良いキャラ設定が最初から配置されていて、ヒロインが据膳状態で楽園願望を満たしてくれるゲーム」というような表層的な評価が散見されるが、やはりこれは「To Heart」の本質を捉え誤った誤読といわざるを得ない。「To Heart」の主人公・藤田浩之に対して、ヒロインがシナリオ開始当初から無条件の恋愛感情を寄せているわけでもなんでもないことからも、この指摘の正しさは明らかである。「To Heart」を"キャラ萌え"という文脈で論じるときは、"ヤマなし・オチなし・意味なし"といった類に思考停止するのではなく、"あらすじがない"ということの凄味を想起しなければならないだろう。「To Heart」の面白さは文章から伝わるものではなく体感するしかない、とはよく言ったものである。

*42:原画家樋上いたる氏の作風を総称する用語。http://blog.livedoor.jp/geek/archives/498261.html はその人気の一例。

*43:原画家水無月徹氏の作風によるところが大きい。

*44:当時のリアルタイム・プレイヤーの興奮については、たとえば次のように語り継がれている。「里村茜の場合だと、一緒にお弁当を食べるシーンがあって、三回目ぐらいでようやく少しだけ笑ってくれる。むっつりしていた口許が心持ち上がるだけなんですが、感動のあまりガッツポーズした記憶があります。まさに、ドット単位で変わった表情に狂喜乱舞した。」,東浩紀佐藤心更科修一郎元長柾木「共同討議 どうか、幸せな記憶を。 美少女ゲーム運動1996-2004」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』92頁)より。

*45:この特色こそが、「To Heart」のフォーマットから本作を脱却させる一助を担ったわけだが、この点については後述する。

*46:「当時、タクティクス内で次回は恋愛物を作ろうという動きがありました。その理由は、その時作っていたゲームがシリアスで暗めな話だったので、次回作は明るく恋愛物で行こう、という極めて単純な理由だったのです。」,久弥直樹「One's Memory あとがき」(1999年,同人誌)より。

*47:「ほら、起きなさいよーっ」「ほらぁーっ!」

*48:「ズドーーーーーーーーーーーーーンッ!!」

*49:「ぶつかった出逢いはdramatic?」と宮内レミィ(To Heartのヒロインの1人)も言っているではないか。

*50:世に聞こえし「だよもん星人」。後世のKeyのお家芸うぐぅ」「あうーっ」「あははーっ」「そういうこと言う人、嫌いです」「が、がお…」「にはは」「観鈴ちん、ぴんち」「わぷっ」「にょわ」「ぴこ〜」「最悪ですっ」等のさきがけである。

*51:後世のKeyのお家芸「たい焼き」「肉まん」「牛丼」「イチゴサンデー」「アイスクリーム」「どろり濃厚 ピーチ味」「お米券」「あんパン」「コーヒー」等のさきがけである。

*52:もちろん、極端に記号化されたキャラ設定に対しては、あざといという批判が向けられることもある。東浩紀動物化するポストモダン」113頁(2001年,講談社現代新書)による分析も参照されたい。

*53:To Heart」以前のビジュアルノベル―「雫」(Leaf,1996年)と「痕」(Leaf,1996年)―でも、もちろん"ヒロインの物語"は存在していた。むしろ、"ヒロインの物語"という第三階層だけが突出していたくらいである。"叙述の視点とキャラ萌え"の第一階層もそれなりにあった。つまり、「雫」「痕」は第一階層と第三階層のみで構成されており、"会話とエピソードの積み重ね"の第二階層が欠落していた。これらに対し、「ONE〜輝く季節へ〜」は第一階層、第二階層、第三階層を総合的にバランス良くシナリオ構造に組み込んだ点に新規性があったのである。

*54:佐藤心「オートマティズムが機能する 2」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』179頁)より。初出は『新現実 vol.2』(2002年,角川書店)。

*55:今木「雫と語り手」(2000年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#8)より。

*56:ほのぼのとした恋愛パートでプレイヤーを感情移入させ、終盤の劇的な別れと再会で感動させる、と言い換えても構わない。"感動系"については、後述する。

*57:「永遠の世界」と「幻想世界」の比較については、then-d「〜既視感(デジャ・ヴュ)と記憶と光たち〜『CLANNAD』追究への取りかかり 」(2004年,http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/html/CLANNADpre.html)などを参照されたい。」

*58:これらを総称して「内閉世界」と呼ばれることがある。佐藤心「オートマティズムが機能する 2」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』182頁)より。初出は『新現実 vol.2』(2002年,角川書店)。この概念は村上春樹の小説「ノルウェイの森」(1987年)でも散見される。d:id:imaki:20051202#p1 (2005年)も参照されたい。Herbert Lionel Adolphus Hartが『法の概念』の中で触れる「内的視点・外的視点」との比較も有益かと思われるが、筆者の力量ではまとめることができなかった。

*59:「永遠の世界」を考案した麻枝准氏(tactics所属シナリオライター,当時)は、Brian Wayne Transeau「Flaming June」というエピックハウス楽曲から着想を得たと述べているが、村上春樹ノルウェイの森」(1987年)と「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年)との類似も指摘されているところであり、いずれも解読の手がかりにして構わないだろう。麻枝准涼元悠一「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」(『カラフル・ピュアガール』2001年3月号,ビブロス)より。

*60:たとえば、「Kanon」ならば「誰の夢か」「誰の力か」、「AIR」ならば「The 1000th Summer―」、「CLANNAD」ならば一ノ瀬博士夫妻による「超統一理論」といったふうに、それなりに明確なヒントが提示されている。

*61:この少女が誰であるかは長森瑞佳シナリオでのみ明言される、といいたいところだが、折原浩平は妹のみさおと幼なじみの瑞佳とを混同して記憶しているふしがあるので、実は断言できない。さらに、川名みさき・里村茜・上月澪の各シナリオ(いわゆる久弥三部作)におけるバッドエンドで提示される「永遠の世界」の現れ方を踏まえると、統一的な解釈は不能とすらいえよう。たとえば、川名みさきシナリオ(バッドエンディング)における折原浩平の「永遠の世界」への消滅シーンの一例を参照されたい。

*62:「最初は小さな違和感だった。」

*63:「オレの中で何かが警笛を発していた。」

*64:「少しずつそれでも確実に存在感を増すもう一つの世界。」

*65:「雫」(Leaf,1996年)が現実世界と「狂気の世界」との対比を生々しくぶち上げてしまったことを想起すれば、本作における「永遠の世界」の洗練さが際立ってくるのではないだろうか。

*66:相沢恵「永遠の少女システム解剖序論」(2000年,http://www.tinami.com/x/review/02/page7.html)ほか。

*67:「タクティクスMOON.&ONE〜輝く季節へ〜設定原画集」(1998年,コンパス)収録の企画書より。

*68:アシュタサポテ「『ONE〜輝く季節へ〜』(1)」(2000年,http://astazapote.com/archives/200004.html#d02)より。

*69:「作品をいたずらに深く読み込もうとした挙句与えられてもいない説明をでっち上げてしまう前に、このラストが作中で具体的にはどのように描かれていたかというごく単純な点を確認しておきたいのである。」,アシュタサポテ「『ONE〜輝く季節へ〜』(1)」(2000年,http://astazapote.com/archives/200004.html#d02)より。

*70:というよりも、そんな読み方をするだけではつまらないだろう。

*71:「 「存在」する以上、その存在を疑うことはもはや無意味であり、そこに「説明」を求めることもまた、無意味となります。永遠の世界は実在する以上、その「存在」を幾ら説明したところで無意味でしょう。実際、現実世界も似たようなものです。説明は無意味であり、重視されるのは実践のみです。現実は存在を疑われず、ただ、存在することのみを断じられ、ただ実践するのみです。ファンタジーとしての『ONE』も現実社会と同じく、説明されることなく、ただそれが「ある」と断じるのみなのです。ファンタジーとしての『ONE』とは、現実社会のごとき厳しさを持った物語だったのです。これは、ある意味徹底したリアリズムでしょう。」,火塚たつや「永遠の世界の向こうに見えるもの 総論 」(2001年,http://tatuya.niu.ne.jp/review/one/eien/outline.html)より。

*72:浩平「ふっ…あまいぞ長森」/疑いのまなざしを、悟りきった表情で返す。浩平「世の中にはな、科学では解明できないような不可思議なことがたくさんあるんだ」/長森「…そ、そうなの?」/浩平「ああ、オレはこの目で見た」/長森「浩平がそういうのなら…そうなんだ」/浩平「ああ…オレも未だに信じられないけどな…」

*73:ある意味、この隠しシナリオは、本作における最も難解なシナリオである。特に、ラスト・シーンの解釈次第では、「永遠の世界」と「絆」との相関関係が根底から覆されることになりかねない危険をはらんでいる。この短いシナリオを蛇足と切り捨てるのはもったいない。

*74:6人のヒロインと氷上シュンを足して、7人のシナリオという意味である。

*75:折原浩平が「永遠の世界」に呑み込まれていく過程ひとつを見ても、彼がひとり諦念の境地に達し、自己の内面から「永遠の世界」に浸食されていくことを受容しているかのような描写もあれば、突如として彼にとっての外部・異界から「永遠の世界」が覆い被さってくるかのような描写がなされることもある。前者の例として上月澪シナリオにおける「永遠の世界」を予感させるシーンの一例を、後者の例として川名みさきシナリオにおける「永遠の世界」を予感させるシーンの一例を参照されたい。

*76:「永遠の世界」から主人公が日常世界へ帰還するためには、ヒロインが主人公との絆を待ち続けでいるだけでは駄目で、主人公もヒロインとの絆を心底求めていなければならないという条件があるのだが、その側面の意味するところを明確に物語るのは里村茜シナリオだけであるというのも、この一例である。