競馬サブカルチャー論・第20回:馬と『Kanon』その3〜競馬という営みもまた,“思い出”の中に還っていく〜

競馬サブカルチャー論とは

 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで,歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し,数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と,その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
 「……」「だったら…」「ボクの…お願いは…」深い雪に覆われた街で語られる小さな奇跡―“思い出”に還る物語。―馬は,常に人間の傍らに在る。
 その存在は,競馬の中核的な構成要素に留まらず,漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では,サブカルチャーの諸場面において,決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
 ※本稿には,PCゲーム版の内容に関する強烈なネタバレが含まれています。本文に施されている注釈は,熟読したい人向けです。なお,ゲーム版を"水瀬名雪"→"沢渡真琴"→"川澄舞"→"月宮あゆ"→"美坂栞"*1の順でクリアした後の読者を想定しています(え)。
 
 1.Visual Art's/Key 『Kanon』より
 2."ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon」
   1) 文芸様式としてのファンタジー
  1:「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所"
   1) ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論
  2:「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語
   1) 月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成
 3.「Kanon」における"奇跡"のガジェット〜小さな"奇跡"の物語
  1:"奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか
  2:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(1)〜あり得ないはずの状態
  3:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(2)〜超常的な救済
   1) 水瀬名雪シナリオの場合
   2) 月宮あゆシナリオの場合
  4:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(3)〜日常の中にある非日常的な状態
   1) 久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較
  5:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(4)〜日常的な,奇跡のように思える偶然
   1) 世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい
   2) あらゆる物語可能性に想いを馳せる
  6:あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない?
   1) "同一世界解釈/確定的過去共有"とは
   2) "多世界解釈/遡及的過去形成"とは
   3) マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路
   4) 「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来
  7:それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな"奇跡"の物語
   1) 7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?
 4.馬と「Kanon」
 5.主な先行文献の相関関係


― あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない? ―

 ところで,「Kanon」に含まれるエモーショナルな側面として,「あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない」というテーゼがまことしやかに囁かれることがある。例えば,「あゆが助かるときは,栞が助からないんだよ」「名雪の幸せは,あゆの自己犠牲のおかげなんだよ」「栞が助かるとき,あゆは助からず,舞は夜の校舎で剣を振り回し続けている」といった言及のされ方が,それである。
 このような言及のされ方にどれほどの意義があるかはさておき,このテーゼの是非を巡るかたちで,本作のマルチシナリオ構成がいわゆる"同一世界解釈/確定的過去共有"と"多世界解釈/遡及的過去形成"のどちらに依拠していると考えるべきかについて,見解の相違が見受けられることも事実である。そこで,本稿前半部の最後として,メモランダム形式でこの点にも触れておくことにしたい。
 "同一世界解釈/確定的過去共有"と"多世界解釈/遡及的過去形成"とは,マルチシナリオ方式を採用するビジュアルノベルにおける分岐シナリオ相互間の関係を説明しようとする二つの有力な見解である。なお,以下の検討は,エヴェレットの多世界解釈コペンハーゲン解釈ライプニッツ可能世界論といった哲学・量子力学における用法とは一切無関係であり,便宜上,ビジュアルノベルにおけるマルチシナリオ解釈方法論に射程を特化した用法に過ぎない点に注意されたい。

…"同一世界解釈/確定的過去共有"とは…

 "同一世界解釈"とは,マルチシナリオの下では,単一の確定的な過去と設定が存在し,時系列に沿ってシナリオが分岐するうちに,パラレルワールド(並列世界)を形成するという理解である*2。選択肢に基づく主人公の行動は未来への分岐に過ぎないので,選択肢によって過去の出来事が遡及的に差し替えられることはない。その意味で,"確定的過去共有"型と呼ばれることもある。
 従って,プレイヤーは複数のシナリオを読み重ねることによって,断片的な情報を相互補完的に解釈し,客観的に実在する唯一の過去や設定を知ることができる。あるシナリオで語られる過去や設定が他のシナリオで語られないのは,発見するための機会や思い出すきっかけ*3がなかったからに過ぎない。あえていうならば,プレイヤーは主人公に成り代わって,登場人物たちの物語を順番に聴いて回るようなものである。
 そして,これはビジュアルノベルのシナリオ作成技法から論拠付けられるらしい。すなわち,マルチシナリオ方式のビジュアルノベルの制作過程においては,世界観・舞台設定の企画立案が先行し,そのプロットに沿った共通シナリオ部分を冒頭に配置することが通例である*4。従って,特に制作者意思が"遡及的過去形成"を採用していることが明らかでない限り,「主人公はルートによらず他の登場人物全員と過去を共有する存在である」というテーゼは有効であり,ひとつの確固たる過去と設定に基づいたキャラクター群が織り成す物語可能性系としてマルチシナリオの相互関係は把握されるべきだというのである*5。代表的な作品例としては「痕」(Leaf,1996年)がある。
 この文脈に沿って「Kanon」のマルチシナリオを読み解くと,プレイヤーはふと,栞が助かるのにはあゆの自己犠牲が伴い,あゆが祐一と結ばれるときは名雪の朝寝坊が最もひどくなり,舞が救われるとき真琴は人知れず消滅する,といったセンチメンタルな物語可能性を想起してしまう。ちなみに,ササキバラ・ゴウ氏が「主体性の結果として痛み」が残る例として「Kanon」を挙げるときは*6,この"同一世界解釈/確定的過去共有"が所与の前提とされている。

…"多世界解釈/遡及的過去形成"とは…

 "多世界解釈"とは,マルチシナリオの下では,選択肢以前の主人公は複数の不確定世界の重ね合わせ状態の中にあり,時系列に沿ってシナリオが分岐するうちに,不確定だった可能性が唯一の世界へと収束するという理解である*7。選択肢に基づく主人公の行動は,未来だけでなく過去への分岐でもあるので,選択肢によって過去の出来事が遡及的に形成されることになる。選択肢によって分岐した途端,シナリオごとに過去や設定が差し替えられる以上,一方の選択肢を選んだ後の個別シナリオで判明する過去や設定は,その選択肢を選ばなかったときの他の個別シナリオでは最初からなかったことにされる。その意味で,"遡及的過去形成"型と呼ばれることもある。
 従って,相互のシナリオは完全に独立しているので,プレイヤーは全てのシナリオを読まなくとも,個別シナリオ単体を読むだけでストーリーを完結させることができる。あるシナリオで語られる過去や設定が他のシナリオで語られないのは,最初から存在しないからである。あえていうならば,プレイヤーによる選択肢に,全能の神にも等しい力を認めるようなものである*8
 そして,これはビジュアルノベルのシステム・スクリプト生成上の制約から論拠付けられるらしい。すなわち,ビジュアルノベルの主人公(プレイヤーキャラクター)の人格は,最初はまっさらな空白状態にならざるを得ず,プレイヤーによる選択肢を反映して徐々に内面を形成していくほかないというシステム上の制約がある*9。とするならば,個別シナリオ上の「過去」や「設定」は,ツリー構造に即していえば枝の部分に個別バラバラに生起するようなものでしかない以上*10,「選択肢の分岐次第ではそのルートから抹消される登場人物の過去がある」というテーゼがはたらくので,マルチシナリオの相互関係を考慮すべきではないというのである。代表的な作品例としては,「WHITE ALBUM」(Leaf,1998年)が考えられる。
 この文脈に沿って「Kanon」のマルチシナリオを読み解けば,例えば水瀬名雪シナリオを選んだときは,栞は風邪をひいていただけの健康少女であり,あゆはただの鯛焼き泥棒であり,真琴も記憶喪失の家出少女か何かであり,舞は夜の校舎で剣を振るうのが趣味の変な女の子だったことにしておくことができる*11。ちなみに,東浩紀氏は,このような"多世界解釈/遡及的過去形成"を採りたがるマルチシナリオ型ビジュアルノベルのプレイヤーの心裡状態を分析して,「解離的な心の動き」と名付けている*12

…マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路…

 以上の通り両説の概説を施してみたが,現実問題として,この両説の当否を,具体的な作品への当てはめを念頭に置かないまま,抽象論のレベルで検討することには実益がない。なぜならば,両説はそれぞれビジュアルノベルのゲームシステムに固有の特色を見出して,自説の一般的な論拠付けとして援用しようとするが,以下の通りいずれも説得的な論証には成功していないからである。
 "多世界解釈/遡及的過去形成"説は,選択肢によるマルチシナリオの分岐にビジュアルノベルの特権性を見出すことが前提だったのだが,近年,その特権性に拘泥しない作品が相次いで商業的成功を収めるに至り,この概念の凡用性はおよそ喪失してしまったといわざるを得ない。その作品とは,「Fate/stay night」(TYPE-MOON,2004年) *13と「ひぐらしのなく頃に」シリーズ(07th Expansion,2002〜2006年) *14である。
 もともと「AIR」(Key,2000年)の時点で,"DREAM編→SUMMER編→AIR編"という一本道ルートへの志向が顕在化していたのだが,このときはKeyの制作者が「このままシナリオ重視で突き詰めていくと…出来の悪いアニメーションになってしまう」*15という問題意識を抱いたため,次回作以降での一本道ルートの追求が回避されたという経緯があった。
 ところが,「鬼哭街」(ニトロプラス,2003年)が商業作品のビジュアルノベルとしては初めて選択肢のない完全な一本道ルートのシナリオ構成で発売されると,その翌年には「Fate/stay night」が,一見マルチシナリオ方式を装いつつ事実上の一本道ルートを敷き,選択肢による分岐に"BAD END"直行のトラップの役割しか与えないという構成で発売された。さらに,2002年から徐々に同人市場を席捲したPC版「ひぐらしのなく頃に」シリーズに至ると,選択肢次第で八つの個別シナリオに分岐するマルチシナリオ型ビジュアルノベル1枚としても成立可能だった内容が*16,選択肢の存在しない一本道ルート型のビジュアルノベル8枚*17に分割されてしまったのである。
 このようなビジュアルノベルパラダイム*18を巡る歴史的経緯に照らすと,スクリプト生成といったシステム上の制約云々以前に,プレイヤーの選択によるシナリオ分岐にビジュアルノベルの特権性を見出そうとする前提自体が,もはや凡用性を失っているをいわざるを得ないのである。
 他方で,"同一世界解釈/確定的過去共有"説も万能ではない。というのも,連載漫画のたとえ*19を持ち出すまでもなく,制作現場で企画立案当初のプロット通りにシナリオが書き下ろされるとは限らないし,また,各シナリオの後半部では単体ごとのクライマックスを盛り上げるために設定の後付けが施されることは間々あることであり,そのまま共通シナリオ部分との間の矛盾・不整合が補正されないことも少なくないからである*20
 以上の検討からも明らかな通り,具体的な作品への当てはめを待たずに,抽象論のレベルで両説の当否を決することはできないし,する必要もないのである。
 とするならば,結局のところ,"同一世界解釈/確定的過去共有"と"多世界解釈/遡及的過去形成"―いずれのマルチシナリオ構成を採用しているかについては,ビジュアルノベルの各作品ごとに,具体的な当てはめを行なって判断するしかない。そのための判断基準については,まず第一に,シナリオ本文を文理解釈することによって判定し,文理解釈で真偽不明な場合には,次善の策として,作品内外で明らかにされている制作者意思によって判定することが,比較的穏当な解釈を導くことができ,妥当するだろう*21 *22

…「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来…

 さて,肝心の「Kanon」におけるマルチシナリオ構成だが,結論から先に言ってしまえば,本作の場合は"同一世界解釈/確定的過去共有"が採用されていると考えた方が無難である。選択肢による因果の遡及的形成という見方がエレガントに決まる*23作品もあるかもしれないが,それはまた別の話である。
 そもそも,本作には冒頭の共通シナリオ部分が存在するし,どの個別シナリオに分岐するにしても,全シナリオに共通する伏線として"月宮あゆによる「夢。夢を見ている」というモノローグ"が挿入されていることに変わりはない*24。仮に,ここで"多世界解釈"を採ろうとするならば,この夢のモノローグは各シナリオに応じてバラバラに解釈できるような内容でなければならなかったのである。
 また,月宮あゆシナリオ以外に分岐した場合には,必ず“あゆ”が「探し物,見つかったんだよ」と祐一に別れを告げにくることになる。少なくとも,この「探し物」については,ひとつのシナリオで示された謎をべつのシナリオで解決するという構成が採られているわけであり,これを"多世界解釈"で片付けられてしまうと,べつのシナリオの出来事が文字通り別の世界の出来事になってしまい,謎解きが不可能になってしまう*25
 さらにいえば,本作のマルチシナリオ構成をこのように解したとしても,各シナリオごとに描写される登場人物の設定や過去相互間に深刻な矛盾が見受けられるわけでもないし*26,その上,本作のシナリオライターが"確定的過去共有"を志向していたことも明らかなのである*27。特に弊害が見受けられないからには,制作者意思を尊重してしかるべきだろう。

 言ってみると『Kanon』って,世界観に穴が開いてるじゃないですか。
 どうやっても,どうしようもない穴が開いていると。
 でも,その穴があまりにも美しい穴なんですよ。
 それで愕然としたんです。
 この穴は偶然に開いたものなのか,それとも人為的に開けたものなのか見分けがつかない。
 もし人為的に開けたのなら,この人たちは天才集団だと思ったわけです。

(涼元悠一氏発言-「ARIA」vol.1- より)

 しかし,本作が"同一世界解釈/確定的過去共有"に基づくからといって,冒頭の「あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない」というテーゼが唯一絶対の解釈であるということにはならない。
 本稿で既に述べたことの繰り返しになるが,「Kanon」における表現技法の最大の特色は,実況調一人称/一人称独白調の文体が人間の深層心理に働きかける効能の大きさ*28を見切った上で,暗喩やほのめかし*29,台詞のダブルミーニング*30を駆使して,選ばれなかった分岐の先にあり得たかもしれない他の物語可能性をプレイヤーに想起させるストーリーテリングの妙にある。
 すなわち,"奇跡"という言辞ひとつを巡っても明らかだったように,「Kanon」では,テキストの解釈の幅があらかじめ許容されており,むしろそうした解釈の幅を大きく残すことが,マルチシナリオ構造の全体を通じて徹底されている*31。そこでは,個々のテキストのみではなくシナリオ全体をいかに解釈し再編集するかの遊びが,プレイヤーに委ねられているのである*32
 結局,「Kanon」のシナリオからは,「aだから,bである」という確定的な因果性ではなく,あくまでも「Aだから,Bかもしれない」という推測的な関係性しか,直接読み取ることはできないのだ。後者の関係性の推測という思考パターンの方が,むしろ我々の生の事実認知プロセスに即しているのだが,にもかかわらず,「あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない」という断定的なテーゼが語られることがあるとするならば,それは「Kanon」の物語では直接語られることのなかった,他にあり得たかもしれなかった物語可能性のバリエーションの一つがひとり歩きしたものに過ぎない*33"みんな助かる"のは勿論「Kanon」とは別の物語だが,"誰かが犠牲になる"というのも,それは「Kanon」とは異なる別のお話なのである*34
 

― それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな“奇跡”の物語 ―

 夕焼けに霞む表情は,分からない。
「祐一さん,ついてきてください」
 それだけを言い残して,“しおり”の姿が夕焼けに霞む。
「どこに,行くんだ?」
 俺の言葉に,“しおり”が振り返る。
「思い出が,集まる場所です」*35

(久弥直樹『if 〜Kanon another story〜』 より) *36

 ところで,元長柾木氏は,美少女ゲーム*37の"ゲーム性"を構成するフォーマットとして,シュミレーション性*38,アクション性*39,二次創作可能性*40,反復性*41の四つを挙げている*42。元長氏の史観によれば,「Kanon」の歴史的意義は第4の要素"反復性"の獲得によって美少女ゲームのフォーマットを完成させた作品ということになるのだが,ここではあえて,元長氏のいう第3の要素"二次創作可能性"―キャラクターやシチュエーションについてプレイヤーが想像を広げること―を大いに刺激する吸引力が本作にあったということを,強調しておくことにしたい*43
 すなわち,本作を読了したプレイヤーに,シナリオ各編で直接言及されなかったはずの物語について,あれこれと想像を逞しくさせるだけの何かがあったとするならば,それだけの物語可能性を許容するに足る*44壮大な世界観が「Kanon」において構築されていたと見るのが,素直なものの見方ではないだろうか。
 非公式設定ながら,シナリオライターの1人である久弥直樹氏は,自らの執筆した同人誌のひとつに『SEVEN PIECE』*45というタイトルを付けている。ひょっとすると,久弥氏にとって「Kanon」という物語は本来1000ピースぐらいの巨大な世界観なのであって,自身の執筆した小さなエピソード群は,そのほんの数ピースに過ぎなかったのかもしれない*46。少なくとも,「Kanon」という世界観の懐の深さからすれば,各シナリオで直接描写されたストーリーは,あり得たかもしれない物語可能性のほんの一部―冬の街に降り注ぐ思い出のかけら*47―に過ぎなかった,ということくらいはいえそうなものである。
 例えば,月宮あゆENDのときに限って,なぜか“あゆ”の名雪に対する心情*48が垣間見えたりすることがあるが,だからといって,水瀬名雪ENDのときにあゆがどんな願い事をして,その願い事が叶ったかどうかについては,シナリオから真相を読み取ることはできない。それはもっぱら,個々のプレイヤーの想像に委ねられているのである。
 ひょっとしたら,「ボクの,願い」はあゆENDと同じく「ボクのこと,忘れてください」だったかもしれない。あるいは,そっと秋子さんの回復を祈ってくれたのかもしれない。それから,秋子さんが回復したのは,あゆの力による超常的な救済だったかもしれないし,彼女の願いとは無関係に偶然助かったのかもしれない。それに,「永かった夢が終わりを告げる」といっても,祐一との再会という思い出は持ち帰ることができたのだから,名雪ENDでもあゆは目覚めるかもしれない。
 ここでは,どのような組み合わせになっても,それ相応のテーマを読み取ることができるはずである。シナリオがあえて沈黙している部分をどう解釈しようとも,それはプレイヤーの自由で構わない。ただし,それはあくまでも,あり得たバージョンの一つに過ぎないのであって,他のバージョンを排斥するものであってはならない。このような解釈の幅こそが,まさにあらゆる物語可能性を想起するということの正体なのである。
 このような発想に乗じるときに拡がる「Kanon」の物語可能性の何と豊穣なことか。
 たとえ他のシナリオに分岐することになろうとも,美坂栞と祐一が必ず校舎の中庭で再会するのはどうしてだろう。佐祐理さんという親友と出会うことができた川澄舞は,祐一と再会しようがしまいが,少なくとも「ひとりぼっち」ではない。沢渡真琴ENDのラストシーンで,"眠る真琴と寄り添うぴろ"の画の意味するところは何か。祐一が代わりに見付けないとき,“あゆ”が自力で発見する「探し物」とは一体何なのか。「7年前の出来事」を祐一が思い出さないエンディング*49が肯定されている真意は,どこにあるというのだろうか(本作には"BAD END"という名のエピローグはひとつもないのだ)。*50
 確かに,本作では,あらゆる物語可能性の分岐先で,"奇跡"の物語が囁かれることになるだろう。ただし,果てしなく残酷で,果てしなく優しい現実の偶然性が徹底され,悲劇から喜劇,幸福劇に至るまであらゆる日常を否定せず,かけがえのないものとして受け容れるKanon」の大きな物語にとって,それはまるで手のひらからこぼれ落ちる雪のかけらのように,本当にささやかで小さな"奇跡"の物語に過ぎないのである。

…7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?…

「7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?」

(第2期TVアニメ版「Kanon」(百花屋京都アニメーション) -第1話「白銀の序曲 〜overture〜」- より)

 2006年は,「Kanon」にとって,原作PCゲーム版が発売されてから,ちょうど7年目という節目の年に当たる。相沢祐一が雪の街を離れ,再び帰って来るまでに相当する年月が経過した今,当時を知る原作ファンにとって,このたびの二回目のTVアニメ化がどのような感慨をもって迎えられることになるのか*51,多少興味深いところである。
 …そして,今回の第2期TVアニメ版「Kanon」(百花屋京都アニメーション,2006〜2007年)をリアルタイムで視聴するという事実もまた,やがて思い出へと還っていくのだ。
 最後には…どうか,幸せな記憶を*52


(ここから先は,馬に興味のない方は読まなくて大丈夫です)


馬と「Kanon

 ところで,このように深遠な「Kanon」という作品に,ゲームの内外を問わず「馬」との密接不可分な紐帯が見受けられるという重大な事実に,果たしてどれだけの読者が気付いていただろうか。


 「Kanon」が競馬界にもたらした一大センセーションとして,まじかる☆さゆりん杯*53の名をを挙げない者はモグリである(何の?)。「まじかる☆さゆりん杯」とは,本作の登場人物の一人である倉田佐祐理さんのファンクラブ「倉田佐祐理FC まじかる☆さゆりん」による協賛で実施された,今はなき高崎競馬場の冠レースである。
 地方競馬ではとても由緒ある冠協賛レースであり,2000年から2004年にかけて通算6回施行された。2004年12月31日限りで公営高崎競馬が廃止されたこともあってか,7回目の開催見通しが立っていないことが今なお惜しまれている。
 レース名の由来は「魔法少女まじかる☆さゆりん」から。ちなみに,「さゆりん」は佐祐理さんの愛称。「Kanon公式原画・設定資料集」(エンターブレイン,2000年)に収録されていた佐祐理さんの設定原画の中に1枚だけステッキを持ったスケッチが含まれていたことから,こんなに話が膨らんでしまったらしい。何でも,ステッキを持っているから,魔法少女だということである*54
 「まじかる☆さゆりん杯」は,事情を知らない一般の競馬ファンにとっても,記憶に残る衝撃的なレース名だった。何といっても,レース名に「☆」が入っているのは前衛的に過ぎるし,全文字がひらがなで,しかも"まじかる"という辺りもポイントが大きい。多分,「Kanon」を知っていても,よほどコアな原作ファンでもない限り,レース名だけでは何のことか分からなかったのではないか。
まじかる☆さゆりん杯」(高崎競馬場)歴代優勝馬一覧

レース名 開催日 勝馬
まじかる☆さゆりん杯 鳥居峠特別 2000年01月09日 ハギノオープン
まじかる☆さゆりん杯 からまつ特別 2000年11月09日 リョウマ
第3回まじかる☆さゆりん杯 コスモス特別 2001年09月23日 テツマダイオー
第4回まじかる☆さゆりん杯 ききょう特別 2002年10月13日 ヤマテツライデン
第5回まじかる☆さゆりん杯 トパーズ特別 2003年11月02日 パズルプレゼント
第6回まじかる☆さゆりん杯 やまゆり特別 2004年10月24日 サクラエスポワール*55
 何はともあれレース当日には,競馬新聞に「まじかる☆さゆりん杯」の文字が躍り,実況放送でも「まじかる☆さゆりん杯」が連呼され,競馬場のお客さんたちは「次のまじかる☆さゆりん杯は,何を買うか」と頭を悩ませたわけである。これは,競馬界と「Kanon」との紐帯を満天下に示した,決して消えることのない歴史的事実である。
 そんな愛すべき「まじかる☆さゆりん杯」の歴史の中でも,絶頂期のきらめきを放ったのは,第3回まじかる☆さゆりん杯ということになるだろう。この日の高崎競馬場は,"全レース協賛特別競走デー"「WeLoveたかさきDay4」*56一色だったのである。

2001年9月23日(日) 高崎競馬
発走
時刻
天候
馬場
距 離
コース
品種 登録
頭数
出馬表
(前5走,馬体重,対戦表)







1 11:20    右1330 8 ハロンボウ&キロポスト賞C5
2 11:50    右1400 9 ブロンズコレクター賞C4 C5
3 12:20    右1400 8 THE RACE COURSE
4 12:50    右1400 9 TGM賞C3 普通
5 13:20    右1500 8 【JRA認定】2歳イ 特別
6 13:50    右1400 9 ひまわる杯C2 普通
7 14:20    右1400 8 まじかる☆さゆりん杯 コスモス特別
8 14:50    右1500 9 青の軍団結成記念B3 普通
9 15:25    右1500 10 競馬同人誌連合会杯 りんどう特別
10 16:00    右1500 8 WeLoveたかさきDay特別
 晴天に恵まれた高崎競馬場では,この日,正面スタンド表彰台前では1日3回も「ひまわる&ミスターピンク(内田利雄騎手)」によるミニライブが挙行された。なぜか入場門広場では,競馬同人誌即売会も催され,「Kanon」を知る者も知らない者も「まじかる☆さゆりん」を連呼した*57。ついには,感極まった観客たちが馬場へとなだれ込み,最終レースでは馬の代わりにタッキーくん*58人間がダートコースを疾走したのである。
 繰り返すが,これは誇張はあっても,嘘ではない。すべて,正真正銘の歴史的事実なのだ。
 このように,競馬ファンは,清々しいまでに「Kanon」のことを愛していた。それでは,「Kanon」の方は? 「Kanon」はについて何を語ろうとしたのだろうか。

 本作は,札幌市や横浜市大阪府の風景が元ネタとして登場すること*59からも察せられる通り,都心部近郊が舞台地として想定されている。競馬場があってもおかしくない立地なのだが,作中で競馬について言及されることはトンとない。これはKey系諸作品全般に当てはまることだが,馬が正面から出てくることは皆無なのである。
 しかし,このような理解の仕方は,本作の表層に惑わされたものであり,あまりにも短絡的に過ぎる。
 そもそも,サブカルチャー界においてジャンルを問わず名作であればあるほどあらゆる場面に馬を散りばめようとする傾向が強いということは,我々がこの「競馬サブカルチャー論」を通じて繰り返し検証してきた通りである。このことは美少女ゲーム/ビジュアルノベル業界にも当然射程が及ぶ。現に,「Fate stay night」(2004年,TYPE-MOON)が直球勝負の馬賛美を惜しまず,それに対して馬頭観音も加護を与えたという歴史的事実を,我々は既に知っているではないか。
 そして,我々には,もうひとつ知っていることがある。偉大なる寺山修司,曰く。競馬が人生の比喩なのではない。人生が競馬の比喩なのだ。つまり,直接描写されることがなくとも,馬は姿を変え形を変え,様々な比喩によって言及されている。そして,名作であればあるほど,馬のために駆使される修辞も洗練極まっていく。競馬を知る我々に求められているのは,この世界に散りばめられている馬に関する高度な言辞を発見することができるだけの愛馬心なのである。

 「Kanon」から馬に対する重大なメッセージが含意されているのは,その単純さゆえに高度な解釈が要求される水瀬名雪シナリオである。
 ―相沢祐一は,親の海外転勤に伴い水瀬家に居候することになり,7年ぶりに幼馴染でいとこの水瀬名雪と再会する。7年前のことを覚えていない祐一は,記憶のない女の子(真琴)や,何を落としたのか思い出せない少女(あゆ)と出会ううち,「来るはずがないって,分かってる人を」「ずっと,待って」いたもう一人の少女―名雪のことを思い出す。7年前に「悲しいこと」があったせいで泣き続けていた祐一(10歳)は,彼を慰めるために"雪うさぎ"をプレゼントしようとした名雪(10歳)を拒絶していたのだ。
 「まるで霧が晴れるように」記憶を取り戻した祐一は,「7年前の少女」は彼女だったんだと思い出し,「今まで,すぐ近くにあって,それでも見ないようにしていた答え」を見付ける。祐一は,名雪のことをずっと好きだっと告げる。祐一の思いがけない告白にいったんは動揺する名雪だったが,祐一のことをずっと好きでいられた自分の想いを再確認し,7年越しの二人の約束は実る―。
 水瀬名雪シナリオで描かれるのは,祐一と名雪恋愛模様である。「Kanon」を追走曲に見立てた上でジュブナイル的主題を割り当てるとするならば,"Bond(絆)"の旋律がこれに相当する。本シナリオのエンディングは,名雪にとっては初恋の再成就だが,祐一にとっては古い絆の喪失を新しい絆の力で克服するということであり,"Bond(絆)"のかけがえなさが多面的に描かれているのも特色のひとつである。
 しかし,これこそがKanon」が競馬界に対して投げかけた最大級のメタファーであるということに,どれほどのプレイヤーが気づいただろうか?
 「どうしようもなく馬鹿な男が,約束をすっぽかした」ことを7年越しに謝る祐一に対して,自分の本当の気持ちと7年ぶりに向き合った名雪は次のように答える。

 月の夜空を仰ぐように,名雪が背中を向ける。
名雪】「わたし…あれから考えたんだ…」
 小さな声で,名雪が言葉を紡ぐ。
名雪】「ずっと,考えたんだよ…」
名雪】「わたし,あまり頭は良くないけど,でも,一生懸命考えたよ…」
【祐一】「……」
名雪】「そして,出た答え…」
名雪】「何度考えても,ずっとこの答えだった…」
名雪】「わたしの答えは…」
 後ろを向いたまま,名雪が言葉を続ける。
名雪】「イチゴサンデー,7つ」
名雪】「それで,許してあげるよ」
 名雪の髪が,風にさらされて揺れていた。
 風に運ばれた髪が,月明かりに透けて見えた。
名雪】「祐一だけ,特別サービスだよ」
名雪】「だって…」
名雪】「わたしも,まだ…」
名雪】「祐一のこと,好きみたいだから…」

(「Kanon水瀬名雪シナリオ より)

 イチゴサンデーといえば,「880円(税別)で幸せになれるんだから,安い物だと思う」と祐一が述懐していた例のアレである。それが7杯ということは,880×7=6160円(税別)ということになる。10歳の子供がした仕打ちだったとはいえ,その後,7年もの間,心のどこかに引っかかっていた名雪の傷心を慰謝するにしては,随分と安上がりなことである。そこから我々プレイヤーは,名雪の祐一に対する思いやりの深さを想起し,しばしの感慨に耽ることになる。愛や思いやりの深さはお金に換算できるものではないな,と。
 しかし,話はここで終わらない。賢明なる読者諸君は,もうお分かりであろう。
 Kanon」は愛や思いやりの深さを,馬を単位にして高らかに謳い上げていたのである。馬で"サンデー"といえば,みなまで言いたくはないのだが,ある1頭の種牡馬の名を挙げないわけにはいかないだろう。
 ―あえてここに記そう。

サンデーサイレンス

とは,1989年ケンタッキーダービー(米GI),プリークネスS(米GI)の二冠を達成したほか,その年のBCクラシック(米GI)にも勝っており,米国を代表する馬産家アーサ−・ハンコック三世の最高傑作である。同馬が米国クラシック三冠,BCクラシックで宿敵イージーゴーアーと繰り広げた死闘は,米国競馬史に残る名勝負に数えられている。宿敵との戦いに3勝1敗と勝ち越した同馬は,1989年エクリプス賞年度代表馬に選出されたにとどまらず,1980年代の米国最強馬という呼び声も高い。
 現役引退後は,「生産者は予言者でなければならない」という名言*60を残した「大社台」こと吉田善哉社台ファーム*61代表が総額24億9000万円のシンジケートを組んで日本に輸入し,1991年から安平町*62社台スタリオンステーションにて供用された。「運命に噛みついた馬」と称えられることもあった,その驚異的なまでの勝負根性とスピード,瞬発力はいかんなく産駒へ引き継がれ,1995年にはわずか2世代の産駒でJRAリーディングサイヤーを獲得するという史上初の快挙を達成すると,それ以降11年連続でJRAリーディングサイヤーに輝いている。
 主な産駒はディープインパクトゼンノロブロイネオユニヴァースデュランダルゴールドアリュールマンハッタンカフェアグネスタキオンアグネスフライトエアシャカールアドマイヤベガスペシャルウィークステイゴールドサイレンススズカダンスインザダークバブルガムフェローマーベラスサンデータヤスツヨシイシノサンデーフジキセキダンスインザムードヘヴンリーロマンスアドマイヤグルーヴスティルインラブ,ビリーヴ,トゥザヴィクトリー,スティンガー,ダンスパートナーほか,枚挙に暇がない。
 こうした豪華な代表産駒の顔ぶれからも明らかな通り,同馬は,日本競馬史上空前絶後といっても過言ではない歴史的大種牡馬である。
 つまり名雪が祐一を許してあげる条件は
サンデーサイレンス7頭分*63

だったというのである!
 それにしても,サンデーサイレンス7頭分とは…。これはもはや,庶民には到底及ぶところのない天文学的数字である。少なく見積もっても数百億円。いや,下手をすると四桁の大台に乗ってしまうだろう。名雪の七年分の傷心を慰謝するためには,かくも大金を積むしかないというのか―。
 もちろん,本作がここで伝えようとしているのは,そんなことではない。愛や思いやりを金銭に換算しようとすることは,無粋極まりないのだが,それをあえて他の価値に置き換えようとするならば,それはサンデーサイレンス7頭分にも匹敵するということである。
 このように本作は,極めて洗練されたレトリックで,人間の精神的所産の中でも最も尊いとされる愛や思いやりと,馬には同等の価値があると言っているわけであり,この上なく馬を賛美しているのだ。

 そして,原作PCゲーム版が発売された1999年には分からなかったけれども,7年後の現在(2006年)ならば分かることがもう一つある。
 サンデーサイレンスはもうこの世にはいないのだ。数々の栄誉に包まれた同馬の馬生は,2002年8月19日に終止符が打たれている。享年16歳。サラブレッドの寿命からすれば,早すぎる死だった。サンデーサイレンスほどの大種牡馬であっても,永遠不滅はあり得ず,その栄光に終止符が打たれ,土に還るときが来るというのである。そして,今もなお,同馬亡き後の喪失感を埋め合わすに足る次世代の大種牡馬は現れていない。
 このような現状認識を踏まえるとき,我々はもう一度,サンデーサイレンスのメタファーと水瀬名雪シナリオとの関係性を見直す必要が出てくる。サンデーサイレンスのメタファーは,どうして名雪シナリオでなければならなかったのか。その答えは,名雪シナリオにおけるジュブナイル的主題の中に見出すことができる。
 ―未来が現在となり,現在は過去となる。永遠不変はなく,日々は流転し,やがて"思い出"に還る。たとえ喪われるものであったとしても,生きる人々の絆はかけがえない。それでも,確かに絆はあったのだから。サンデーサイレンスもまた然り―。
 種牡馬サンデーサイレンスをリアルタイムで知る者は,少なくとも,生前の同馬がどれほどの愛憎と畏敬を集めていたか,その圧倒的な存在感を経験として理解している。しかし没後4年を経て,競馬場を走る産駒の数も先細りしつつある今,サンデーサイレンスとは,もはや生ける伝説ではなく歴史上の存在に過ぎないのである。

 サイレンススズカのすべてを伝えることはできないし,相手に完全に納得させることも出来ないだろう。なぜなら,先にあげたようなサイレンススズカ評も,間違いなくサイレンススズカの客観面を正しく言い当てているものだからである。記録は後世の人々と共有することが容易だが,記憶を後世の人々と共有することは不可能である。
 今になってサイレンススズカとはなんだったのか,と考えてみて,ふと思うことがある。サイレンススズカとは,1998年に日本競馬に突然現れた,何よりも美しく,何よりも儚い幻だったのではないか。そして,その時代を生きた私たちは,幸運にも共通して同じ幻を見ることができただけなのではないか。だとすると,いくら資料や映像を持ち出したところで,その記憶を持ち合わせていない人々を説き伏せることはできないのも道理である。
 もしかすると,サイレンススズカとは,同じ時代を生きた私たちが共通して見た,幻のような馬だったのではないか。ほかの馬たちとはあまりに違う次元を走った彼の走りは,現実というにはあまりに速く,そしてその存在は,あまりにも儚く私たちの前から消えてしまった。私たちに,幻というにはあまりにも深い記憶を遺して。
 サイレンススズカとは,私たちに何よりも鮮烈な記憶を焼き付けた,永遠の幻だったのである。だが,彼が私たちに残した記憶は,決して幻ではない。彼が残した記録は未来の馬に破られて消えても,彼が遺した記憶は,決して消えることはない。

(Retsuden.com-サラレブレッド列伝-第30話「永遠の幻―サイレンススズカ列伝」 より)

 上記の文章は,かつてサイレンススズカについて書き下ろされたものだが,今や我々は,この文章がサンデーサイレンスのためにも捧げられる時代を生きているのである。
 このように,「Kanon」に秘められていた"サンデーサイレンス・メタファー"とは,1999年当時においては予言であり,2006年現在においては追想だったのである。何という深遠だろうか…。「Kanon」という物語の中に,このような一読しただけでは到底発見できない,しかし実際には極めて峻厳かつ真摯なメッセージが競馬に対して向けられていることに気付いたとき,筆者は深い感動に胸を打ち抜かれてしばらくは言葉も出なかった。
 我々競馬ファンは,競馬場へ来て,馬を見て,馬券に勝つ。それは永遠のように繰り返される日常。まるで競馬という営みは,未来永劫不滅であるかのような隆盛の真っ只中にある。しかし思い返してみてほしい。21世紀が到来してからのほんの数年間だけでも,どれだけの競馬場が消滅し,有名無名の人馬たちがターフを去ったことだろう。サンデーサイレンスですら,例外ではなかったのである*64
 競馬という営みもまた,果てしなく残酷で,果てしなく優しいのだ。


 このような発見に基づき,「Kanon」の水瀬名雪シナリオをリプレイしてみると,同シナリオにおける"Bond(絆)"というテーマは,作品内における登場人物たちの営みだけを捉えていたのではなく,競馬という営みに対する普遍的なメッセージでもあったことを痛感させられる。競馬ファンが「Kanon」のことを愛してやまなかったとするならば,それは「Kanon」が競馬という営みに向けていた優しいまなざしに,無意識のうちに感応していた結果だったのかもしれない。
 「まじかる☆さゆりん杯」が開催された高崎競馬場は消滅したけれども,タッキーくんと人間がダートコースを疾走した事実は永遠に消えない。サンデーサイレンス亡き後も,たとえ記憶の共有が不可能であっても,人々は記録を介して同馬の種牡馬としての業績を語り継いでいくことだろう。かつて,ヒンドスタンやテスコボーイノーザンテーストがそうであったように。「まじかる☆さゆりん杯」も,サンデーサイレンスも,"思い出"に還っただけ。私たちに起きた出来事は,たとえ過ぎ去ろうとも,どれも消えることがない。

競馬という営みもまた,“思い出”の中に還っていく―。

 馬は,愛や思いやりの素晴らしさ,現実の厳しさも美しさも,すべてを教えてくれる。馬が果たした役割の大きさは,かくも計り知れない。
 そこに馬がいたから。馬は,常に人間の傍らに在る―。(文責:ぴ) *65

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Kanon ~Standard Edition~

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Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版

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Kanon ベスト版

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Kanon オリジナルサウンドトラック

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Kanon Arrange best album 「recollections」

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Re-feel ~Kanon/AIR Piano Arrange Album~

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Kanonビジュアルファンブック

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*1:水瀬名雪月宮あゆ美坂栞の順番だけは厳守されたい。

*2:定義は,kaien「ビジュアルノベル多世界解釈と同一世界解釈」(2004年,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402)による。

*3:「『過去』は何より『思い出された/語られた過去』であり,目の前の相手との関係性を前提としてのみ意味を持つものである」,今木「ひとりでは思い出せない」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#5)より。もっとも,今木氏は後述の"遡及的過去形成"の立場から「そのようにして思い出されたものが『過去の真実』であるかどうかは甚だ心許ない」とする。しかし,"確定的過去共有"の立場からいえば,磐石な客観的実在的な『過去』が存在しているが,『現在』における重要度・必要性に応じて,思い出されるべき『過去』が取捨選択されているに過ぎない,ということになる。

*4:涼元悠一「ノベルゲームのシナリオ作成技法」(2006年,秀和システム,ISBN:4798013994)83頁以下,同167頁以下より。

*5:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「黒須ちゃん,練る(3) 一般的なマルチシナリオ型ノベルゲーの構造」(2005年11月,d:id:crow_henmi:20051101#1130830269)より。

*6:ササキバラ・ゴウ傷つける性 団塊の世代からおたく世代へ―ギャルゲー的セクシャリティの起源」(2003年3月,角川書店新現実 vol.2』所収 / cf.2005年,d:id:genesis:20050728:p1)より。

*7:定義は,kaien「ビジュアルノベル多世界解釈と同一世界解釈」(2004年,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402)による。

*8:火塚たつや「ビジュアルノベル論」(2004年,http://tatuya.niu.ne.jp/dialy/04/02.html#19)より。

*9:アシュタサポテ「ギャルゲーの定義」(2000年2月,http://astazapote.com/archives/200002.html#d16)より。

*10:今木「初期設定における同一性など」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#4)より。

*11:この例は,kaien「ビジュアルノベル多世界解釈と同一世界解釈」(2004年,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402)による。

*12:「作品の深層,すなわちシステムの水準では,主人公の運命(分岐)は複数用意されているし,そのことはだれもが知っている。しかし作品の表層,すなわちドラマの水準では,主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており,プレイヤーもまたそこに同一化し,感情移入し,ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾と感じない。彼らは,作品内の運命が複数あることを知りつつも,同時に,いまこの瞬間,偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。」,東浩紀「過視的なものたち(データベース的動物)」(2001年初出,講談社現代新書動物化するポストモダン』123頁所収,ISBN:4061495755 / cf.2003年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#9 / cf.2003年, http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#11)より。

*13:拙稿「競馬サブカルチャー論・第16回:馬と『Fate/stay night』〜「燃え」によるビジュアルノベルの復興/英雄的"馬"表現の金字塔〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060417:p1)も参照されたい。

*14:拙稿「競馬サブカルチャー論・第19回:馬と『ひぐらしのなく頃に』〜陰謀か。偶然か。それとも祟りか。〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060828:p1)も参照されたい。

*15:涼元悠一氏発言「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」(2001年,『カラフル・ピュアガール』2001年3月号所収)より。また,同じインタビューで麻枝准氏も「アドベンチャーゲームの墓場が見えてしまう」と発言している。

*16:現に,PS2版「ひぐらしのなく頃に祭」(アルケミスト,2006年)は選択肢分岐を含むマルチシナリオ型ノベルゲーム1枚で発売される。

*17:鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」「暇潰し編」「目明し編」「罪滅し編」「皆殺し編」「祭囃し編

*18:1992年以降について解析した論考として,「美少女ゲームパラダイムは4年で交代する〔仮説〕」(2006年,d:id:genesis:20060406:p1)を参照されたい。

*19:かえってきたへんじゃぱSS「共通設定ではやっぱり弱いわけです」(2005年,d:id:K_NATSUBA:20051112)より。

*20:サブシナリオがメインシナリオを喰おうとするのも,この一例だろう。涼元悠一「ノベルゲームのシナリオ作成技法」(2006年,秀和システム,ISBN:4798013994)172〜176頁も参照されたい。

*21:というよりも,文章を読んでも判らないときは,書いた本人に尋ねるのが手っ取り早いというだけのことである。

*22:"メタ的必然性のある物語"か否かという観点から分析した論考として,族長の初夏「ノベルゲームの『読み方』」(2006年,http://umiurimasu.exblog.jp/4607988/)も同旨。cf.http://rosebud.g.hatena.ne.jp/milkyhorse/20061103/1162526613

*23:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「巡り巡るKanonの季節」(2006年6月,d:id:crow_henmi:20060607#1149687431)より。

*24:しかも,この「夢」を見ている人物は,1月7日未明に挿入される1回目の「夢」にある「夕焼け空を覆うように,小さな子供が泣いていた。どうすることもできずに,ただ夕焼けに染まるその子の顔を見ていることしかできなかった」という描写から,早くも月宮あゆに特定可能なのであって,そこに相沢祐一が見ている夢かもしれないというような余地は残されていない

*25:kaien「ビジュアルノベル多世界解釈と同一世界解釈」(2004年,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402)より。

*26:まさかとは思うが,(1)「名雪のことを好きでいられたこと…(水瀬名雪シナリオ)」「それが俺の初恋だった(月宮あゆシナリオ)」「俺が当時恋いこがれていた女性の名だった(沢渡真琴シナリオ)」というそれぞれの祐一の独白や,(2)祐一とヒロインとの別れが,名雪とあゆとは7年前,真琴とは7年以上前,舞とは10年前となる点を指して,シナリオごとに描写される祐一の過去に矛盾があるというのならば,それは失当である。特に前者は,マルチシナリオ解釈方法論で処理すべき事柄ではなく,既述の「一人称の語り手は信用できない」という次元の問題に過ぎない。

*27:全シナリオ脱稿後のこととはいえ,本作の制作過程では,久弥氏と麻枝氏との間では現に脚本のすり合わせが行なわれ,キャラクター相互間で時系列や場所の矛盾解消が図られているのである。久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレインKanonビジュアルファンブック』より。

*28:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「いまさらながら『Kanon』における奇跡の扱い,みたいなこと」(2006年,d:id:crow_henmi:20060526)も同旨。曰く,「『誰かを助ければ,誰かが死ぬ』みたいな解釈が生まれるのは,プレイヤーが神の視点で物語世界の全てを見下ろせる存在だからなのだけど,そこには『全体を見下ろせるがゆえに,それを関連付けてひとつの世界と解釈してしまう』錯誤(があって)…この錯誤の身体的感覚における根強さ(とは)…全部体験したものだから全部同じ感覚的次元に存在しているものであって,それが世界の一体性へと流れて行くことは必然的なのだ(というものである)」。

*29:伏線ともいう。

*30:名雪】「祐一に思い出してもらいたいって願ってる人がひとりでもいるのなら,思い出した方がいいと思うよ」/この台詞のように,シナリオごとに意味が可変的なセンテンスは多い。

*31:制作者意思もこのことを強調している。「明確な答えを用意するのが好きじゃないんです…けど,手を抜いているわけでもない(んですよ)…ほんと,ユーザーさん次第です」,久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレインKanonビジュアルファンブック』より

*32:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「忸怩たるイマ(4)―誤読せよとロミオは云った 」(2006年,d:id:crow_henmi:20060519#1148071028)も同旨。この指摘は,そのまま「Kanon」に前倒しすることができる。

*33:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「日々雑感 趣味の問題,あるいは便宜性の問題」(2006年,d:id:crow_henmi:20060102#1136183137)より。

*34:「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年,d:id:imaki:20051119#p1 所収)より。

*35:まるで「CLANNAD」(Key,2004年)のプロットを想起させるようなアイデアを2000年当時の久弥直樹氏が持っていたということは,そっと記憶に留めておきたいところである。

*36:ちなみに,久弥直樹氏の同人誌『if 〜Kanon another story〜』(2000年,C59,Cork Board)所収の「if」を読んでしまっていると,上記の感慨がいっそう強くなるかもしれない。この短編は,美坂栞シナリオ「名前のないクラス替え」ENDのエピソードである。あゆが姿を消し,栞が病死した後,それぞれ悲しみや後悔,謎を抱えることになった祐一,香里,北川(なぜか)。そんな彼らの「思い出」のかけらが集まったとき,誰もが小さな奇跡の終わったことを悟る―「そんな,つまらない話」である。うわあ。

*37:"実質的意味のビジュアルノベル=形式的意味のビジュアルノベル+恋愛ADV"と同義といっても差し支えない。

*38:世界律の面白さのこと。アドベンチャーゲームにおいて,選択肢の正解を探る行為も,その物語世界における世界律=ルールを探る行為であり,これもまたシミュレーションゲーム性に含まれる。

*39:リアクションの面白さのこと。テキストを送るためのマウスクリックにゲームとしての面白さを付与したものであり,「文章を読む→クリックする→新しい文章が表示されてキャラクターの表情が変わる」という繰り返しによる面白さの演出である。/cf.http://memoria.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%af%e3%81%ae%e5%bf%ab%e6%a5%bd紀田伊輔「ギャルゲーテキスト論-指先の感情移入-」(2000年,http://www.tinami.com/x/review/01/page2.html),アシュタサポテ「エロゲーの持つゲームとしての身体性・肉体性」(2000年,http://astazapote.com/archives/200006.html)も同旨。

*40:キャラクターやシチュエーションについてプレイヤーが想像を広げること,つまりゲームから離れて二次的に創作することの面白さ。ゲームをプレイしている間,プレイヤーはキャラクターが三次元に生きているものと認識してその行動を想像するようになる。つまり,脳内で二次創作する。

*41:同じような行動の反復が生む恍惚のこと。アクション性に支えられたルーティーンワークによって,トランス的な悦びが生まれる。

*42:元長柾木「回想―祭りが始まり,時代が終わった」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』所収/cf.http://memoria.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%80%8c%e5%9b%9e%e6%83%b3%e2%80%95%e2%80%95%e7%a5%ad%e3%82%8a%e3%81%8c%e5%a7%8b%e3%81%be%e3%82%8a%e3%80%81%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%8c%e7%b5%82%e3%82%8f%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%80%8d)より。元長氏による"ゲーム性"の定義は,マルチエンディングを重視する東浩紀氏の分析とは異なる。東浩紀氏発言「美少女ゲームは『ゲーム』なのか」(2006年,http://www.hirokiazuma.com/archives/000247.html)を参照されたい。

*43:伊達に,コミケで1回は天下を取ったわけではないのである(C57における関連同人誌冊数を想起せよ)。

*44:ONE〜輝く季節へ〜」や「AIR」に勝るとも劣らない

*45:2000年夏のコミックマーケット(C58)で配布された,Cork Board名義の同人誌。

*46:のり@臥猫堂「批評 Kanon」(2005年,http://homepage2.nifty.com/nori321/review/kanon.html)より。

*47:「両手には降り注ぐかけらをいつまでもいつまでも抱いて」,「Kanon」OP『Last regrets』より。

*48:【あゆ】「きっと,祐一君にとって,名雪さんは特別なんだよ」

*49:例えば,名雪ENDを想起されたい。

*50:他にも,OP「Last regrets」イントロのシューシューいう効果音が,病院のベッドで眠り続けるあゆの呼吸音ではないかとか,あゆの想念と祐一の想念が交感して"夢の世界"の次元が街を覆い尽くす音ではないか,といった具合に想像逞しく語られるのもこの一例だろう。

*51:マルチシナリオのゲーム原作を一本道ルートのシナリオでテレビアニメ化することに関する問題意識については,BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「巡り巡るKanonの季節」(2006年,d:id:crow_henmi:20060607#1149687431),KAZUMiX memo「Kanon PRELUDEを観て思ったこと」(2006年,d:id:KAZUMiX:20060829:1156862944)を参照されたい。

*52:え。

*53:公式サイトは,http://www5.airnet.ne.jp/multi/sayuhai.htm

*54:第1期TVアニメ版「Kanon」(2002年,東映アニメーション)の第4話「夜へ」Bパート・アイキャッチにおいて,その映像化が実現したことは本当に衝撃的だった。/cf.http://www.toei-anim.co.jp/tv/kanon/c_4a.html

*55:ちなみに,勝ったサクラエスポワールは,倉田佐祐理さんと同じ5月5日生まれ。

*56:http://www5f.biglobe.ne.jp/~hck/WLTD4.htm

*57:え。

*58:当時の高崎競馬場マスコットキャラクター。

*59:舞台探訪アーカイブ Kanon〜京都アニメーション版〜より。

*60:この他にも,「息子たちが海外の友人からテリー,カーリー,ハリーと呼ばれているのなら,私はゼリーと呼ばれたい」という名台詞がある。吉川良「血と知と地―馬・吉田善哉・社台」(ミデアム出版社,1999年)所収。

*61:いわゆる旧・社台ファーム。現在は社台ファームノーザンファーム追分ファーム白老ファーム社台スタリオンステーション社台レースホースサンデーレーシング等から構成される社台グループに発展している。

*62:当時は早来町

*63:間違っても,イシノサンデー7頭分ではない。それでも相応の値段になるが。

*64:そして,そのことは私たち競馬ファンも同様である。競馬を見届けることができなくなる日は,いつか必ずやって来るのだから。

*65:すべての先行文献の執筆者の皆様に,深く感謝いたします。