競馬サブカルチャー論・第20回:馬と『Kanon』その2〜それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな“奇跡”の物語〜
競馬サブカルチャー論とは
この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで,歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し,数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と,その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
―馬は,常に人間の傍らに在る。
その存在は,競馬の中核的な構成要素に留まらず,漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では,サブカルチャーの諸場面において,決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
※本稿には,PCゲーム版の内容に関する強烈なネタバレが含まれています。本文に施されている注釈は,熟読したい人向けです。なお,ゲーム版を"水瀬名雪"→"沢渡真琴"→"川澄舞"→"月宮あゆ"→"美坂栞"*1の順でクリアした後の読者を想定しています(え)。
1.Visual Art's/Key 『Kanon』より
2."ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon」
1) 文芸様式としてのファンタジー
1:「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所"
1) ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論
2:「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語
1) 月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成
3.「Kanon」における"奇跡"のガジェット〜小さな"奇跡"の物語
1:"奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか
2:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(1)〜あり得ないはずの状態
3:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(2)〜超常的な救済
1) 水瀬名雪シナリオの場合
2) 月宮あゆシナリオの場合
4:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(3)〜日常の中にある非日常的な状態
1) 久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較
5:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(4)〜日常的な,奇跡のように思える偶然
1) 世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい
2) あらゆる物語可能性に想いを馳せる
6:あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない?
1) "同一世界解釈/確定的過去共有"とは
2) "多世界解釈/遡及的過去形成"とは
3) マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路
4) 「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来
7:それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな"奇跡"の物語
1) 7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?
4.馬と「Kanon」(←ここから読んでも無問題)
5.主な先行文献の相関関係
「Kanon」における"奇跡"というガジェット〜小さな"奇跡"の物語
「Kanon」は,"小さな奇跡の物語"と呼称されることがある*2。前作「ONE〜輝く季節へ〜」におけるファンタジー要素が"永遠の世界"のガジェットに見出されるとするならば*3,本作の「Kanon」におけるファンタジー要素は,このいわゆる"奇跡"という一言に集約されがちな側面がある。確かに,本作では劇伴やテキストによる演出が,"奇跡"という名のガジェットに向けて強く働きかけられていることは間違いない。
そして,この"奇跡"というガジェットの存在が,「Kanon」という物語の評価を賛否両論真っ二つに分けることになった。批判的な立場から言わせれば,こういうことになるらしい。すなわち,交通事故に遭った秋子さんは回復し(水瀬名雪シナリオ),重病だった栞は治癒し(美坂栞シナリオ),消滅したはずのあゆは目覚め(月宮あゆシナリオ),切腹した舞は蘇生し(川澄舞シナリオ),死んだ真琴は復活する(沢渡真琴シナリオ)。悲劇として終わろうとするドラマが,劇的にハッピーエンドへと変化する。その一番丁寧に描くべきはずの転換点を,納得のゆく整合性を見せることなく,ただ"奇跡"という言葉を持ち出して説明放棄してしまった。これが安易な御都合主義でなくて何だというのか―,と。*4
上記の見解では,"奇跡"という言葉が"超常的な救済"という一義的な意味であることが所与の前提になっている。
「あんたたちの会話を聞いてると,奇跡が安っぽいものに思えてくるわ…」
(「Kanon」美坂栞シナリオより)
ところで,そもそも「Kanon」における"奇跡"とは,いったい何だろう? 本章では,本作が久弥直樹氏と麻枝准氏による共同脚本であることに着目し,その分析を試みることにしたい*5。
― "奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか ―
美坂栞シナリオのエピローグには,病から回復できた栞が自分の想像だと前置きした上で,次のように語る場面がある。
【栞】「例えば,ですよ…」
【栞】「例えば…今,自分が誰かの夢の中にいるって,考えたことはないですか?」
【祐一】「何だ,それ?」
【栞】「ですから,たとえ話ですよ」
(「Kanon」美坂栞シナリオ・エピローグより)
これは,本稿でも採り上げた,"夢の世界"と"現実世界"という二つの次元の重なった街―というファンタジー的世界観をほのめかす台詞である。そして,この後には,次のような台詞が続く。
【栞】「私の,私たちの夢を見ている誰かは,たったひとつだけ,どんな願い事でも叶えることができるんです」
【栞】「もちろん,夢の中だけですけど」
(中略)
【栞】「たったひとつの願い事は,永い永い時間を待ち続けたその子に与えられた,プレゼントみたいなものなんです」
【栞】「だから,どんな願いでも叶えることができた…」
【栞】「本当に,どんな願いでも…」
【栞】「例えば…」
【栞】「ひとりの重い病気の女の子を,助けることも」
【栞】「たったひとつだけの願いで」
【祐一】「……」
(「Kanon」美坂栞シナリオ・エピローグより)
しかも,この直後,ご丁寧にも,
【祐一】「…そういえば,最近あいつの姿見ないな」
ダッフルコートに手袋姿で,いつも元気いっぱいに走り回って…。
【栞】「あゆさん,ですか?」
【祐一】「ああ」
子供っぽくて,そして,無邪気で…。
【祐一】「最後にあゆと会ったのは,いつだったかな…」
確かまだこの街が真っ白な雪に覆われていた頃…
落ちる粉雪の中で…。
最後の言葉は何だっただろう…。*6
(「Kanon」美坂栞シナリオ・エピローグより)
と,月宮あゆのことをプレイヤーに想起させてから,ようやく栞のたとえ話は締め括られる。
こうして美坂栞シナリオを読み終えたプレイヤーは,月宮あゆシナリオ・エピローグ最後の一文「たったひとつの奇跡のかけらを抱きしめながら…」と合わせ読むことによって,「Kanon」の世界観の中では,あゆの想念が生み出した"夢の世界"の次元で,たったひとつだけ願いが叶う―いわゆる"月宮あゆの力による超常的な救済"としての"奇跡"がもたらされているのだ,と想像を逞しくするわけである。ああ,あの「終わりのない夢」を見ていたのはあゆだったんだな,そういえば「願いを叶えてくれる」"天使の人形"があったな,確かに「ボクの,願いは…」と言い残しているな,と。
とするならば,"奇跡"にはきちんと伏線が張られていたことになる。しかも,その"奇跡"が発動する仕組みは,"夢の世界"と"現実世界"という二つの次元の重なった街での出来事であるという*7,文芸様式としてのファンタジーの文脈に沿った説明がきちんと施されているのだから,むしろ洗練された様式美を見出すことすら,できそうなものである*8。
もっとも,この点については,たとえ"奇跡"が発動する仕組み自体がファンタジー的な世界観に沿って説明できるのだとしても,不可避的なはずの悲劇が強引にハッピーエンドで締め括られることに変わりない,という批判が依然として成り立つように思われる。例えば,「ジュブナイルの主題とファンタジーの様式との間に構造上のねじれがある」*9と評されることがあるのが,その一例といえよう。
しかし,「Kanon」の各シナリオにおいて"別離(あるいはその予兆)"として描かれている状況は,悲劇的なものではまったくなく,"過酷な現実を受容する"というジュブナイル的到達点を示しているに過ぎないということを看過すべきではない*10。本稿では月宮あゆシナリオにしか触れてこなかったが,例えば,「Kanon」のシナリオ全体を指して「奇跡は実はどうでもいいことなのだ」*11とか,「本質は奇跡を手段として語られる事柄にあり,奇跡自体を目的として考えることはほとんど無意味である」*12と評されることがあるのは,この趣旨からである。「Kanon」のシナリオ上では一貫して,悲劇は特別視されていないのである。
それ以前に,そもそも「Kanon」における"奇跡"という言葉の意味を,"超常的な救済"であると一義的に即決できるかすら,実はあやうい。なぜならば,「Kanon」における"奇跡"という言葉は,シナリオの文脈に応じて,極めて多義的な使い方をされているからである。以下,順を追って検討してみよう。
― あり得ないはずの状態としての"奇跡" ―
「Kanon」における"奇跡"という言葉は,登場人物の会話のなかで頻繁に登場する。特に,久弥直樹氏担当のシナリオ*13では,その傾向が顕著であり,もはや意図的に多用されているといってよい。しかも,"奇跡"について言及がなされる都度,その肯定と否定が繰り返され,意味の確定を決して許そうとしていない。
【栞】「そうですね…」
雪のように白い肌…。
【栞】「奇跡でも起きれば何とかなりますよ」
【祐一】「……」
【栞】「…でも」
穏やかに微笑みながら,自分の運命を悟り,そして受け入れた少女が言葉を続ける。
【栞】「起きないから,奇跡って言うんですよ」
(中略)
【祐一】「起きる可能性が少しでもあるから,だから,奇跡って言うんだ」
【栞】「…私には,無理です」
(「Kanon」美坂栞シナリオより)
これは,"あり得ないはずの状態"としての"奇跡"である。栞が雄弁に語る「奇跡はあり得ない」という字面通りの見解は,美坂栞シナリオの象徴ともいうべき台詞なのだが,にもかかわらず,祐一に言わせれば「あり得るから,奇跡なんだ」ということになる。しかも,栞はこれを再否定し,肯定と否定の循環が発生する。
また,別の日常会話の場面では,祐一自身が"あり得ないはずの状態"について言及することがある。
【名雪】「おはよう,祐一」
にこやかに挨拶をする名雪は,すでに制服に着替えていた。
【祐一】「…どうしたんだ?」
【名雪】「え? どうもしないけど…」
【祐一】「名雪がこの時間にちゃんと起きてるなんて,奇跡だ」
【名雪】「ひどいよ…祐一」
【名雪】「わたしだって,たまには早起きするよ」
【祐一】「1ヶ月に1回くらいだろ…」
【名雪】「だから,たまに,だよ」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
【名雪】「ついたよ」
【祐一】「名雪,時間は?」
【名雪】「えっと…わ,まだ10分もあるよ」
【祐一】「奇跡だな」
【名雪】「そうだね」
【香里】「あんたたちの会話を聞いてると,奇跡が安っぽいものに思えてくるわ…」
【祐一】「そうか? 俺たちがこれだけ余裕を持って登校できるなんて,まさに奇跡じゃないか」
【香里】「相沢君」
香里が俺の方を振り返ることなく続ける。
【香里】「奇跡ってね,そんな簡単に起こるものじゃないのよ」
【祐一】「…?」
【香里】「冗談よ,さ,行きましょうか」
【祐一】「…おーい」
(「Kanon」美坂栞シナリオより)
今度は,祐一がそれを"奇跡"と認めようとするのだが,名雪や香里が直後の台詞でそれを打ち消す。こうして,"あり得ないはずの状態"を"奇跡"だと一義的に確定することは,慎重に回避されているのである。
― 超常的な救済としての"奇跡" ―
…水瀬名雪シナリオの場合…
"超常的な救済"としての"奇跡"についても,このことは当てはまる。上記で採り上げた栞の「たとえ話」(美坂栞シナリオ・エピローグ)以外で,"超常的な救済"を意識した"奇跡"の文脈が登場する箇所は,下記の通りである。
【名雪】「…出ていって…」
【祐一】「秋子さんは,まだ助かる可能性だってあるんだ」
【名雪】「……」
【祐一】「いや,絶対に助かる」
【祐一】「あのマイペースな秋子さんが,こんなことでいなくなるわけないだろ」
【名雪】「…祐一,奇跡って起こせる…?」
【祐一】「……」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
水瀬名雪シナリオでは,結ばれた祐一と名雪の「絆」が試される状況として*14,あるいは,名雪が「過酷な現実を受容」するジュブナイルの状況として*15,秋子さんの交通事故が発生する。秋子さんとの死別(のおそれ)を直視できない名雪は,「…これで,わたしはひとりぼっちだね…」「わたし,強くなんてなれないよ…」「ずっと,お母さんと一緒だったんだから…」*16と心情を吐露し,秋子さんの回復という"奇跡"を願う。
ところが,ここで名雪が"奇跡"の担い手として言及するのは,そもそも祐一なのであって,あゆではない。しかも,祐一は"奇跡"を願う名雪に対して,「奇跡は起こせない」と語りかける。
「名雪…」
「俺には奇跡は起こせないけれど…」
「でも,名雪の側にいることだけはできる」
「約束する」
「名雪が,悲しい時には,俺がなぐさめてやる」
「楽しいときには,一緒に笑ってやる」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
「奇跡は起こせない」けれど,楽しいときに一緒に笑うように,悲しいときは一緒に「悲しい」と泣くことができる,と祐一は説くのである*17。「奇跡は起こせない」という現実は,悲しいことだけれど,それでもかけがえない。だから,悲しみを否定することはない。強くなることが,悲しみを否定することだというのならば,強くなれなくても,それはそれで構わない。
おはよう 目覚めは 眩しくて 悲しい
さよなら 許せない 僕たちの弱さが よかった
(「Kanon」OP『Last regrets』より)
こうして,二人は「悲しい」ことを「悲しい」と認め合うことによって,「ひとりぼっち」ではない自分達の"絆"を再確認することができ*18,名雪が「過酷な現実を受容」するというジュブナイルも達成される*19。名雪シナリオの物語は,駅前のベンチで待つ祐一の許に名雪が駆け付けて,二人が雪の中でキスを交わしたときに,事実上閉幕しているのだ*20。
【名雪】「きっと,悲しいことがあったんだよ」
【祐一】「…悲しいこと?」
俺の心を見透かしたような名雪の言葉に,思わず訊き返す。
(中略)
【祐一】「……」
【名雪】「がんばろうね」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
【名雪】「わたし,やっぱり強くはなれないよ…」
【名雪】「だから…」
(中略)
【祐一】「強くなくたって,いいんだ」
【名雪】「…うん」
【名雪】「俺が,名雪の支えになってやる」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
そして,上記の分析は,美少女ゲームのパラダイム*21に即した見地からも支持できるものである。そもそも,名雪シナリオの中テーマとして本稿が推している"Bond-絆-"とは,"三段階層式フォーマット"*22のうち"会話とエピソードの積み重ね"という第二階層を膨らませたものに当たる。この領域での先駆的作品として,「居心地の良い仲良し空間」*23という世界観を構築した「To Heart」(Leaf,1997年)を外すわけにはいかない。「To Heart」と本作の名雪シナリオを比較すると,「To Heart」が"絆"の価値を楽しさを共感すること*24に求めたのに対して,本作の名雪シナリオは"絆"のかけがえなさを"悲しみの共感"として描写しており,ここに"絆"を巡る両作品間のメタ的志向の共通性を見出すことができる。
このように,名雪シナリオにおいて,物語が閉じた後,エピローグで秋子さんが回復したとしても,それはもはや"救済"としての体を成していない。なぜならば,"絆"を確かめ合った名雪と祐一は,既に悲しみを受け容れており,"奇跡"を待ち望んでいるだけではないのだから。
さらに,名雪シナリオのエピローグは,「いくつもの奇跡」「たくさんの奇跡」について言及する。この言及の仕方は,精妙極まりないものであり,そもそも"奇跡"とは,栞がほのめかすように「たったひとつだけ」なのか,果たして"救済"としてもたらされているのか,あるいは本当に"超常的"なものといえるのか,すべて決定的な言質を取らせていない。
俺たちは今,いくつもの奇跡の上に立っていた。
名雪と,この街で再会できたこと…。
名雪のことを好きでいられたこと…。
そして…。
秋子さんの穏やかな微笑みも…。
名雪の暖かな笑顔も,奇跡…。
たくさんの奇跡と偶然の積み重ねの上で…。
(「Kanon」水瀬名雪シナリオ・エピローグより)
"超常的な救済"に違いないかと思われた"奇跡"の描写は,その実,たった数行の文章のせいで,その言葉の一義的な了解から滑り落ちてしまっているのである。
…月宮あゆシナリオの場合…
また,肝心の月宮あゆシナリオにおいて,"月宮あゆの力による超常的な救済"が発動したという描写は皆無であることを見過ごすわけにはいかない。
本当にどんなお願いでもいいの?ああ,もちろんだ本当にほんと?本当にほんとだ本当に本当にほんと?本当に本当にほんとだだったら…ボクの…お願いは…(「Kanon」月宮あゆシナリオ・エピローグより)
確かに,月宮あゆシナリオでは,「持ち主の願いを叶えてくれる,不思議な人形」が思わせぶりに紹介された後,月宮あゆが目覚めるエピローグに上記の場面が挿入されている。そのため,「もっと,祐一君と一緒にいたいよ…」という“あゆ”の本当の「最後のお願い」を目の当たりにし,
【祐一】「でも,まだ願いがひとつ残ってるだろ?」
【あゆ】「ボクは,ふたつ叶えてもらったから,充分だよ」
【あゆ】「残りのひとつは,未来の自分…」
【あゆ】「もしかしたら,他の誰かのために…送ってあげたいんだよ」
(中略)
【あゆ】「大丈夫。きっと,見つかるよ」
【あゆ】「この人形を必要とする人がいれば,必ず…」
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
という回想シーンを合わせ読んだプレイヤーは,水瀬名雪や美坂栞の各シナリオでは,「願いを叶えてくれる,不思議な人形」は「他の誰かのために」送られたのかもしれない,月宮あゆシナリオでは,祐一が見つけた"天使の人形"は「未来の自分」のために届けられたのだから,と想像を逞しくするうち,「ボク(月宮あゆ)」の「お願い」をたったひとつだけ叶える"超常的な救済"がもたらされているに違いない,と整合的な解釈を読み取ろうとする。
しかし,抱きしめられているのは,あくまでも"たったひとつの奇跡のかけら"なのである。これは本当に「たったひとつの奇跡」そのものを意味しているのだろうか?
【あゆ】「…誰が願いを叶えてくれるの?」
【祐一】「俺」
【あゆ】「あはは…そうなんだ」
【祐一】「だから,俺にできないことも叶えてやれないぞ」
【あゆ】「そうだよね…」
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
さらに,よくよく考えてみると,"天使の人形"で願いを叶えるのは祐一なのである。「叶えられるのは俺(=祐一)にできることだけ」だという言及は,月宮あゆシナリオだけで少なくとも4回にも及ぶ。しかも,上記で触れた月宮あゆシナリオのエピローグ場面にしても,本編で同じやり取りが回想されたとき,その直前にあった台詞はやはり「祐一君にできることだったら,どんな願いでも叶えてくれるんだよね…?」なのである。また,この直後に続いたあゆのお願いは「今日だけ,一緒の学校に通いたい…」なのであって,「もっと,祐一君と一緒にいたいよ…」という“あゆ”の本当の「最後のお願い」とは直接結び付かない。
そもそも,かつて祐一に"天使の人形"で二つの願い事*25を叶えたというささやかな実績があったとしても,それは"奇跡"とは無縁な日常的なシチュエーションに過ぎないし,蘇生,復活,治癒や回復といった救命的色彩を帯びた事象との間では,いかにも程度の飛躍が大きい。基本的に,"現実世界"の次元の住人に過ぎない祐一は,無力な存在なのである。
こうしてみると,"天使の人形"への三つ目のお願いが叶ったからあゆが目覚めた,という直接の描写は最後まで存在していない。結局のところ,"あゆの力によって誰かが超常的に救済される"という設定は,それ自体,月宮あゆシナリオにおいてすら,語られているようでいて,実は語られていないのである。
― 日常の中にある非日常的な状態としての"奇跡" ―
他方で,"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"が雄弁に語られることもある。これは,特に麻枝准氏担当のシナリオ*26において,顕著な傾向である。
【天野】「今,相沢さんは,束の間の奇跡の中にいるのですよ」
【祐一】「奇跡…」
確かにそれぐらいの言葉を持ち出してこないと,見合わないような状況だ。
【天野】「そして,その奇跡とは,一瞬の煌めきです」
(「Kanon」沢渡真琴シナリオより)
沢渡真琴シナリオや川澄舞シナリオでは,"奇跡"の非日常性はうまく言語化できない水準のものとして描写されている。これはどういうことかというと,妖狐が「記憶と,そして命」という「ふたつの犠牲」*27と引き換えに人間の姿になったり*28,『希望』という名の『力』を「魔物」として討とうとする少女が夜の校舎にいる*29という,いわば"風の辿り着く場所"のファンタジー的世界観そのものを指して,"奇跡"と呼び習わすわけである。
そう答えるも,胸の内では違うことを考えていた。
おまえは知らないのだろうけど,今俺はとんでもない現実に直面しているんだぞ。
おまえが少しでも相談に乗ってくれればいいのに。
けど,その前におまえは俺の気が確かか,疑ってしまうだろうな。
やっかいなことだ…と。
(「Kanon」沢渡真琴シナリオより)
ここでいう"非日常的な状態"とは,それまでの日常から区別は可能であっても,決して隔絶された世界ではなく,地続きのまま徹底してリアルな場面として描写されることになる。丁度,前作「ONE〜輝く季節へ〜」における"永遠の世界"がそうであったように*30,本作「Kanon」においても,例えば「前半はありがちなベタベタなことをやっていたのに,話が進むにつれて,真夜中の校舎で剣を振り回し,魔物と戦い,ヒロインの内面世界に引きずり込まれて,そして最後は,金色に輝く草原があらわれた」といったような,「どんどん予想だにしなかったイメージに到達してしまう」*31因果経過は,とんでもないけれど,やはり現実なのである。
すなわち,それがどれだけ途方もない可能性だとしても,その状態が起こり得るだけの論理も整合性も,世界にはとっくの昔から隠れ潜んでいる。しかし,決してその全容を知ることなどできない。それでも,実際に起こってしまい,しかも気付いてしまった以上は,その状態を"奇跡"として受け入れるしかないというのである*32。
べつに彼女に用があったわけじゃなかったが,どうしてだか俺は彼女と話がしてみたかった。
少なくともこんな夜の校舎で人,それも女の子と出会うなんて奇跡的だ。
それだけでも話すに充分の価値がある。
(「Kanon」川澄舞シナリオより)
さらに,このような"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"というプロットは,久弥直樹氏担当の"夢の世界"のファンタジー的世界観にも射程が及ぶ。つまり,あまりにもド派手過ぎて忘れがちになってしまうが,主人公の相沢祐一が街で再会することになる“あゆ”の存在自体が,「奇跡の上にあった」ことに他ならないのである。
あゆは,確かに存在していた。
たとえそれが,どんな奇跡の上にあったとしても,俺はこの街であゆと再会した。
(中略)
どれも,失ってみて初めて気づく,かけがえのない瞬間だった。
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
そして,この"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"という文脈の下では,一匹の小狐の餌付けをしたり*33,麦畑に迷い込んだり*34,初恋の少女と指切りをする*35といった,日常の中での些細な出来事を契機として,このような"非日常的な状態"が惹き起こされてしまったことに対する素朴な驚きが,"奇跡"という言葉に仮託されている。これは,前作「ONE〜輝く季節へ〜」において,"永遠の世界"の発生した理由が子供の頃の他愛ない口約束だったことを悟った折原浩平が,そんな小さなきっかけで,愛すべき日常が儚くも壊れてしまい,奇跡的な非日常が成立したという感慨を込めて「とても幸せだった…」と呟いた情景*36をなぞるものでもある。
今こうして過ごしている時間は,もしかするとあり得なかったかもしれない。そんな世界の不安定さと,他にあり得たかもしれない無限の分岐可能性について,「一体そこからどんな物語が発想できるだろう。何があのとき,始まっていたというのだろう」*37と思いを馳せるのである*38。少なくとも,麻枝准氏による"奇跡"の解釈では,そういうことになるのだ。
このような"日常の中にある非日常的な状態"として"奇跡"を捉える見解は,"奇跡"を専ら「Kanon」のファンタジー的世界観という様式に引き寄せて説明するものであり,これまで採り上げてきた他の見解(超常的な救済,あり得ないはずの状態)が"奇跡"を「Kanon」のジュブナイル的主題と対照させながら語ろうとしたことに比べると,ひときわ異彩を放つ解釈である*39。そして,このような"奇跡"の解釈の仕方は,特に作中における矛盾も見当たらないので,全シナリオに共通する最小限度の了解事項として成立するかのようにも思える。
あゆは,確かに存在していた。
たとえそれが,どんな奇跡の上にあったとしても,俺はこの街であゆと再会した。
(中略)
どれも,失ってみて初めて気づく,かけがえのない瞬間だった。
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
しかし,そもそも久弥直樹氏担当の月宮あゆシナリオにおける"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"への言及が,「たとえそれが,どんな奇跡の上にあったとしても」という仮定法による留保付きとなっていることを看過するわけにはいかない。つまり,むしろここでは,「たとえ」「どんな」「あったとしても」と何重にも巧妙にぼかされていて,"夢の世界"のファンタジー的世界観そのものが"奇跡"なのかどうかについても,やはり一義的な意味確定を回避していると読むべきなのである。少なくとも,久弥直樹氏による"奇跡"の解釈では,そういうことになるのだ。
…久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較…
こうしてみると,本作における"奇跡"という言辞を巡って,シナリオ担当の久弥直樹氏と麻枝准氏との間で用法の統一が施されているとは,到底いえない*40。もっとも,このような状況は,前作「ONE〜輝く季節へ〜」において既に先例のあったことである。
「ONE〜輝く季節へ〜」の場合,企画担当の麻枝准氏がプロットを組み立てた"永遠の世界"を巡って,麻枝氏が"永遠の世界"を日常に対する非日常,現実に対する非現実といった二項対立的なものではなく,それまでの日常から切り離されない,徹底して地続きのリアルな状況として描写しようとした*41のに対して,久弥氏はその精緻さを完全には理解せず,"永遠の世界"を現実世界と対立する外界的・異界的な何かとして捉えようとしていたふしがある*42。
それに対して,本作の「Kanon」では,企画担当の久弥直樹氏がプロットを組み立てた"奇跡"を巡って,久弥氏が何重の意味にも"奇跡"という語を多義的に引用しながら,決して一義的な確定を許そうとしなかったのに対して,麻枝氏はその"奇跡"の精妙さを理解し切れず,"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"を一義的かつ雄弁に物語ろうとした*43。
ここには,二人ともメタな方向性は共有しているのだけれど,ベクトルの向きが少しずつ違い,その微妙に異なった方向性が一つの作品の中で混ざり合うことによって,何ともいえない面白さが生み出されていくという側面がある*44 *45。しかし,惜しまれることに,この"同一作品内における競作性"ともいうべき外連味のなさは,本作を最後にKey系諸作品から喪われてしまった*46。
― 日常的な,奇跡のように思える偶然としての"奇跡" ―
これまでの検討を集約すると,結局のところ,「Kanon」における"奇跡"というガジェットとは,"あり得ないはずの状態"と"日常の中の非日常的な状態"と"超常的な救済",ひいては"日常的な,奇跡のように思える偶然"(後述)の全てに射程が及んでおり,しかも一義的に意味を確定することは意図的に避けられているということになる。つまり,「Kanon」という作品の中では,これらの四つの概念が区別されないような世界観が築き上げられているふしがある。
これはどういうことかというと,「Kanon」という作品の中においては,「名雪がこの時間にちゃんと起きてるなんて」というささやかな"奇跡"から,"夢の世界"の次元の住人である“あゆ”と祐一が7年ぶりに再会するという"奇跡"に至るまで,あらゆる"奇跡"が区別されてはならないということである*47。繰り返しになるが,だからこそ,特に久弥直樹氏担当のシナリオでは,「いくつもの奇跡」「たくさんの奇跡」と言及されることになるのだ。
俺たちは今,いくつもの奇跡の上に立っていた。
名雪と,この街で再会できたこと…。
名雪のことを好きでいられたこと…。
そして…。
秋子さんの穏やかな微笑みも…。
名雪の暖かな笑顔も,奇跡…。
たくさんの奇跡と偶然の積み重ねの上で…。
(「Kanon」水瀬名雪シナリオ・エピローグより)
上のテキストでは,"超常的な救済"じみた"奇跡"をなぞるはずの「秋子さんの穏やかな微笑み」*48という文言ですら,「いくつもの奇跡」を構成するうちの一つとして捕捉されているに過ぎない。さらにいうならば,ここでの「奇跡と偶然の積み重ね」という祐一による述懐は,"奇跡のような偶然"という感覚のなせる業であり,そもそもこのような感覚は,"超常的な奇跡"と"非日常的な奇跡"と"日常的な偶然"を等価視しなければ出てこないのだ*49。そこでは,相反概念であるはずの日常と非日常が,ふと魔が差したかのように融合してしまう。このような,まさに非日常(+超常性)と日常を同時に見るという複眼的視線に基づく奇跡観は,Keyの次回作「AIR」(2000年)ではっきりと認知されることになったマジックリアリズム*50 *51を,実は先取りしていたのではないか。
こうして"超常的な奇跡"と"非日常的な奇跡"と"日常的な偶然"が等価視されるとき,"日常的な,奇跡のように思える偶然"という感覚が生まれることになる。それは,過去を振り返るときにだけ有効な,明確な因果経過に分節化できるまでに至らない,剥き出しの生のイメージそのままの認識である*52。
【名雪】「祐一もたまにはジャムつけたらいいのに」
【祐一】「だから,俺は甘い物は…」
途中まで言いかけて,ふと名雪の笑顔と目が合った。
(中略)
【祐一】「…そうだな,たまには甘い物もいいかもしれないな」
イチゴジャムの瓶をあけて,バターナイフを差し入れる。
(中略)
【名雪】「何かたくらんでる?」
【祐一】「俺がジャムを塗って何が画策されるって言うんだ…」
【名雪】「うん,そうだね」
【祐一】「俺はただ…」
名雪と同じことをしてみたくなっただけだ…。
(中略)
【祐一】「奇跡だ」
【名雪】「しみじみ言わないでよっ」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
「ふと,笑い声が聞こえたような気がして…」
「それは,昼間出会った,あの人たちの声で…」
「あの笑顔を,あの楽しそうな声を思い出して…」
「今の自分がどうしようもなく惨めに思えて…」
「つられるように笑って…」
「本当に久しぶりに笑って…」
(中略)
「笑って出たはずの涙が止まらなくて…」
「もう,おかしくもないのに涙が止まらなくて…」
「赤く染まった左手が痛くて…」
「自分が,悲しくて泣いていることに気づいて…」
「…そして」
【栞】「ひとしきり笑ったら…腕,切れなくなってました」
(中略)
【栞】「もしかしたら,これが奇跡だったのかもしれませんね…」
(「Kanon」美坂栞シナリオより)
…世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい…
かつて前作の「ONE〜輝く季節へ〜」においても,川名みさき先輩が友人から架かってきた一本の無邪気な電話で自殺を思い留まったり*53,折原浩平がふと立ち寄った演劇部の部室に上月澪のスケッチブックが忘れっ放しになっていた*54というように,ところどころで偶発的・外因的事象を頼りとするシナリオの場面転換が見受けられたが,今回の「Kanon」においてもこれは同様であり,ふと魔が差したかのような心境の変化や,取るに足らないささやかな偶然が,登場人物たちの運命を左右するほどの重大なトリガーになってしまう描写が決して少なくない*55。
…もしかしたら,これが奇跡だったのかもしれない。そこでは,登場人物たちは過去を振り返り,曖昧に推し測ることでしか,"奇跡"を実感することができないでいる。
このような,"日常的な,奇跡のように思える偶然"という奇跡観が採り込まれると,"外部の事象は人間の意図から独立していて,しばしば人の意志的な営みを中断させる"という問題認識が俄然,迫真性を帯びてくることになるだろう。
一般に,"客観的世界が主観的認識に先行して存在する"という実在論的な世界認識は,比較的平凡な部類に属するものになりがちだが,むしろ「Kanon」の場合には,"現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にはたらくし,どこまでも優しくはたらく"という認識を徹底しているところに特徴を見出すべきである。―現実は,人の心の持ちようなどかかわりなく,人為の及ばない次元において,いくらでも苛酷であり得る*56。「Kanon」における"奇跡"のガジェットに心に沁みいるような優しさがあるとすれば,それは同時に,どこまでも残酷になり得るということと表裏一体なのである*57。
上記のような「Kanon」における世界受容のあり方を評して,「この世は無慈悲で残酷であるとともに,神聖な美しさに満ちている」というユングの言葉が引用されることがあるが*58,これは当意即妙といえよう。さらに付け加えると,系譜論的な見地からも,これは支持できる。現に,本作から5年後に発表された「CLANNAD」(Key,2004年)は,「世界は美しい。悲しみと涙に満ちてさえ」と高らかに宣言しているのだ*59。この点は,いくら強調してもし過ぎるということはない。「Kanon」の世界における他者性は,果てしなく残酷で,果てしなく優しいのだ。
だからこそ,何の伏線もなく*60秋子さんは交通事故に遭う*61。「恋はいつだって唐突だ」*62。祐一とあゆの笑い声をふと思い出したせいで,栞は笑い泣きしながら自殺をためらうし*63,佐祐理さんと舞にしても,「気づいてしまえば,わたしはダメだった」となる*64。それに何といっても,「その時,風が吹いた」という「ただ,それだけ」で,世界は暗転してしまうのだ*65。
ここまで身も蓋もない世界の外因性に対するとき,人為の及ぶような余地はほとんどあり得ないように思われる。少なくとも「Kanon」という世界観の下では,絆や努力によって勝ち取れる程度*66では,"奇跡"という名には到底値しない。祈れば済むような問題ならば,どんなによかったことか,なのである*67。
そういう意味においては,ここで例えば「奇跡を起こすことのできない人間」を想起するようなことは,まったく正しい*68。そんな取り返しのつかなさに直面しても,なお麻枝准氏による"奇跡"の解釈は,「記憶と命―ふたつの犠牲があれば,奇跡は起こせる」と高らかに謳い上げて*69,非日常的ではあっても人為的な"奇跡"の可能性*70を力任せに押し切ろうとするのだが,久弥直樹氏による"奇跡"の解釈にいわせれば,「ちょっと意味ありげでかっこいいよね」*71と軽くいなして,おしまいである。
―ただ,それだけだった。
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
…あらゆる物語可能性に想いを馳せる…
さて,そんな"日常的な,奇跡のように思える偶然"としての"奇跡"ですら,一義的確定的な"奇跡"の定義に該当しないということは,既に触れた通りである。「もしかしたら,これが奇跡だったのかもしれませんね」という言辞には,やはり巧妙なはぐらかしが含まれているのである。
あるいは"あり得ないはずの状態"だったのだろうか。"日常の中の非日常的な状態"のようにも思える。ひょっとすると"超常的な救済"なのかもしれない。それとも"日常的な,奇跡のように思える偶然"だというのか。―何度でも繰り返すが,「Kanon」における"奇跡"とは,区別されてはならないのである*72。
ここから見出せるのは,マルチシナリオ構成から整合的な唯一の物語*73―確定的かつ合理的な解釈―を読み込もうとするプレイヤーの心裡を想定しつつそれを徹底的に逆用して,なおかつ真相を確定させようとしないという,極めてクレバーな表現技法である。本作には,主人公の一人称によって物語が進行するという様式*74を徹底的に逆用した,ADV形式ビジュアルノベルによる表現の限界に対する挑戦が含まれていたのである*75。
プレイヤーは個別のシナリオで起きたこと以外を知ることはできない。もっと踏み込んで言うと,本作は相沢祐一による一人称の語りなのであって,本作で語られるところの世界とは所詮,単なる祐一の認識以上のものではあり得ないということである*76。例外的に,月宮あゆの一人称に切り替わる場面があっても*77,それもまた彼女の視点を通じた一面的な世界認識に過ぎない。マルチシナリオを読み重ねていくうちに,プレイヤーはあたかも他方向の視点から全体を見通す面白さを発見したつもりになるかもしれないが*78,そもそも本作では,プレイヤーに主人公の視点しか与えられていない以上*79,やはり祐一の視点から見えないものを透過すべきではなかったのである。バイアスのかかった叙述の視点しか用意されていないということは,本作でプレイヤーが確定的な世界を把握することが最初から不可能だったことを意味している*80。
ところで,不可能図形という数学用語と不可能物語という心理学用語をご存知だろうか。
不可能図形とは,部分的には可能な図形が全体としてはひとつの図形として成立し得ない図形のことである*81。これに対応するかたちで,叙述の分野においても,一人一人の語りは成り立っても,単なる見方や解釈の違いに留まらず,全体としてはひとつの物語として成立し得ない不可能物語という概念がある。不可能図形が平面図を三次元として錯視してしまう人間の眼の性能を逆手に取るものであるように,不可能物語では,ひとつの物語(供述)を,たとえそこにどんな矛盾や錯誤があろうとも,自分の身体的体験に置き換えた上で,現実の出来事として臨場感をもって受け入れようとする人間の深層心理が逆手に取られているのだという*82。「Kanon」のマルチシナリオがこの不可能物語であるとまではいわないが,少なくとも,ここで挙げたフィクションをノンフィクションとして受けとめたがる心理作用については,本作におけるマルチシナリオ構造の徹底的な逆用に通ずるところがあるといえよう。
結局,「一人の女の子がたったひとつの奇蹟を起こして,一人の命を救う」という可能性へと誘導された*83はずのプレイヤーは,そのままの意味で"奇跡"を確定的に読み取ろうとする都度,当の各シナリオから肯定と否定の循環を付き付けられることになる。そのいつ果てるとも知れない思索を繰り返した末に,ようやく我々は,それが何かは判らないけれど,奇跡はあるのかもしれないという達観めいた境地―あらゆる物語可能性に想いを馳せ*84,その上でいま目の前で起きた出来事(各シナリオのすべてのエピローグ)を心の底から受け入れるという地平―に辿り着くことができるのではないだろうか*85。
しばらく待っていると,後ろから小さな悲鳴のような声が聞こえる。
…どんっ!
直後,背中を押されるような感触。
押される,というよりは何かが背中に当たったような…。
【女の子】「…うぐぅ」
俺と同じくらいの学年だろうか…?
振り向くと,なぜか女の子が泣いていた。
(「Kanon」共通シナリオ -1月7日深夜の夢- より)
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*2:「あの時の雪を,覚えていますか? 深い雪に覆われた街で語られる,小さな奇跡の物語―」:Key公式ウェブサイトのキャッチコピーによる。
*3:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1-2)を参照されたい。
*4:のり@臥猫堂「批評 Kanon」(2005年1月,http://homepage2.nifty.com/nori321/review/kanon.html)が端的にまとめている。
*5:本章の論旨は,特に断りのない限り,今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2),今木「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1)によるところが大きい。本稿は,今木氏によるこれらの指摘に依拠しつつ,具体的な当てはめを試みるものである。
*6:【あゆ】「…ばいばい,祐一君」
*7:夢オチではない。念のため。
*8:この点については,本稿でも,既に指摘した通り,月宮あゆシナリオを具体例に分析してみた。
*9:火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」3.『Kanon』の「構造」(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(3).html)より。
*10:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」物語の純度とゲームの達成感から奇跡の意味を考える(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*11:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*12:フジイトモヒコ「Last examinations」第7回 AYU〜Break Eternity,2〜(2000年8月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_AYU.html)より。
*13:月宮あゆシナリオ,水瀬名雪シナリオ,美坂栞シナリオ。
*14:フジイトモヒコ「Last examinations」第2回 NAYUKI〜Bond〜(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_NAYUKI.html)より。
*15:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:名雪シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*16:ここで,【名雪】「…わたし…お父さんの顔,知らないから…」という台詞が挿入され,名雪が自らの"父性の欠如"について深刻な問題意識を持っていたという事情も顕出しているのだが,本作でこの点がこれ以上追求されることがなかった。なお,久弥直樹「夏日」(2000年6月,C58,Cork Board同人誌『SEVEN PIECE』所収)において,名雪の父との死別が示唆されている(あくまでも非公式設定だが)。
*17:「なぐさめる」ということは,「悲しみを共有する」ことであり,結局は「一緒に泣く」ということである。
*18:「かつて,主人公があゆを失い,悲しみに沈んだ時,当時の名雪と彼の絆では,名雪は主人公を悲しみから救い出すことはできなかった。でも,今なら,名雪と彼の今の絆ならば,同じように悲しみに沈みこんだ名雪を救い出すことができるかもしれない。この絆の強さを問う事件であるのだ。…だが,あくまでもこれは新しい絆の「試し切り」であり,決して名雪編のテーマそのものではない。だからとって付けたようなイベントになり,しかも『最終イベント』『締め』としてしか存在することを許されないのだ。最後に回さなければ,存在する意義をなくしてしまうのであるから。」,フジイトモヒコ「Last examinations」第2回 NAYUKI〜Bond〜(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_NAYUKI.html)より。
*19:「このシナリオで重要なのは,この「過酷な現実の克服」は,あゆの奇跡によって行われるのではなく,それ以前に,祐一の献身的な行動で,為されるといことだろう。その意味では,物語は,過去をトレースして,駅前で名雪が祐一を迎えにいき,キスをしたことによって終わるのだ。つまり,ふたりが支え合うことで,その現実の克服が可能になったということを示唆して,物語は,閉じているのである。」,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:名雪シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*20:ちなみに,祐一のジュブナイルという観点からは,あゆENDがああいう話であるにもかかわらず,“あゆ”の正体を祐一が思い出さないまま終わる名雪ENDが,あゆENDと等価的に配置されている意味に思いを致すことはできないだろうか。ここでは手がかりとして,ひぐちアサ『ヤサシイワタシ』(2001年,講談社,ISBN:4063142671,ISBN:4063142868)のプロットを挙げておきたい(特に2巻)。
*21:1992年以降について解析した論考として,「美少女ゲームのパラダイムは4年で交代する〔仮説〕」(2006年,d:id:genesis:20060406:p1)を参照されたい。
*22:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1-2)を参照されたい。
*23:高橋龍也氏発言「『To Heart』でやりたかったのは「一緒にいて楽しい」ということなんです。性欲を抜きにしても,一緒にいて楽しい女の子を。」「そういうときに重要なのはコミュニケーションだと思うんですよ。それを知ってるから,みんな…常にコミュニケーションを持ちたがってると言うか。誰かといないとつらい時代なのかな,と思っちゃたりもするんですけど。…最終的にそういう誰かがいるってだけで,世界が楽しくなる。モノクロで取り込み風の,冷たい背景のなかに,くるくる表情の変わるキャラクターがいるという対比があることで,すごくキャラクターが浮き出てきて,世界に味が出てくるんです。」「『To Heart』は問いかけなんです。こういう空間をどう思いますか,という。それで良いと思うならば,その空間はなぜ構成されているのかを考えると,結局コミュニケーションを大事にしてるんですよ。」,「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也&原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/page5.html)より。
*24:誰かといないとおもしろくない。なぜなら,人間はつくづく共感する生き物だから。
*25:【あゆ】「ボクのこと忘れないでください」/【あゆ】「今日だけ,一緒の学校に通いたい…」(月宮あゆシナリオ)
*27:【祐一】「奇跡を起こすには,ふたつの犠牲が必要だってわけだ」【祐一】「記憶と,そして命」【天野】「はい」(沢渡真琴シナリオ)
*30:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-2)を参照されたい。
*31:ササキバラ・ゴウ氏&佐藤心氏発言「ササキバラ・ゴウインタビュー:美少女ゲームの起源」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』60頁)より。
*32:のり@臥猫堂「批評 Kanon」(2005年1月,http://homepage2.nifty.com/nori321/review/kanon.html)より。
*33:「あの日,少年だった俺は,丘で一匹の小狐を助けた。」(沢渡真琴シナリオ)
*34:「…そう。だから祐一は,あの日にも現れたんだよ。…訪れてもいなかった,この場所に。」(川澄舞シナリオ)
*36:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c0)を参照されたい。
*38:cogni「存在論的,確率的,麻枝的」(2006年7月,d:id:cogni:20060708:p1)より。
*39:雪駄「Kanon論考:「奇蹟」から考えるKanonという表現」(1999年,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/kanon4.htm)より。
*40:ちなみに,これを制作事情から説明すると,久弥直樹氏の執筆スタイルが基本的に秘密主義だったらしく,未完成段階のシナリオを他のスタッフに読ませることがなかったためと思われる。そのため,全シナリオの脱稿後に初めて,久弥氏と麻枝氏との間で脚本のすり合わせが行なわれ,修正箇所はキャラクター相互の登場時間や場所の矛盾解消に留められたらしい。開発中,麻枝氏はずっと,久弥氏から「あゆは死んでるんだよ」と聞かされていたとのことである。久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。
*41:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-2)を参照されたい。
*42:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#20060827fn75)とその注釈先を参照されたい。
*43:「舞と真琴は,あゆの影響ないですねぇ。その2キャラは,自らの力で奇跡を起こしているんですよ。」,麻枝准氏発言「Key Staff Interview 1 麻枝准」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。これに対し,「麻枝さんは,真琴と舞の奇跡は本人が起こしているとおっしゃっていましたが」とインタビュアーに問われた久弥直樹氏は「どう捕らえてもいいところはあるんですけれど…いや,それでもいいと思うんですよ」と微妙な答え方をしている。久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。
*44:flurry「In a flurry/水陸両用日記(2003年9月23日)」(2003年,http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200309.html#23_4)より。
*45:例えば,「ONE〜輝く季節へ〜」における長森瑞佳シナリオ(麻枝准氏担当)と里村茜シナリオ(久弥直樹氏担当)の比較例として,2.14「死刑台のエロゲーマー(死エロ) 2000年3月11日の項」(2000年,http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/03.html#11)。
*46:これを元長柾木氏に言わせれば,久弥直樹氏の離脱後は「Keyの路線がどんどん鬼子になっていく」ということになる。東浩紀・佐藤心・更科修一郎・元長柾木「共同討議 どうか,幸せな記憶を。 美少女ゲーム運動1996-2004」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』105頁)より。まあ,これ以上本稿で追求すべきことでもないが…。
*47:今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2),今木「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1)によるところが大きい。
*48:交通事故に遭った秋子さんが回復したことを指していることは,論を待たない。
*49:今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2),今木「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1)によるところが大きい。
*50:現実・日常にあるものが,伝承や神話,非合理などといった非現実・仮想なものと融合された設定の下,世界観を構築する芸術表現技法。Wikipedia「マジックリアリズム」の項も参照されたい。
*51:ちなみに,「AIR」シナリオライターの一人・涼元悠一氏も,「イメージとして(「AIR」をマジックリアリズム)に捉えられたのなら,本当に光栄なんですけど,…そこまでは…まだいってないと思います」とマジックリアリズムを意識した発言している。麻枝准・涼元悠一・更科修一郎「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」(2001年,『カラフル・ピュアガール』2001年3月号)より。
*52:「そういえば『ONE〜輝く季節へ〜』で「何よりもそれはイメージだ」と折原浩平に"永遠"を語らせたのは久弥直樹ではなかったか」,今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2)を参照されたい。里村茜シナリオのことである。
*53:「その友達は私の目が見えなくなったなんて知らないから,昨日のドラマ見た?っていつもの調子で話しかけてくれて」「私はうんともいいえとも言うことができなくて,ただ相打ちを打つだけだった」「…もうすぐ私は死ぬんだって思ってたから」「友達はずっとドラマの最終回の話をして,最後にこういったんだよ」「『最終回おもしろくなかったね』って」「『みさきが考えてたのと違う結末になっちゃったね』って」「『みさきが考えてくれた話の方が面白かったよ』ってね」「そしたらね,何だか悩んでたことが馬鹿らしくなって」「悩んでたことが馬鹿らしくなったら,死のうって思ってたことも馬鹿らしくなって」「なんだ,私が悩んでたことはこの程度のことだったんだって,そう思ったんだ」(「ONE〜輝く季節へ〜」川名みさきシナリオ)
*54:「そんな中で,オレはふと見慣れた物を見つけた。緑色のスケッチブック。間違いなく澪の物だった。浩平(…あいつ,ここで着替えたときにそのまま忘れていったな)苦笑しながらその側に近づく。」(「ONE〜輝く季節へ〜」上月澪シナリオ)
*55:今木「取るに足らぬ出来事による『中断』」(2003年11月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200311.html#21)より。
*56:これは,主として久弥直樹氏が主導する"奇跡"観を,世界認識と関連付けて分析する見解である。他方で,麻枝准氏の"奇跡"観には,心の持ちようひとつで現実が変容するような世界認識の気安さが残っているということになるらしい。今木「現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にも優しくもはたらくという認識」(2000年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/g0002.shtml#07)より。確かに,非日常の極みともいうべき川澄舞シナリオにしても,「おまえが気づけばいいんだ」なのである。
*57:今木「現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にも優しくもはたらくという認識」(2000年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/g0002.shtml#07)より。
*58:今木「現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にも優しくもはたらくという認識」(2000年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/g0002.shtml#07)より。
*59:【ことみ】「世界は美しい」【ことみ】「悲しみと涙に満ちてさえ」(「CLANNAD」一ノ瀬ことみシナリオ)。ちなみに,この台詞を書いたのは久弥直樹氏ではなく涼元悠一氏(Key所属シナリオライター,当時)なのだが,Keyにおける久弥直樹氏→涼元悠一氏というシナリオライターの継受については,本稿ではこれ以上追求しないものの,検討に値することは間違いない。
*60:「何の伏線も張られていないところで唐突に発生する」「リアリティを極端に無視した異常なイベント」だと酷評する向きもある。その例として,サロニア私立図書館「Miracles do not come true. You only realize miracles by yourself.」(2003年,http://april1st.niu.ne.jp/column/Kanon.html)。しかし,やはり交通事故は勿論のこと,人の死別や発病といったものは,本人にも周囲の者にとっても,何の伏線もなく唐突に発生してしまうという状況認識の方が,経験則に沿っていると思われるし,よっぽどシビアな感覚に基づいているのではないだろうか。
*66:友情,努力,勝利?
*67:"奇跡"へのこだわりを見せるキリスト教的価値観にしても,"奇跡"とは信仰のきっかけに過ぎず,信仰によってもたらされることはあり得ないらしい。本稿とは無関係なので,これ以上追求しないが。
*68:「一見,物語のテーマを崩しかねない『奇跡』というシステムだが,実際は,物語のテーマを補強するシステムとして『奇跡』は描かれているのだ。これはどういうことかというと…結局のとこ,『奇跡を起こすことのできない人間は,その現実を受容し,それでも前向きに生きて行かざるを得ない』といった形で,物語の主題を補強しているのである。」,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」物語の純度とゲームの達成感から奇跡の意味を考える(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*69:これは沢渡真琴シナリオでのものだが,久弥直樹氏担当のパートを含む他の全シナリオに射程が届く解釈になり得る。
*70:前作「ONE〜輝く季節へ〜」においても,麻枝准氏は「奇跡は人との絆が起こすものなんだ」と筆を走らせている。拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-4-2)を参照されたい。
*72:制作者意思にも沿っている。「(すべての奇跡を起こしているのはあゆだというふうにとれるのは,)蛇足かなとも思ったんですけど,僕は,理由のない奇跡っていうのがあまり好きではないので,ひとつの答えとして用意したんです。(麻枝さんは,真琴と舞の奇跡は本人が起こしているとおっっしゃっていましたが,)それでもいいと思うんですよ。…ほんと,ユーザーさん次第ですね。…どう捕らえてもいいところがあるんです。」,久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』)より。
*73:いわゆる"TRUE END"と呼ばれるものである。
*74:一人称は,勘違いすることもあれば,本音を隠すこともあるし,ときには自分の推測を断定的にしゃべり,嘘もつく。最近ならば,「涼宮ハルヒの憂鬱」TVアニメ版(2006年)が主人公・キョンによるナレーションで進行した様式を評して,「一人称の語り手は信用できない」という指摘があったことが記憶に新しいのではないだろうか。今木「八月の残りの日 原作のキョンは信用できない一人称の語り手です」(2006年,d:id:imaki:20060531:p1),K氏の読む価値なし日記クラシック「そうだ谷川流について語ろう」(2006年,d:id:kimagure:20060407),はじめてのC お試し版「ハルヒ総括3『面白い世界』」(2006年,d:id:hajic:20060704:p3),bmp_69「『涼宮ハルヒ』を語る三人のキョン」(2006年,http://bmp69.net/mt/archives/2006/06/post_409.html)を参照されたい。ちなみに,この実況調一人称/一人称独白体による新言文一致は,新井素子まで遡るらしい。
*75:これはあくまでも,1999年当時におけるという意味での歴史的評価である。「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1 所収)より。
*76:一人称は,勘違いすることもあれば,本音を隠すこともあるし,ときには自分の推測を断定的にしゃべり,嘘もつく。最近ならば,「涼宮ハルヒの憂鬱」TVアニメ版(2006年)が主人公・キョンによるナレーションで進行した様式を評して,「一人称の語り手は信用できない」という指摘があったことが記憶に新しいのではないだろうか。今木「八月の残りの日 原作のキョンは信用できない一人称の語り手です」(2006年,d:id:imaki:20060531:p1),K氏の読む価値なし日記クラシック「そうだ谷川流について語ろう」(2006年,d:id:kimagure:20060407),はじめてのC お試し版「ハルヒ総括3『面白い世界』」(2006年,d:id:hajic:20060704:p3),bmp_69「『涼宮ハルヒ』を語る三人のキョン」(2006年,http://bmp69.net/mt/archives/2006/06/post_409.html)を参照されたい。ちなみに,この実況調一人称/一人称独白体による新言文一致は,新井素子まで遡るらしい。
*78:いわゆる「神の視点」と呼ばれるものである。
*79:プレイヤーが主人公の視点しか獲得できないことと,プレイヤーと主人公が一心同体になることは別の問題である。プレイヤーが主人公と一心同体になるもならないも,人それぞれという気がするのだが。sharan「『プレイヤー=主人公』という神話」(2006年,http://blog.livedoor.jp/sharan428th/archives/50507432.html)も参照されたい。
*80:肯定的にせよ,否定的にせよ,「Kanon」のシナリオが説明不足だと評される所以である。
*81:錯視図形ともいう。その例として,"ペンローズの三角形"がある。
*82:浜田寿美男「〈うそ〉を見抜く心理学─『供述の世界』から─」(2002年,NHKブックス,ISBN:4140019379)より。
*83:超常的な救済としての"奇跡"。美坂栞シナリオのエピローグでの示唆。
*84:麻枝准氏は,"非日常的な状態"という一義的な"奇跡"の解釈から出発して,奇跡に惹き起こされてしまった素朴な驚きというかたちで物語可能性への想起を導こうとした。これに対して,久弥直樹氏は,"奇跡"の解釈についてもあらゆる可能性を排除せず,物語可能性に対する想起を多層的なイメージとして導こうとした。これもメタな方向性を共有した二人による同一作品内での競作の一例である。
*85:「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年,d:id:imaki:20051119#p1 所収)より。