競馬サブカルチャー論・第20回:馬と『Kanon』その1〜雪が溶ける頃,冬の日の物語もまた,“思い出”に還る〜

競馬サブカルチャー論とは

 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで,歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し,数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と,その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
 「……」「だったら…」「ボクの…お願いは…」深い雪に覆われた街で語られる小さな奇跡―“思い出”に還る物語。―馬は,常に人間の傍らに在る。
 その存在は,競馬の中核的な構成要素に留まらず,漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では,サブカルチャーの諸場面において,決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
 ※本稿には,PCゲーム版の内容に関する強烈なネタバレが含まれています。本文に施されている注釈は,熟読したい人向けです。なお,ゲーム版を"水瀬名雪"→"沢渡真琴"→"川澄舞"→"月宮あゆ"→"美坂栞"*1の順でクリアした後の読者を想定しています(え)。
 
 1.Visual Art's/Key 『Kanon』より
 2."ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon」
   1) 文芸様式としてのファンタジー
  1:「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所"
   1) ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論
  2:「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語
   1) 月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成
 3.「Kanon」における"奇跡"のガジェット〜小さな"奇跡"の物語
  1:"奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか
  2:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(1)〜あり得ないはずの状態
  3:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(2)〜超常的な救済
   1) 水瀬名雪シナリオの場合
   2) 月宮あゆシナリオの場合
  4:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(3)〜日常の中にある非日常的な状態
   1) 久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較
  5:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(4)〜日常的な,奇跡のように思える偶然
   1) 世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい
   2) あらゆる物語可能性に想いを馳せる
  6:あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない?
   1) "同一世界解釈/確定的過去共有"とは
   2) "多世界解釈/遡及的過去形成"とは
   3) マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路
   4) 「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来
  7:それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな"奇跡"の物語
   1) 7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?
 4.馬と「Kanon」(←ここから読んでも無問題)
 5.主な先行文献の相関関係


Visual Art's/Key 『Kanon』 より

雪が降っていた。

思い出の中を,真っ白い結晶が埋め尽くしていた。

数年ぶりに訪れた白く霞む街で,

今も振り続ける雪の中で,

俺はひとりの少女と出会った。

 
―“思い出”に還る物語―

 
…そして…

 
―小さな“奇跡”の物語―

 
"Kanon"

 
(「Kanon」オープニング/DVD-ROM解説書より)

「Kanon」の物語は,彼女との再会から始まることになる。 「Kanon*2は,1999年6月4日にゲームブランドKeyから発売された成人向け恋愛アドベンチャーゲーム(いわゆる18禁PCゲーム)である。2000年1月7日には18禁描写を省略したPC全年齢対象版も発売された。また,2004年11月26日には全年齢版で追加されたイベントCG等も収録した18禁DVD-ROM版が「Kanon Standard Edition」の名称で廉価再販され,PC全年齢対象DVD-ROM版も「Kanon Standard Edition 全年齢対象版」の名称で2005年1月28日にやはり廉価再販されており,現在でも容易に入手することができる。
 本作は,Tactics所属時代に「MOON.」(1997年),「ONE〜輝く季節へ〜」(1998年)を制作した主要スタッフが,ゲームブランドKeyを立ち上げた後,記念すべき第1作目として企画・制作された美少女ゲームである(企画・脚本:久弥直樹/脚本:麻枝准/音楽:折戸伸治OdiakeS/原画:樋上いたる/CG:ミラクル☆みきぽん,鳥の,しのり〜)。先発の「ONE〜輝く季節へ〜」,後発のKeyブランド諸作品「AIR」(2000年),「CLANNAD」(2004年)と併せて,四部作的な評価を受けることが通例である*3。また,Tactics〜Keyの系譜にとって,シナリオライター麻枝准氏と久弥直樹氏による最後の競作としても意義深い。
 本・競馬サブカルチャー論では,始祖鳥「同級生」(エルフ,1992年)によって美少女ゲーム(恋愛ADV,恋愛SLG)が成立し*4,「河原崎家の一族」(エルフ,1993年)による黎明といわゆるリーフ・ビジュアルノベル三部作*5―「雫」(Leaf,1996年),「痕」(Leaf,1996年),「To Heart」(Leaf,1997年)―による到達をもってビジュアルノベルへの分岐・進化が遂げられた*6と解釈する"美少女ゲーム/ビジュアルノベル史観"をなぜか採用しているのだが,このような史観に沿って本作の歴史的意義を説明するとするならば,次の通り指摘することができるだろう。
 ―「Kanon」とは,"ビジュアルノベルの繁栄期"*7を代表する,"感動系(泣きゲー)"*8のエポックメイキングとなった作品である。確かに,美少女ゲームとしてのパラダイム*9ないし年代論という見地から見るならば,"三段階層式フォーマット"―"叙述の視点とキャラ萌え"→"会話とエピソードの積み重ね"→"ヒロインと主人公の物語"―*10 *11に属するもののその革新性は乏しく,系譜的にはあくまでも「ONE〜輝く季節へ〜」(1998年,Tactics)及び「AIR」(2000年,Key)の中継作に過ぎない*12。しかし,文章・画像・音楽を表現技法として融合的に用いるビジュアルノベル*13としての完成度に着目するならば,「Kanon」という作品には,音と絵とテキストの調和がもたらしたゲーム表現ならではの"叙情"や"美しさ"があり,「絵や音楽とシンクロして詩的なテキストが降って来た」*14とまで評されるくらい,それはプレイヤーの心の琴線に触れる。ただし,そのシナリオは決して万人受けするものとは限らない―。
 このように概略されることの多い「Kanon」は,もはや美少女ゲームとしては古典の域に達した観すらあるのだが,このたび発表後7年目にして異例ともいえる二度目のテレビアニメ化が実現することになった。「AIR」TVアニメ版(2005年)や「涼宮ハルヒの憂鬱*15TVアニメ版(2006年)を手がけた京都アニメーションによる制作で,2006年10月5日25時からBS-iにて2クール作品として放送が開始されるのである。この「Kanon」TVアニメ版(第2期)を心ゆくまで満喫するためには,原作のPCゲーム版を予習ないし復習しておくに越したことはない(というよりも,原作を知らずに視聴すると腑に落ちないことが多いかもしれない)。
 そこで,今回の競馬サブカルチャー論では,その前半部を用いて,本作が"感動系(泣きゲー)"のエポックメイキングであるにもかかわらず,どうして"万人受けしない"のかという点にも言及した上で,文芸的な"様式と主題"を踏まえつつ,本作のストーリーを概説することを試みることにしたい。


"ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon

真夜中の校舎に佇む少女との出会いは,「Kanon」がファンタジーであるということを再認識させてくれる。 文芸的な側面から批評するならば*16,本作「Kanon」は"ジュブナイルファンタジー"である,というのが適切だろう。ここにいう"ジュブナイルファンタジー"とは,ジュブナイル(成長物語)という主題(テーマ)を備え,文芸様式としてのファンタジーという体裁を採る文芸作品を意味する。端的にいえば,ファンタジーの様式を用いて*17ジュブナイル的な主題*18を表現した作品のことである。

… 文芸様式としてのファンタジー

 ファンタジーとは,一般的には,幻想的・空想的な要素といった仮想の設定の下,世界観を構築する芸術表現技法のことである。仮想的なあらゆる設定を排斥し,現実世界にのみ準拠した世界観を構築するリアリズム文学に対するアンチテーゼとして位置付けられるものである。このファンタジー文学はさらに二類型に分岐する。"剣と魔法のファンタジー"と"文芸様式としてのファンタジー"である*19
 前者の"剣と魔法のファンタジー"とは,異世界(現実世界とは別の世界)を舞台に,緻密かつ詳細な世界観を展開する物語のことであり,その代表作として「指輪物語」「ゲド戦記」「ナルニア国ものがたり」(いわゆる,世界三大ファンタジー)が挙げられる通り,単に"ファンタジー"というときはこの"剣と魔法のファンタジー"を指しているのが通例である。
 これに対して,後者の"文芸様式としてのファンタジー"とは,古典的意味におけるファンタジーのことであり,幻想的・空想的な要素といった仮想の設定を所与の前提として,抽象的かつ不条理なままの世界観を当然視する物語のことである。"剣と魔法のファンタジー"がその世界観を緻密かつ詳細に描写することに重きを置くのに対して,"文芸様式としてのファンタジー"は,現実世界におけるリアリズムの絶対性―その存在が疑われることもなく,説明を要するまでもなく,ただ実在すると断言される―を,そのまま自らの世界観に置換する。つまり,「存在」する以上,その存在を疑うことはもはや無意味であり,そこに「説明」を求めることもまた,無意味なものである。このようなテーゼに基づいて,架空世界こそがリアリズムそのものだとみなすわけである*20叙事詩や神話,天地創造の起源譚といった非写実的な口承文芸がその代表例ということになる。
 「Kanon」の様式は,この"文芸様式としてのファンタジー"によるものである*21。少なくとも,写実的なリアリズム文学の様式に連なるものではないので,「リアリティを無視している」*22という批判は妥当しないし,リアリズム文学に即した解釈を無理やりひねり出すこと*23も無用である。要するに,ファンタジー文学とリアリズム文学との比較は,単なる個人の嗜好(好き嫌い)の問題に過ぎず,二項対立的に優劣を決すべき問題ではない。
 

― 「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所" ―

 それでは,実際に「Kanon」が採り込んでいるファンタジーの世界観は何だろうか。シナリオの文脈に沿いつつ,あえて踏み込むとするならば,次のような見解を挙げることができるだろう。すなわち,

 月宮あゆ*24は7年間,昏睡状態の中で覚めない夢を見続けている。やがて,彼女の夢は巨大な想念となって現実世界を呑み込み,今,この街では"夢の世界"と"現実世界"という二つの次元が重なって存在している。主人公の相沢祐一が7年ぶりに再会する“あゆ”は,この"夢の世界"の次元におけるたった一人の住人である*25。ただし,“あゆ”は単純に月宮あゆが見ている夢の中での彼女の姿ではない。“あゆ”は,月宮あゆの人格のうち"エス(子供の部分)"*26が抜け出した「夢人」ともいうべき意識体である。
 もっとも,あゆの夢の想念がひとりでに街を覆い尽くしたわけではない。7年ぶりにこの街に帰ってきた祐一の無意識下の想念が,眠り続ける月宮あゆの夢の想念と共鳴*27した結果,初めてあゆの夢の想念は肥大化して街を包み込むまでになり,“あゆ”が出現できるようになったのだ*28。そして,主人公の想念による干渉*29に対して,彼女の想念が"夢の世界"を創り出してまで呼応しようとする契機こそが,「約束」*30だったのである―。*31

 このように,あまりにもド派手過ぎて忘れがちになってしまうが,主人公が街で再会することになる“あゆ”の存在自体がファンタジーによる所産に他ならない。そして,この"夢の世界"と"現実世界"という二つの次元の重なった街という世界観*32はすべてのシナリオに共通するものだが,このうち月宮あゆシナリオ,水瀬名雪*33シナリオ,美坂栞*34シナリオの三つ*35は,あゆの想念による"夢の世界"の次元に完全に入っている。特に,美坂栞シナリオのエピローグにおいて,"街を包むあゆの夢の想念"をほのめかす栞のセリフがあることは見過ごせないだろう。

【栞】「例えば,ですよ…」
【栞】「例えば…今,自分が誰かの夢の中にいるって,考えたことはないですか?」
【祐一】「何だ,それ?」

(「Kanon美坂栞シナリオ・エピローグより)

 他方で,あゆの想念による"夢の世界"の次元が存在するにもかかわらず,そこから影響を受けないままストーリーが完結するシナリオも存在する。川澄舞シナリオと沢渡真琴シナリオの二つ*36がそれである。それぞれ,対応するファンタジーの世界観が追加されている。すなわち,

 川澄舞*37が深夜の校舎で討とうとしている『魔物』とは,彼女自身が10年前に拒絶した自分の超常的な『力』そのものであり,その名を『希望』という。舞には自身の『希望』という名の『力』を,敵として倒す以外の選択肢がない。なぜならば,『希望』を手放している今の彼女には『未来へと紡ぐ力』がないから―。*38
 沢渡真琴*39正体は,妖狐である。かつて主人公に拾われて,捨てられた狐が,人間のぬくもりを再び求めて,ものみの丘から人里へと降りてきたのだ。しかし,狐が人の姿になるためには二つの代償が必要だった―。*40

というものである(本稿では,これを"風の辿り着く場所"*41と呼ぶことにする)。本作を構成する五つのシナリオ(+α)相互の関連性・整合性については諸説あるところだが,川澄舞シナリオと沢渡真琴シナリオにおいても,ストーリーとは直接無関係だとしても,あゆの想念による"夢の世界"の次元はやはり発生している,と捉えた方が比較的穏当な解釈を導くことが容易である*42
 とりあえずここでは,「Kanon」におけるファンタジーの世界観は,"の世界"*43と"の辿り着く場所"*44という二つのプロットから多層的に構成されている,とまとめることにしておこう。

…ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論…

彼女の稚拙な振る舞いにも,理由があるというのだろうか。 本作のヒロイン5人のうち,月宮あゆ川澄舞沢渡真琴の3人*45については,特にその非常識さと精神年齢の幼稚さが指摘され,キャラ萌え*46としてあざとい*47という批判が向けられることがある*48。おそらく,特に強烈なのは,“あゆ”によるたい焼き食い逃げ*49と,真琴による水瀬家での"いたずら"ということになるだろうか。
 しかし,その当否自体はさておくとして*50,ヒロインの"幼さ"は各シナリオの伏線として張られているものであり*51,しかも,上記の通りファンタジーの世界観からは,“あゆ”は"エス(子供の部分)"が抜け出した存在であり,舞は『希望』という名の『力』を手放しているし,真琴はその正体が妖狐だからそれぞれ幼稚な面がある*52,と整合的に説明できることには留意しておくべきだろう*53
 ついでにいえば,賛否両論があるであろう原画デッサン(いわゆる"いたる絵")については,その歴史的経緯を踏まえて各自で判断するほかない。
 

― 「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語 ―

「俺たちはすでに出会っていて,そして,約束をしたんだからな」

(「Kanon川澄舞シナリオより)

美坂栞には,特に語るべき祐一との過去の思い出はない。なぜなら,彼女の思い出は,これから作られるのだから。 「Kanon」は,"思い出に還る物語"と呼称されることがある*54。前作の「ONE〜輝く季節へ〜」が,"ボーイ・ミーツ・ガール"後の再会で終わる物語だったとするならば,本作の「Kanon」は,再会から始まる物語―"ボーイ・ミーツ・ガール・アゲイン"がモチーフになっているわけである*55。そして,実際,過去に出会っていた"ヒロインと主人公の物語"*56が思い出されたとき,「Kanon」の各シナリオはクライマックスを迎える*57
 ところで,本作における"思い出"とは,いったい何だろう?

「…思い出って,なんのためにあるんだろうね」

(「Kanon月宮あゆシナリオより)

 ここでは,"思い出"というキーワードを手がかりに,本作におけるジュブナイル*58的な主題をあえて読み解くことにしてみよう。また,前作「ONE〜輝く季節へ〜」との連続性を見過ごすこともできないので,これを踏まえることにもしたい。
 前作「ONE〜輝く季節へ〜」の段階で,既に"思い出"という言葉には,実に多義的な援用が施されている。そのなかでも,特に注目すべき言及は次の箇所である。

 そこは,永遠がある世界…。
 だったら,その悠久の時の中で…。
 あの人の思い出と一緒に過ごす。
 短い思い出だけど,それなら何度も繰り返せばいい。
 だって,永遠なんだから…。

(「ONE〜輝く季節へ〜」里村茜シナリオより)

 少女は,穏やかに微笑んでもう一度言葉を紡いだ。
 オレの訊きたかった言葉。
 切望してやまなかった言葉。
 これから,思い出という永遠の中で,ずっとオレだけの為の言葉を…。
   「夕焼け,きれい?」
 それが,永遠のはじまり…。

(「ONE〜輝く季節へ〜」川名みさきシナリオより)

 そこは永遠の世界なんだから。
 ずっと旅し続ける世界なんだから。
 長森との幸せな記憶を持ってゆけばいい。
 そこで,オレは永遠に長森との幸せな思い出を反すうし続けることができる。

(「ONE〜輝く季節へ〜」長森瑞佳シナリオより)

 "思い出という(名の)永遠"である。この"思い出という(名の)永遠"は,「Kanon」でもやはり頻出しているので,ここで対照させてみよう。

 もう胸を引き裂かれるような現実も見ないで済む。
 そう…。
 春の日も,夏の日も,秋の日も,冬の日も,舞の思い出と暮らそう。
 楽しかった思い出だけを連れて,いこう。
 そうすれば,何も辛くない。
 すべてはここで終わってしまったけど…

(「Kanon川澄舞シナリオより)

 俺はただ,安らかな日々を過ごしたかった…。
 いつまでも,思い出は安らかな場所であり続けて欲しかった…。
 思い出は,誰にとっても安心できる場所だったから…。

(「Kanon月宮あゆシナリオより)

 ところで,「ONE〜輝く季節へ〜」において,ここで"思い出"という言葉から連想された"永遠"という概念*59には,"不変"や"停滞","過去"や"非日常"という程度の意味合いが込められているが,とにかく否定・脱却すべき対象として位置付けられている。

(滅びに向かって進んでいるのに…?)
 いや,だからこそなんだよ。
 それを,知っていたからぼくはこんなにも悲しいんだよ。
 滅びに向かうからこそ,すべてはかけがえのない瞬間だってことを。
 こんな永遠なんて,もういらなかった。
 だからこそ,あのときぼくは絆を求めたはずだったんだ。

(「ONE〜輝く季節へ〜」永遠の世界Ⅷより)

 不変で非日常的な過去への「永遠」*60よりも,有限で日常的な未来への「流転」を選ぼう。そこでは,全てが失われていくし*61,楽しいこと*62も悲しいこと*63もあるけれど,かけがえのない*64,人と人との絆*65は確かにあるのだから―*66。「ONE〜輝く季節へ〜」におけるジュブナイル的な主題は,この通り"永遠否定"*67というフレーズに要約することができる*68。そして,「ONE〜輝く季節へ〜」では"永遠否定"を果たすための"絆"を恋愛に求めることにし,6人のヒロインとのラブストーリーを描こうとした*69
 これに対して,本作「Kanon」が取り組んだジュブナイル的な主題は,"永遠否定"を前提にした"過酷な現実の受容"である*70。そして,前作の"永遠否定"から本作の"過酷な現実の受容"への応用を表すための工夫として,主題(大テーマ)をさらに三つの中テーマに分解し,それぞれについてヒロインごとのシナリオで掘り下げて描写している点に特色が見受けられるといえよう。また,"過酷な現実の受容"を果たすために"絆"を求めるという点は前作と同様である。ただし,「Kanon」で持ち上げられる"絆"は恋愛には限られない。むしろ,"家族愛"への傾斜が見受けられる(これをあえて,中テーマのひとつ"絆"の内容に関する小テーマと呼ぶことにする)。

ONE〜輝く季節へ〜」「Kanon」シナリオ構成の比較対照図

"ONE〜輝く季節へ〜" "Kanon"
大テーマ
永遠否定 過酷な現実の受容
中テーマ




Bond(絆)


*71
名雪*72
Time Limit(限りある日常)真琴*73*74
Break Eternity(永遠破壊)*75あゆ
小テーマ
(Bond-絆-の各論)
恋愛 恋愛+家族愛
シナリオ(敬称略)
久弥直樹麻枝准 麻枝准久弥直樹
*76
 本作のストーリー構成については,「Kanon」というタイトルから連想*77されて,音楽的対位法―和音の連続ではなく,複数の異なる旋律を重ね合わせることによって生じる調和に美を見出す表現技法*78―や*79 *80,絵画の点描画―線ではなく,点の集合や非常に短いタッチによって描写する表現技法*81―に*82喩えられることがある。上の図表*83は,「Kanon」のストーリー構成を―"Bond(絆)""Time Limit(限りある日常)""Break Eternity(永遠破壊)"という中テーマを各自取り扱う五つのシナリオを照らし合わせることによって,"過酷な現実の受容"というジュブナイル的な大テーマを浮かび上がらせる―多層的なものと理解する趣旨から収録しているが,この図は先程採り上げた対位法や点描画といった比喩との親和性が大きい。  各シナリオごとのあらすじとジュブナイル的主題(中テーマ)の詳細については,上の図表中の各注釈を参照すれば充分なのでこれ以上追求しないが*84月宮あゆシナリオにおけるジュブナイル的主題(中テーマ)についてだけは,本稿でも触れておきたい。というのも,"過酷な現実の受容"によって"永遠否定"を遂げるという「Kanon」のジュブナイル的主題が集約されているのは,何といっても,久弥直樹氏が書き下ろした月宮あゆシナリオだからである。

月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成…

 いきなりクライマックスになってしまうが(本当に申し訳ない),シナリオ本文から引用してみよう。

【あゆ】「…ボクのこと…」
【あゆ】「…ボクのこと,忘れてください…」*85
【あゆ】「ボクなんて,最初からいなかったんだって…」
【あゆ】「そう…思ってください…」

(「Kanon月宮あゆシナリオより)

やはり,「Kanon」という物語にとって彼女の存在は特別なのだ。 このシナリオにおける受容すべき"過酷な現実"とは,主人公の相沢祐一が7年前のあゆの事故という過去を直視する(思い出す)ことであるとともに,「ここにいたらいけない」*86存在だった“あゆ”が自らの消失を受け入れる(思い出す)ことに他ならない*87
 問題はその受容のあり方である。「大切な人を目の前で失った,悲しい思い出」を祐一に残したくない*88と考えた“あゆ”の「最後のお願い」は,自分という存在を最初からいなかったことにするというものだった*89。この"過ぎ去るものと初めからないものは等しい"という価値観は,ニヒリズム(虚無主義)的*90なものであり,「ONE〜輝く季節へ〜」でぶち上げられた「永遠の世界」のガジェットの再来に他ならない*91

【祐一】「本当に…それでいいのか?」
【祐一】「本当にあゆの願いは俺に忘れてもらうことなのか?」
 (中略)
【祐一】「お前は,ひとりぼっちなんかじゃないんだ」*92

(「Kanon月宮あゆシナリオより)

 しかし,祐一は,この「最後のお願い」をそのまま叶えようとはしなかった*93。ここで祐一は,“あゆ”という少女が生きた記憶を忘れず,大切な人を失う悲しさをあえて受け容れ,それでもなお“あゆ”の存在した意味を肯定する*94。なぜなら,全てが失われていくし*95,悲しいこともあるけれど*96,“あゆ”と祐一との思い出には,かけがえのない絆が確かにあったのだから*97 *98

【あゆ】「…祐一君…」
【あゆ】「…ボク…」
 (中略)
【あゆ】「ボク,ホントは…」

(「Kanon月宮あゆシナリオより)

 祐一の返事は,彼女の「ボクなんて,最初からいなかったんだ」という"永遠"願望を破壊するものだった(Break Eternity-永遠破壊-)。その結果,“あゆ”も,自身の不可避な消失という"過酷な現実"を,ニヒリズムに陥ることなく,"過ぎ去るもの"を肯定的に捉える"永遠否定"によって,受容することができたのである。
 こうしてみると,“あゆ”の消失に伴う二人の別れは,確かに"過酷な現実の受容"ではあるけれど,悲劇的な挫折として描写されているわけでは決してない*99。なぜならば,二人にとっての悲劇的な別離*100と挫折は,既に7年前に起きていた過去の出来事のほうなのである。7年後の“あゆ”の消失に伴う別れの再現は,“あゆ”と祐一の二人が,7年前に起きた悲しい出来事を直視する*101とともに,その「悲しい現実を心の奥に押し込めて,安らいでいることのできる幻を受け入れ」る*102逃避*103を否定し,その過去をあるがまま,取り返しのつかない"過ぎ去ってしまう"*104ものとしてシリアスに受容するという,二人にとってのジュブナイル完結が含意されている。

月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構図

"現実世界""夢の世界"
祐一のジュブナイルシナリオ中の出来事あゆのジュブナイル“あゆ”あゆ
過酷な現実7年前のあゆの事故過酷な現実昏睡
「…約束,だよ」








*105
現実逃避
(ニヒリズム)
安らいでいることのできる幻*106
空白の7年間
祐一の帰還*107出現←
“あゆ”と祐一の再会





*108
過酷な現実との対峙巨大な切り株過酷な現実との対峙
過酷な現実の受容天使の人形
「…ボクのこと,忘れてください…」ニヒリズム
永遠否定「ひとりぼっちなんかじゃないんだ」
「ボク,ホントは…」永遠否定
「…よかった」過酷な現実の受容
“あゆ”の消失帰還→
ゆっくりと,夜が白み始めていた。目覚め
とまっていた思い出が,ゆっくりと流れ始める…*109       
       たったひとつの奇跡のかけらを抱きしめながら…
*110 *111
 祐一が望んでいた,永遠に続くような「楽しかった安らかな日々」*112という意味での"永遠"はなかった。しかし,別の意味での,二人が共有する思い出という意味での"永遠"はある。だからこそ,祐一の「お前は,ひとりぼっちなんかじゃないんだ」という台詞へとつながる。「Kanon月宮あゆシナリオにおけるジュブナイル・ストーリーとしてのクライマックスは,前作「ONE〜輝く季節へ〜」以来の課題とされてきた"永遠"という言葉が,ニヒリズム的な呪縛から解き放たれるとともに,"過ぎ去るけれども,だからこそ,かけがえのない思い出"という意味で肯定される描写でもあったのである*113

―雪が溶ける頃,冬の日の物語もまた,思い出に還る*114

(「Kanon」パッケージ裏より)

Kanon 1 [DVD]

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Kanon 2 [DVD]

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Kanon 3 [DVD]

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Kanon 4 [DVD]

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Kanon 5 [DVD]

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Kanon 6 [DVD]

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Kanon 7 [DVD]

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Kanon 8 [DVD]

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Kanon ~Standard Edition~

Kanon ~Standard Edition~

Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版

Kanon ~Standard Edition~ 全年齢対象版

Kanon ベスト版

Kanon ベスト版

Kanon オリジナルサウンドトラック

Kanon オリジナルサウンドトラック

Kanon Arrange best album 「recollections」

Kanon Arrange best album 「recollections」

Re-feel ~Kanon/AIR Piano Arrange Album~

Re-feel ~Kanon/AIR Piano Arrange Album~

Kanonビジュアルファンブック

Kanonビジュアルファンブック

*1:水瀬名雪月宮あゆ美坂栞の順番だけは厳守されたい。

*2:以下,単に「本作」と呼ぶときは「Kanon」を指す。

*3:「MOON.」(Tactics,1997年)を含めて五部作と見る向きもある。なお,「planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜」(Key,2004年)は実験作的な意味合いが大きく,「智代アフター〜It's a Wonderful Life〜」(Key,2005年)は一応「CLANNAD」の外伝なので,ここでは割愛しておく。

*4:拙稿「競馬サブカルチャー論・第08回:馬と『同級生』〜18禁ゲームの始祖鳥/馬は”お嬢さま”と”ポニーテール”萌えを導いた〜」(2004年,d:id:milkyhorse:20041219:1103443200),拙稿「競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』〜Key的ジュブナイル主題の集大成/人生が競馬の比喩だった〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060406:p1)を参照されたい。

*5:「初心者のための現代ギャルゲー・エロゲー講座 第2集 ビジュアルノベルの完成」(http://www.kyo-kan.net/column/eroge/eroge2.html)も参照。

*6:拙稿「競馬サブカルチャー論・第16回:馬と『Fate/stay night』〜「燃え」によるビジュアルノベルの復興/英雄的"馬"表現の金字塔〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060417:p1)において,ビジュアルノベル史を前史・黎明期・発展期・繁栄期・停滞期・復興期に沿って概観しているので,参照されたい。また,「河原崎家の一族」については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第09回:馬と『河原崎家の一族 2』〜マルチエンディングシナリオの極北/滅びは馬によって預言されていた〜」(2004年,d:id:milkyhorse:20041224:1103821200)も参照されたい。このほか,相沢恵「永遠の少女システム解剖序論」(2000年,http://www.tinami.com/x/review/02/page1.html),「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/),「「同級生」から「To Heart」までにおける恋愛ゲームの変遷」(2001年,http://web.archive.org/web/20041030195950/http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe10.htm)を参照。

*7:拙稿「競馬サブカルチャー論・第16回:馬と『Fate/stay night』〜「燃え」によるビジュアルノベルの復興/英雄的"馬"表現の金字塔〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060417:p1)において,ビジュアルノベル史を前史・黎明期・発展期・繁栄期・停滞期・復興期に沿って概観しているので,参照されたい。

*8:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-3)を参照されたい。

*9:1992年以降について解析した論考として,「美少女ゲームパラダイムは4年で交代する〔仮説〕」(2006年,d:id:genesis:20060406:p1)を参照されたい。

*10:"感動系(泣きゲー)"というジャンルに即していうならば,ほのぼのとした恋愛パートでプレイヤーを感情移入させ,終盤の劇的な別れと再会で感動させる,と言い換えても構わない。

*11:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1)を参照されたい。

*12:夜ノ杜零司「臨界点ゲーム15 Kanon」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点+1』100頁)より。

*13:実質としてのビジュアルノベル。この下位概念として,テキスト表示形式に応じて,形式としてのビジュアルノベル(全画面)とADV=アドベンチャーゲーム(画面下部限定)の二つに分かれる。「Kanon」は実質としてのビジュアルノベルであり,ADVでもある。

*14:雪駄「雑記帳」(2000年,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d0002-2.HTM#2.3)より。

*15:拙稿「競馬サブカルチャー論・第17回:馬と『涼宮ハルヒの憂鬱』〜馬に仮託されたハルヒの”憂鬱”と有希の”消失”〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060703:p1)も参照されたい。

*16:ここでいう"文芸"とは"原語を媒介とする表現"という程度であり,特権的な深い意味はない。

*17:手段。

*18:目的。

*19:Wikipedia「ファンタジー」の項も参照されたい。

*20:火塚たつや「永遠の世界の向こうに見えるもの」総論(2001年,http://tatuya.niu.ne.jp/review/one/eien/outline.html),火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」総論(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(2).html)を参照されたい。「『「Kanon』という物語のテーマ,もしくはメッセージを探っていくためには,この物語をファンタジーとして受け取り,そのディテールを分析して見たところで,その甘さが砂糖によるものか,合成甘味料なのか,ということがわかるだけで,大した意味はない」という源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)における指摘も同旨と思われる。

*21:この様式は,前作「ONE〜輝く季節へ〜」(Tactics,1998年)からの踏襲でもあるということは,系譜論的にも支持しやすい。拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-2)を参照されたい。

*22:例えば,サロニア私立図書館「Miracles do not come true. You only realize miracles by yourself.」(2003年,http://april1st.niu.ne.jp/column/Kanon.html)は「ファンタジー的な世界観を取り除いた後に残るのは,我々が生活するごく普通の日常世界と全く変わらない『現実の』世界である」と説くが,文芸様式としてのファンタジーを採る立場からは,ファンタジー的な世界観が取り除けるというのはあり得ないことなのである。

*23:記憶障害や精神疾患を読み取ろうとした例として,しろはた「アフター・エヴァの一つの極北"Kanon"」(1999年8月,http://www.ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/kanon.htm)琥珀色の南風「『Kanon』考察」(2002年1月,http://www1.ttcn.ne.jp/~NIGIHAYAMI/kanon.htm)

*24:本作のメインヒロイン。

*25:他方で,相沢祐一をはじめとする他の登場人物は"現実世界"の次元の住人である

*26:フロイト心理学における"エス""自我""超自我"のうち"エス"に相当する部分だそうです。

*27:【祐一】(…あ) 不意に,夢の断片が甦る。【祐一】(…こいつが出てたような気がする) 寒そうに手を合わせている少女を改めて見つめる。【あゆ】「…ど,どうしたの?」【祐一】「変な夢を見た」【あゆ】「夢?」【祐一】「いや,別にたいしたことじゃないけどな」【あゆ】「…ボクも見たよ,夢」 不思議そうに,暗闇の中から俺の方を見つめなおす。【あゆ】「昔の夢だったような気がする…」【祐一】「昔って?」【あゆ】「よく分からない…」(月宮あゆシナリオ)/祐一の無意識下の想念とあゆの夢の想念が交感していることを示唆する一例。

*28:「気が付くと,商店街にいた」,久弥直樹Kanon プレビューSS 月宮あゆ」(1999年,アスペクト『E-LOGIN』1999年5月号付録)より。

*29:こう考えないと,“あゆ"が赤いカチューシャをしている理由が整合的にならない。/「そうだっ! 今度祐一君に会うときは,これつけて行くね」「ああ,約束だぞ」「うんっ,約束」(月宮あゆシナリオ)

*30:「…約束,だよ」

*31:フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_index.html)のうち,第1部と第2部(第1章から第4章まで)による。この論考は,比較的シナリオの文面から着想された丹念な分析が施されており,ファンタジージュブナイルを折衷する穏当な見解として,参考すべきところが多い。

*32:夢オチではない。念のため。

*33:本作のヒロインの一人。

*34:本作のヒロインの一人。

*35:本作の企画兼メインライター,久弥直樹氏による書き下ろし部分。

*36:本作のサブライター,麻枝准氏による書き下ろし部分。

*37:本作のヒロインの一人。

*38:フジイトモヒコ「『舞』〜タナトスの牢獄〜」(1999年10月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/mai_tana_index.html)による。

*39:本作のヒロインの一人

*40:動物報恩譚。日本人にとっては,自明過ぎて論証を待つまでもなく許容できてしまうという意味において,まさに"文芸様式としてのファンタジー"の典型といえよう。Jun Yokoyama「Kanon ファーストインプレッション」(1999年6月,http://web.archive.org/web/20010111200500/http://www.imasy.or.jp/~nysalor/kanon.html),火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」各論8.「日本人」のファンタジー:真琴シナリオ(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(8).html),フジイトモヒコ「Last examinations」第4回 §3,MAKOTO〜Time Limit,2〜(2000年9月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_index.html)も同旨。

*41:「風」というキーワードは本稿では初出になるが,この呼称は制作者意思に沿うものである。「今回は…風がキーになっているので。風が生まれて,それが最後に辿り着く場所が…エンドだって感じにしてるんですよ」,麻枝准氏発言「Key Staff Interview 1 麻枝准」(2000年,エンターブレインKanonビジュアルファンブック』より。川澄舞シナリオならば「あの日の麦畑が広がっている」,沢渡真琴シナリオならば「びゅうと風が吹きつけ,白いベールが…遠く空へと舞った。」という各クライマックスを想起されたい。そういえば,本作のED曲のタイトルも「風の辿り着く場所」だ。

*42:どのシナリオでも前半部に"あゆの見ている夢"が挿入されているし,また,そういう余地を残しておくことが制作者意図にも沿う。久弥氏は,川澄舞沢渡真琴両シナリオにも,あゆの想念による"夢の世界"が及んでいて構わない,と示唆している。久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレインKanonビジュアルファンブック』より。

*43:久弥直樹氏の担当による月宮あゆ水瀬名雪美坂栞の各シナリオ。

*44:麻枝准氏の担当による川澄舞沢渡真琴の各シナリオ。

*45:水瀬名雪の"幼さ"は,幼馴染である相沢祐一との関係性のみにおいて見受けられる現象なので,ここでは数えない。

*46:To Heart」を例にしたその深淵については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-1-2)を参照されたい。

*47:例えば,「ヒロインの精神年齢が幼すぎる(小学校低学年程度)ため,プレイヤーに子供を見る時の,あるいは動物を見るときのような相手に対する感情をを抱かせる。それが設定上はヒロインが恋愛対象となりうる程度の年齢であるため,それを所謂萌え要素と錯覚させているフシがある」という指摘。http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=187&uid=Aquarius より。また,「相手に信頼を置く度合いが高いなら頭を触られても何の抵抗も出なくなる訳ですが,この主人公 始めの方から頭に手を置き過ぎてます」という指摘。http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=187&uid=torii より。後者については,「To Heart」のマルチ以来の伝統芸能としか言いようがないのでは(え)。

*48:例えば,サロニア私立図書館「Miracles do not come true. You only realize miracles by yourself.」(2003年,http://april1st.niu.ne.jp/column/Kanon.html)

*49:何度も繰り返しているような印象が強いが,実は2回。しかも,後に“あゆ"はたい焼き屋のおじさんのところまで謝りに行き,代金も支払い,許してもらっているのだが…。

*50:繰り返しになるが,これは嗜好の問題に過ぎず,優劣を決すべき問題ではない。

*51:"泣きゲー"における演繹的なキャラクター設定については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-3-2)を参照されたい。

*52:しかも真琴以外は後に解消されることになる。

*53:こぼれ話としていえば,ヒロインの性格にいわゆる"電波"が混ざるのは,ビジュアルノベルの開祖「雫」(Leaf,1996年)―「長瀬ちゃん。…電波,届いた?」―以来の伝統芸能みたいなものである(え)。

*54:発売前のキャッチコピーに由来している。ちなみに,商業的には,前作「ONE〜輝く季節へ〜」を作ったスタッフはここにいるよ,と思い出してもらうための言葉でもあったらしい。「以前からボクらの仕事を好きでいてくれたファンに対して,メッセージを発信しようって決めていたんです。『あ,あの連中がまた何かやったぞ』って」,麻枝准氏発言「Key Staff Interview 1 麻枝准」(2000年,エンターブレインKanonビジュアルファンブック』より。

*55:ここからも,「ONE〜輝く季節へ〜」から「Kanon」への連続性を見出すことができるだろう。

*56:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1)を参照されたい。

*57:ただし,美坂栞シナリオを除く。なお,Key系諸作品における「夢」のガジェットの用法については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-4-2)を参照されたい。

*58:「成長物語」という程度の意味で構わない。

*59:「永遠の世界」というガジェット自体については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-2)を参照されたい。

*60:停滞。

*61:「(滅びに向かって進んでいるのに…?)」(「ONE〜輝く季節へ〜」永遠の世界Ⅷ)

*62:「とても幸せだった… それが日常であることをぼくは,ときどき忘れてしまうほどだった。」(「ONE〜輝く季節へ〜」プロローグ)

*63:「すべては,失われてゆくものなんだ。そして失ったとき,こんなにも悲しい思いをする。それはまるで,悲しみに向かって生きているみたいだ。」(「ONE〜輝く季節へ〜」"みさお"のシーン)

*64:「滅びに向かうからこそ,すべてはかけがえのない瞬間だってことを。」(「ONE〜輝く季節へ〜」永遠の世界Ⅷ)

*65:この"絆"について,「ONE〜輝く季節へ〜」よりもさらに年代的に先行する「To Heart」(Leaf,1998年)にいわせると,"居心地の良い仲良し空間"―誰かといないとおもしろくない。なぜなら,人間はつくづく共感する生き物だから―ということになる。

*66:「だからこそ,あのときぼくは絆を求めたはずだったんだ。」(「ONE〜輝く季節へ〜」永遠の世界Ⅷ)

*67:フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)より。

*68:後のKeyブランド諸作品が散々試行錯誤を繰り返すことになる"過酷な現実との対峙,受容,克服"というジュブナイル的主題の出発点である。拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-4-2)を参照されたい。

*69:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-4-1)を参照されたい。

*70:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」第3部 Kanon(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_3.html),拙稿「競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』〜Key的ジュブナイル主題の集大成/人生が競馬の比喩だった〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060406:p1)も同旨。火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」総論2.『Kanon』の「主題」と「様式」(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(2).html)のいう「失恋による成長」もおそらく同旨。

*71:『「Kanon」というドラマの解答編的な意味合い」』―中テーマについては,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:佐祐理シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html),フジイトモヒコ「Last examinations」第6回 SAYURI〜Cure〜(2000年6月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_SAYURI.html)へ。

*72:『古い絆の継承と新しい絆の成立(初恋の再成就)』―中テーマについては,フジイトモヒコ「Last examinations」第2回 NAYUKI〜Bond〜(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_NAYUKI.html)へ。シリアスドラマを読み込む見解として,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:名雪シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)もある。

*73:『タイムリミットとニヒリズム』―中テーマについては,いずれも天野美汐の登場に注目するフジイトモヒコ「Last examinations」第4回 MAKOTO〜Time Limit,2(2000年5月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_MAKOTO.html),源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:真琴シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)へ。ちなみに,火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」8.「日本人」のファンタジー:真琴シナリオ(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(8).html)天野美汐に注目していない。

*74:『タイムリミットとニヒリズム』―中テーマについては,いずれも美坂姉妹の関係に注目するフジイトモヒコ「Last examinations」第3回 SHIORI〜Time Limit,1(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_SHIORI.html),源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:栞シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)へ。

*75:『子供時代との決別』―中テーマについては,フジイトモヒコ「Last examinations」第5回 MAI〜Break Eternity,1〜(2000年6月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_MAI.html),源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:舞シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)へ。あらすじについては,フジイトモヒコ「『舞』〜タナトスの牢獄〜」(1999年10月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/mai_tana_index.html)へ。舞と祐一の過去共有に潜むノイズについて,then-d「自己の物語化及び物語の交錯論」4.Kanon 舞シナリオを中心に(2002年7月,http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe9.htm#chapter4)による指摘も重要。

*76:本図は,フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)所収の図を参考に,本稿執筆者が修正したものである。

*77:タイトル由来について,Keyの公式見解は,あくまでも語感重視であって,意味内容を明らかにしていないらしい。本稿で採り上げなかった以外の解釈としては,宗教的・文学的には"正典"という意味があるので,同一スタッフによる「MOON.」「ONE〜輝く季節へ〜」の正当な後継作であるという宣言を含意しているという見解があり得る。また,美術的には"理想的比率"という意味があるらしい。

*78:Wikipedia「対位法」「カノン(音楽)」「フーガ」の各項も参照されたい。

*79:雪駄「「Kanon」における五つの旋律の構成表 ver.0」(1999年11月,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d9911-1.HTM#11.3)より。フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」第3部 Kanon(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_3.html)はさらに詳細な検討を試み,音楽的対位法の用例に厳格に従うならば本作の様式は"kanon"ではなく"fuga"だと結論付け,J.S.バッハ作曲「フーガ ト短調」BWV578(小フーガ ト短調)を想起している。

*80:それはそうと,音楽的対位法の用例に厳格に従わないとするならば,ヨハン・パッヘルベル作曲「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーニ長調」第1曲(パッヘルベルのカノン)を想起するのもよいだろう。なぜならば,この曲はJRA日本中央競馬会の1998年度TV-CMで用いられたほか,ラジオ番組「Kanon 〜The snow talks memories〜 雪降る街の物語」(JOQR,2000年10-12月,田村ゆかり川上とも子)のED曲でもあったからである。また,"楽譜には単旋律が記され,そこに追唱の開始点や音高などを示した記号がつけられ,演奏者がその記号に従って追唱を補い,曲を完成させることになる記譜法"を"謎カノン"と呼ぶとのことであり,これも示唆に富んでいる。

*81:Wikipedia「点描画」の項も参照されたい。

*82:「この技法は絵の具をパレットで混ぜず,単独色をキャンパスに点々と描く。近くで見るとそれらは独立した色の点だが,少し距離を置いてみると,協調しあって,一つの形と色調を作り出す。その色調は,パレットの上で合成したのでは得られない鮮烈さを持っている。」,フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)より。

*83:本図は,フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)所収の図を参考に,本稿執筆者が修正したものである。

*84:申し訳ないが,本稿執筆者の知力と体力と気力の限界を超えてしまった。

*85:Kカスタネダ「人の願いと人への願い」(2002年,http://homepage3.nifty.com/taji21/kanon/hitononegai.htm)。それから,ワタナベさん「ろじっくぱらだいす 遊戯 Kanonゲームレビュー」(1999年,http://logipara.com/game/kanon1.html)

*86:【あゆ】「…ボク…ここにいたらいけないの…?」【あゆ】「…いたら…いけない人間なの…?」(月宮あゆシナリオ)

*87:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。

*88:【あゆ】「大切な人を失う悲しみ…」【あゆ】「ボクは知ってるから…」【あゆ】「だから,ボクはもう…」(月宮あゆシナリオ)

*89:ちなみに,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)はこのセリフの段階で「7年前の出来事も,この冬の再会も,そしてこの別れもそれが,どんなに過酷なものであろうと,すべて現実の出来事として受け止めて前向きに生きてください」と読み取ろうとするが,これは早すぎる。

*90:Wikipediaニヒリズム」の項も参照されたい。

*91:ONE〜輝く季節へ〜」において,折原浩平が周囲から忘れ去られ,「永遠の世界」へと消え去る理由について,「『永遠』を求めた彼は,当然の代償として「初めからなかったこと」になる。なぜなら,『流転』より『永遠』を選んだ彼は,同時に「過ぎ去ること」の意味の否定,すなわち「初めからないことと過ぎ去ることは等しい」という価値を選んでしまったのだから」と説いた見解として,フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)

*92:この「ひとりぼっち」というフレーズは,実は「奇跡」や「約束」「思い出」に負けず劣らず,本作において象徴的な用いられ方をされている言葉といえよう。

*93:このセリフの段階では,実は,祐一による"過酷な現実の受容"の方がわずかに先行している。/【祐一】「本当に,これでお別れなのか…」【あゆ】「…うん」【祐一】「ずっと,この街にいることはできないのか?」【あゆ】「…うん」【祐一】「そうか…」(月宮あゆシナリオ)

*94:フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」第2部 AYU(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_2.html)より。

*95:【あゆ】「きっと,当たり前のことが当たり前ではなくなるからだよ」【あゆ】「今までは,すぐ目の前にいて…」【あゆ】「一緒に話して,一緒に遊んで…」【あゆ】「そんな,何も特別ではなかったことが,特別なことになってしまうから…」(月宮あゆシナリオ)

*96:【あゆ】「他愛ない幸せがすぐ目の前にあった時のことを,ふと思い出してしまうから…」【あゆ】「だから,悲しいんだよ」(月宮あゆシナリオ)

*97:【あゆ】「こうして祐一君と一緒にいられることが,ボクにとってはかけがえのない瞬間なんだよ」(月宮あゆシナリオ)

*98:このセリフの段階で,祐一は"過酷な現実の受容"による"永遠否定"を“あゆ”に先行して遂げたことになるだろう。

*99:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。

*100:7年前のあゆの事故では,死の演出は施されていたが,あゆが死んだとは断定されていない。ここでの描写は,初恋の人が死に瀕しているという動揺して当然な状況における祐一の主観に過ぎない。これを評して,少なくともあゆの生死ぐらいは確かめられたものを,生きているのに,死んでいると勘違いする祐一はあまりにふがいない,と見る向きがある。火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」4.あゆが「帰還」した意味:あゆシナリオ:あゆシナリオ否定派を分析する(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(4).html)より。当時9〜10歳の小学生にそこまで要求するのは酷に過ぎると思われるが,ゲーム発売当時は,このような感情的反発が一部であったらしい。

*101:思い出に「返る」

*102:思い出に「帰る」

*103:「そんな,悲しい幻…。だけど,その時の俺は,現実より幻を選んだ。悲しい現実を心の奥に押し込めて,安らいでいることのできる幻を受け入れた。弱い心が潰れないように…。思い出を,傷つけないために…。」(月宮あゆシナリオ)

*104:思い出に「還る」

*105:フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_index.html)へ。

*106:「そんな,悲しい幻…。だけど,その時の俺は,現実より幻を選んだ。悲しい現実を心の奥に押し込めて,安らいでいることのできる幻を受け入れた。弱い心が潰れないように…。思い出を,傷つけないために…。」(月宮あゆシナリオ)

*107:Kanon」ゲームスタート場面である。

*108:祐一を待ち続ける夢を見ていたあゆから“あゆ”が抜け出し,彼女が祐一と再会した思い出を持ち帰ったからこそ,あゆに目覚めの契機が訪れるという側面がある。

*109:このラストシーンを前作「ONE〜輝く季節へ〜」の久弥直樹氏担当箇所に置き換えると,「すぐ側に大切な人がいる。だからその人と歩んでいく。今までの思い出は少しだけ…。だけど,これからたくさん増えていく…。限りのある時間を精一杯使って…。」という川名みさきシナリオ・エピローグがズバリ当てはまる。また,「ONE〜輝く季節へ〜」の麻枝准氏担当箇所に置き換えるならば,「一年分の,思い出いっぱい。ひとりでがんばった思い出いっぱい。いろんなひとにありがとう。そしてさようなら。」という椎名繭シナリオ・エピローグということになる。

*110:本図は,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html),フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html),フジイトモヒコ「Last examinations」第7回 AYU〜Break Eternity,2〜(2000年8月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_AYU.html),フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_index.html)から着想を得たものである。

*111:本稿の立場とは異なり,「Kanon」のジュブナイルとファンタジーとの間にはねじれ構造があると解釈する論考として,火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」3.『Kanon』の「構造」(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(3).html),火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンジーの証明〜」4.あゆが「帰還」した意味:あゆシナリオ(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(4).html)

*112:「俺はただ,安らかな日々を過ごしたかった…。」「あゆの笑顔を見ていると,こんな一瞬が永遠に続くといいなと,心から思う。そして,それは,叶えられない願いではないと… 今の俺は,信じて疑わなかった…。」(月宮あゆシナリオ)

*113:ドラマCDの「ONE〜輝く季節へ〜 (1) 長森瑞佳ストーリー あなたのこころをわたしのなかへ」(1999年,ムービック)について,雪駄「ONEドラマCD長森編の永遠」(2000年,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d0002-1.HTM#2a)が同旨。本稿はその「Kanon」への当てはめである。

*114:「今日という日もまた,思い出の中に還っていく…」(月宮あゆシナリオ)/「何気ないやり取りのひとつひとつが,栞の言う通り大切な思い出に還っていく…」「この瞬間も,やがて思い出に還る…」(美坂栞シナリオ)