競馬サブカルチャー論・第19回:馬と『ひぐらしのなく頃に』〜陰謀か。偶然か。それとも祟りか。〜

競馬サブカルチャー論とは

 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
 あったのは、悲劇と喜劇。惨劇に挑め。―馬は、常に人間の傍らに在る。
 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
 ※本稿には、「鬼隠し編」から「祭囃し編」までPCゲーム版の内容に関する記載が含まれています。

07th Expansion竜騎士07ひぐらしく頃に」より

昭和58年初夏。
例年よりも暑さの訪れの早い今年の6月は、
昼にはセミの、夕暮れにはひぐらしの合唱を楽しませてくれた。
××県鹿骨市。県境にある寒村、雛見沢村
人口2千に満たないこの村で。それは毎年起こる。
雛見沢村連続怪死事件(1979年〜1983年)
毎年6月の決まった日に、1人が死に、1人が消える怪奇。
巨大ダム計画を巡る闘争から紡がれる死の連鎖。
昭和中期に隠蔽された怪事件が、蘇る。
陰謀か。偶然か。それとも祟りか。
いるはずの人間が、いない。
いないはずの人間が、いる。
昨夜出会った人間が、生きていない。
そして今いる人間が、生きていない。
惨劇は不可避か。屈する他ないのか。
でも屈するな。
君にしか、立ち向かえない。
 

(「ひぐらしく頃に」鬼隠し編 より)

 「ひぐらしく頃に」は、竜騎士07氏を代表とする同人サークル"07 th expansion"によって製作され、2002年8月から2006年8月までの間、「鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」「暇潰し編」「目明し編」「罪滅し編」「皆殺し編」「祭囃し編」の8編に分けて発表・頒布された、同人ゲームソフトである。
 「ひぐらしく頃に」は、画面に表示される文章を読み進めることによって物語が進行する形式をとっており、さらに効果音や音楽によって文章の効果を高めることも志向されていることから、通常は"ビジュアルノベル"に分類される。もっとも、「ひぐらしく頃に」はいわゆるマルチエンディングの形式をとっておらず、それどころかゲーム内に一切の有意な"選択肢"が存在しないため、そのプレー形式は、ひたすらにマウスの左ボタンをクリックし続け、作者によってあらかじめ定められた物語を定められた順番に従って読み進めていくというものでしかない。そのため、一部には「ひぐらしく頃に」とはPCを媒体とした小説であり、ゲームであることを前提としたビジュアルノベルと呼ぶべきではないという見解も根強く存在している。
 この点、原作者である竜騎士07氏は、「ひぐらしく頃に」がゲームか否かと問われた際に、「インターネットを通じて不特定多数の読者とともに推理を楽しむことによってゲームたりうる」と答えている。しかし、この解釈による場合、ネタバレ回避等の目的に基づきインターネットの情報をあえて遮断してプレーするユーザー、あるいは既に物語が完結してネット上にも真相が流布された後にこの作品を入手したユーザーにとっては、もはやゲームたりえないのではないかという指摘が可能である。また、物語の進行中にインターネット上で考察がされるのは紙媒体の推理小説においても同様であるが、これらの推理小説を"ゲーム"と分類するのは困難であることからしても、作者の説明である一点をもって説明十分というわけにはいかない。
 思うに、プレイヤーの技術や偶然に左右されるアクション性やシミュレーション性―"ゲーム性"と総称されるものをゲームから切り落とすという方向性は、「ひぐらしく頃に」以前から存在していた。コンシューマーゲームの「弟切草」に端を発する"ビジュアルノベル"というジャンルは、あらかじめ作者によって設定されたテキスト文、CG、音楽等の情報コントロールという手段のみで完結する娯楽である点に本質がある。無論、こうした要素は従来のゲームの一部としては既に存在していたものだが、"ビジュアルノベル"という単体のジャンルは、"ゲーム性"の排除によって読者の関心をシナリオに集中させ、そのシナリオの完成度を徹底的に追求することによって成立したという歴史的経緯がある(なお、ビジュアルノベル18禁ゲーム界の関係については「馬と『Fate/stay night』」参照)。
 ならば、その方向性の究極の到達点として"有意な選択肢が存在しない"という形式が採用されるのは道理であり、現に、"ビジュアルノベル"形式でありながら有意な選択肢がほとんど存在しないゲームも、「ひぐらしく頃に」のリリースより早い時点で既に発売されていたこと(一般的な評価は低かったにしても)も、見落としてはならない。その意味で、「ひぐらしく頃に」は、やはりゲームに分類することが妥当であろう。


 ところで、「ひぐらしく頃に」が"ゲーム"に属することを前提としてビジュアルノベルに分類した場合、この作品に用いられている技術的水準は、決して高いものとはいえないことに気づく。
 「ひぐらしく頃に」の長所とされるのは、テキスト文の平易さ・読みやすさ、音楽・効果音といった、ビジュアルノベルと呼ばれるために最低限必要な要素における水準の高さである。しかし、それ以外の付加的要素についてが、「ひぐらしく頃に」には極端に薄い。有意な選択肢が存在しないこともそのひとつだし、作成に技術を要する一方で2002年ころには既にビジュアルノベルに不可欠の魅力と位置づけられていたはずのいわゆるイベントCGについても、「ひぐらしく頃に」に登場するのは、全編を通じてなんと「罪滅し編」での1枚だけ(しかも、その評判は極めてよろしくない)である。
 同人ゲームである「ひぐらしく頃に」に商業ゲームと同水準を求めるのは酷、という声はあろうが、「鬼隠し編」の2年前に登場し、今なお同人ゲームの代名詞として語られる「月姫」(「半月版」は2000年8月、「完全版」は同年12月リリース)がイベントCGを豊富に投入してファンの感嘆を誘っていることからすると、同人ゲームであるという一点のみをもって「ひぐらしく頃に」のイベントCGの少なさを全面的に擁護することはできないだろう。
 しかし、「ひぐらしく頃に」において特筆すべきは、それらの点ではない。2002年当時、「ひぐらしく頃に」より優れた技術を投入し、革新的なシステムを投入していた同人ゲームは少なからず存在していた。そうであるにも関わらず、数多の同人ゲームの中で、同人という枠を大きく超えた成功を収めたのが、"ありふれた技術的水準"で製作されたはずの「ひぐらしく頃に」だったことにこそ、この作品の深遠さがある。
 「鬼隠し編」の頃にほとんど注目するファンはいなかったという「ひぐらしく頃に」だが、物語の進展につれて次第に固定ファンがつき始め、「暇潰し編」までの前半部分が完結した時点で体験版として「鬼隠し編」の公式HPからのダウンロードが可能になると、「ひぐらしく頃に」の人気は燎原の火の如く広がっていった。今や、「ひぐらしく頃に」はアニメ化、漫画化、コンシューマーゲーム進出―とその勢いはまったくとどまるところを知らない。2006年8月時点において「ひぐらしく頃に」と比較しうる同人ゲームといえば、もはや既出の「月姫」以外には存在しない。比較対象を商業作品も含めたゲーム界全体まで視野を広げたとしても、近年でこのクラスの成功を収めたものは数えるほどしかない。
 
 「ひぐらしく頃に」がこれほどまでに成功した理由を、思いつくままにいくつか挙げてみよう。
 このゲームは、冒頭で紹介したとおり、主人公・前原圭一とその仲間たちが、原因不明の"雛見沢村連続怪死事件"に立ち向かうという内容である。村の守り神であり、また村の敵に祟りをもたらすとされる"オヤシロさま"の伝説が伝わる村で、毎年祭りの夜に1人が怪死し、1人が消えるという魅力的な舞台設定と、物語を伝える竜騎士07氏の平易な文章、効果的に挿入される音楽・効果音のコラボレーションは、プレイヤーを物語世界に引きこみ、かつその心に恐怖を引き起こすという目的を最大限に現実のものとしている。
 ゲームにしろ小説にしろ、製作者とプレイヤーの関係において最も困難なのは、なんら共通の社会的基盤を有していない両者の間に、物語世界という共通の基盤を構築することである。まして、"恐怖"というものは、理論ではなく感覚である。言語によって理論を共有することは容易だが、感覚を共有することは極めて困難であるはずだが、「ひぐらしく頃に」がその困難を乗り越え、本来不可能の領域に属する恐怖感覚の共有を成し遂げたことは特筆に値するといえよう。
 また、ゲーム内でプレイヤーの恐怖心をかき立てるために奇襲的に用いられる演出―「鬼隠し編」におけるあるヒロインの突然の変貌や、「綿流し編」での突然の○○の写真の挿入も、それ以前に叙述される平和な日常に慣れたプレイヤーを非日常の世界へ引きこむ手段として、実に秀逸であった。
 前記のとおり、これらのシーンに用いられている技術は、ゲーム製作のために必要な技術としては、そう高度なものではない。しかし、このゲームにおいては、最善のタイミングで発動される平凡な技術が、秀逸な技術を大きく上回る効果をもたらしている。まさに、発想の勝利である。「ひぐらしく頃に」は、高度な技術を持たないスタッフが、比較的手っ取り早い技術によって実現できる手法だけを武器に、その組み合わせの妙を最大限に生かすことで成功の原動力とした好例といえる。
 さらに、「ひぐらしく頃に」の全8編、4年にわたるリリース期間が゙プラスに作用したという側面も否定できない。「ひぐらしく頃に」は、もともとリリースの予定が半年に1本(夏・冬、年2回というコミックマーケットの予定に合わせられている)、完結まで丸4年という、同人ならではのゆっくりしたペースでなされた。
 もし「ひぐらしく頃に」が商業ゲームだったとしたら、このようなペースでのリリースは許されなかったであろう。しかし、同人ゲームであった「ひぐらしく頃に」の場合、1編がリリースされてから次の編がリリースされるまでの"間"がそのままインターネット等での議論の熟成期間となり、評判が口コミで広まる宣伝期間ともなった。
 かつて、ファミリーコンピューターディスクシステムで、「前後編」という構成をとったアドベンチャーゲームが存在した。「新・鬼が島」、「ファミコン探偵倶楽部・消えた後継者」「ファミコン探偵倶楽部2・うしろに立つ少女」等が有名なこのシステムは、もともとはディスクシステムの容量が限定されていたことから、大容量のアドベンチャーゲームを実現させるために考え出された苦肉の策だった。しかし、開発の都合上前編・後編の同時発売ができず、数ヶ月のタイムラグが生じたこれらのゲームにおいて、プレーヤーたちは物語がいよいよ進展しようとする前編のラストで"こうへんにつづく"とお預けを食らい、悶々たる思いで後編の発売を待望せざるを得なかった。…作者が是を意識していたのかどうかは分からないものの、「ひぐらしく頃に」はこのお預けを7回食らわせることで、プレイヤーたちの欲望を支配し、自らに対する期待を高めることに成功したのである。

 その他の「ひぐらしく頃に」の特徴として、完結するまでジャンルが明確にされず、それゆえに幅広い層のプレイヤーを獲得したという点も挙げられよう。
 「祭囃し編」がリリースされ、「ひぐらしく頃に」の世界が無事完結した今になってみれば、「ひぐらしく頃に」の主題・ジャンルがなんだったのかを語ることは可能である。「ひぐらしく頃に」で提示された謎は超常的な現象によって初めて説明しうるものであり、その意味で「ひぐらしく頃に」はホラー的要素の強い物語だった。しかし、「ひぐらしく頃に」が完結する以前の段階においては、最初からホラー作品として紹介されていたわけではない。
 「ひぐらしく頃に」のうち、プレイヤーに"謎"を投げかける「暇潰し編」までの前半部分―いわゆる出題編のみがリリースされ、それ以降の後半部分は未発表だった時期、製作者である竜騎士07氏は、出題編での"謎"の解決が純粋な"推理"によってもたらされるのか、それとも"ホラー"の要素を含むものなのかについて、明確にしないというスタンスをとっていた。この手法は、結果的に「ひぐらしく頃に」に注目するファン層をより広範なものとし、推理小説として楽しみたい人、ホラーとして楽しみたい人、どちらなのか解決をつけてもらいたい人をすべて集結させることになった。「ひぐらしく頃に」のプレイヤーたちの中には、結果的に正しかった"ホラー派"だけでなく、出題編の前半時点での"正解率1%"という煽り文句に乗せられた"推理派"がかなり多数含まれていた。「ひぐらしく頃に」の人気は、それらの総和によって構成されたものである。
 
 もっとも、この手法はいわば諸刃の剣であり、特にすべての謎が人為的・論理的なものとして解決されることを期待していた層からは、最終的に示された"解答"に対して少なからぬ不満の声があがる結果となったことも事実である。文学の中で最大のファン数を占めるミステリー小説、特に古典的推理小説においては、謎に対する解答は、読者に予測、せめて了解可能なものでなければならないとされている。そこでは謎を解き明かすために必要な情報が事前に読者に与えられ、読者がその情報に基づいて真実にたどり着くことが可能な作品が優れているとされ、そのための作法は"ノックスの十戒"、"ヴァン・ダインの二十則"等の形で半ば常識となっている。
 「ひぐらしく頃に」を純然たる推理小説としてとらえた場合、その解答は、推理小説における事件の解決に用いてはならないとされる性質のものである点が少なくない。例えば"凶器は未知の薬物"という点は"ノックスの十戒"、"ヴァン・ダインの二十則"の双方に抵触するし、"真の敵は秘密結社"という点も"ヴァン・ダインの二十則"に抵触する。"ノックスの十戒"、"ヴァン・ダインの二十則"は必ずしも絶対的なものとはいえず、これらの中には"真犯人が中国人であってはならない"という意味不明なものや、"探偵が犯人であってはならない"といった時代遅れのものが含まれること、後にこうした定義に反発する動きも顕在化し、これらに反するトリックを用いた作品も少なからず名作として認知されるに至っている点などを考慮しても、「ひぐらしく頃に」の解答が、本格推理ならではの完全に理論的な解決を期待していた"本格推理派"には強烈な拒否反応を受ける性質のものだったことは否定できない。
 
 ただ、その点を批判しようとする場合、作者である竜騎士07氏が「鬼隠し編」当初から"犯罪か、それとも祟りか?"という形で非科学的な解決もありうることをプレイヤーに予告してきてたこと(出題編に収録されている「お疲れさま会」を見れば明らかである)を無視してはならない。
 この観点から言うと、ホラー的要素を必要とすること自体はそれほどアンフェアな手法だったわけではないのである。また、謎のすべてを論理的に解決したわけではなかったとはいえ、「綿流し編」「目明し編」で用いられたメイントリックは極めて正統な推理小説的手法であり、また推理に必要な伏線も十分に張られていた。
 結局のところ、「ひぐらしく頃に」は、インターネットという媒体との相性の良さゆえに時流に乗ることに成功したメガヒット作品といえるが、他のどの作品でもなく「ひぐらしく頃に」がメガヒットを飛ばした背景には、やはり「ひぐらしく頃に」の中に、そうなるにふさわしい魅力が詰まっていたからだと評価すべきであろう。「ひぐらしく頃に」は、同人ゲームの歴史を語る上では、「月姫」と並ぶターニングポイントとして今後語り伝えられていくことだろう。

馬と「ひぐらしく頃に」

 さて、このような形で日本の同人ゲームの歴史にその名を刻んだ「ひぐらしく頃に」だが、その世界観の中に馬との極めて密接な関連性が存在していたという事実には、果たしてどれほどの読者が気づいただろうか。
 「ひぐらしく頃に」は、物語の舞台が閉鎖的な村という空間に限定されていること、主要登場人物の多くが未成年であることから、馬や競馬への直接の言及は薄い。かろうじて"雛見沢村連続怪死事件"の解決に執念を燃やす刑事"大石"に関連して、彼が北海道出身であり、また競馬を嗜むという描写が見られるものの、これらは物語の本筋とはそう関わりのない記述であり、極端な話、"大石が沖縄出身で競輪を嗜む"という設定であったとしても影響はなかったと言える。
 しかし、我々がたびたび指摘してきたとおりサブカルチャー界においては、名作であればあるほど、作品のあらゆるところに馬・競馬に対するリスペクトが散りばめられている。中には馬・競馬とのかかわりが誰の目にも明らかな形では示されないけれど、"分かる人には分かる"という高度な形で言及されるものも少なくない。同人ゲームの歴史に大きな足跡を残す「ひぐらしく頃に」もまた、決定的な形で馬・競馬との関係を物語の中に取り込み、自らが名作であることを見事に証明していたのである。
 
 「ひぐらしく頃に」と馬との真実の関係が明確にされたのは、物語も大詰めを迎える第7話「皆殺し編」でのことであった。
 「皆殺し編」は、「ひぐらしく頃に」の世界がひとつの世界で破滅するごとに新たな世界への転生を繰り返す"ループもの"であることが明確に語られ、「罪滅し編」までいくつもの世界で逃れえぬ破滅を経験してきたプレイヤーが、ついに真の敵の存在に気づくという重要なパートである。プレイヤーの前に立ちはだかる"真の敵"は、大日本帝国の復興をもくろむ秘密結社、通称"東京"であった。ある理由により雛見沢村を狙っていた"東京"の一勢力は、ある目的のために、圭一の仲間のひとりである"梨花"の生け捕りを実行すべく、配下の防諜機関"山狗"を差し向ける。仲間を守り抜き、それまでの世界では一度も避けることのできなかった破局を避けるために懸命に"山狗"と戦う圭一とその仲間たちだったが、ついに彼らの前に姿を現した"黒幕"によって敗れ去り、ついには"皆殺し"の憂き目にあってしまう。
 これこそが日本史の中で馬が経験した、ある未曾有の殉難を再現したものであることに、どれほどのプレイヤーが気づいただろうか?
 ここでのヒントは、"山狗"という防諜機関の名称である。"山狗"という名詞が本来指し示すものは、単なる"山にいる犬"ではない。イヌ科ではあるものの、イヌとは明確に種族を別にする"オオカミ"である。
 オオカミ…それは、今も人間に最も親しまれる動物であるイヌの仲間でありながら、人間の友として生きていく道を選んだイヌとは袂を分かち、孤高の道を歩むことを選んだ誇り高き肉食獣である。かつては野生の状態で日本全国に生息していたとされるオオカミだが、明治維新以降の乱獲や開発による環境の急変によって生息数が急減し、ついに1910年の捕獲例を最後に日本での発見例は完全に途絶え、既に絶滅したと見られている。
 では、日本のオオカミは、なぜわずか50年ほどの間に、日本列島から完全に姿を消すほどの過酷さをもって乱獲されなければならなかったのか? その答えは、馬と密接に関連している。
 明治維新によって国のかたちを大きく変えた日本は、軍の近代化に必要な軍馬、欧米からとりいれた競馬を発展させるための競走馬を大量に必要とするようになり、日本各地で大規模な馬産が開始されるようになった。
 だが、明治維新以降の開発の急速な進展は、それまで山の中で静かに暮らしていたオオカミの棲み家や、それまで彼らの餌となっていたシカをも大幅に減少させる結果となった。行き場を失い、いつも腹をすかせるようになったオオカミが、人間たちによって飼育されている馬たちを狙うようになったのは、ある意味で必然的なことだった。
 もともと野生のシカを狩っていたオオカミに、馬を狩れない道理はない。しかも、オオカミは狩りの時も集団で行動する賢い獣である。いったんオオカミに侵入された牧場の馬たちは、圧倒的な力を持つオオカミによって皆殺しになり、短期間で壊滅的な被害を受けた。…数え切れないほど多くの馬たちがオオカミの犠牲となり、悲惨な殉難を遂げた。
 
 ここまで言えば、賢明なる読者諸君は、もうお分かりであろう。
 皆殺し編」における圭一たちと"山狗"との戦いは、まさに馬(=圭一とその仲間たち)とオオカミ(=山狗)の関係をなぞっているのである。なるほど、未成年6人と秘密結社の手下の防諜機関との力の差は、まともに考えれば、草食獣と肉食獣以上に大きいかもしれない。圭一たちも、さまざまな秘策をめぐらして善戦はするのだが、最後は黒幕が放った無情の銃弾によって形勢を逆転され、最後はオオカミに侵入された牧場の馬たちがそうであったように、全員「皆殺し」となった。
 しかし、完結編である「祭囃し編」では、圭一たちと"山狗"の戦いの結果は逆転する。圭一たちは、「皆殺し編」で勝ち得ることのできなかった何人もの大人たちの全面的な支持と協力を受け、途中で訪れる致命的な危機をも乗り越えてついに反撃に転じ、最後は"山狗"を撃破する。戦いに敗れた"山狗"を待つ運命は、悲惨な壊滅でしかなかった。
 ここでの"山狗"の運命も、史実におけるオオカミたちの運命をなぞっている。馬を襲うことによって飢えから逃れようとしたオオカミたちだったが、彼らがもたらした馬たちの悲惨な被害は、やがて人間による報復という形で、オオカミ自身に降りかかることになったのである。
 かつて農地を荒らすシカの天敵として敬意を集めていたオオカミは、一転して人間に敵対する害獣に貶められた。当時オオカミの被害に悩んでいた岩手県では、白米1升(約1.8リットル)が4銭という時代に、オオカミ1匹につき雄7円、雌5円の懸賞金を出してオオカミ退治を奨励したという。ハンターたちは、懸賞金目当てに銃を抱えて山に入り、オオカミを見つけ次第に射殺した。また、牧場主たちは、銃殺だけでは効率が悪いとばかりに、アメリカで成功したという硝酸ストリキニーネを使った罠も次々と導入していった。硝酸ストリキニーネ入りの肉をばらまくという残酷な罠の前に、それまで"毒"という概念を知らず、飢えゆえに馬を襲うしかなかったオオカミたちは"面白いようにかかった"という。
 それでも、人間たちは彼らを決して許しはしなかった。オオカミ用にあまりに売れるため、硝酸ストリキニーネが一時国内から姿を消したという凄惨なオオカミ狩りの果てに、彼らはわずか50年の間に日本列島から完全に姿を消した。


 「ひぐらしく頃に」の防諜機関"山狗"の名前のルーツが、今は亡き"オオカミ"にあることは明らかである。彼らは単体での戦いでは圭一たちを圧倒し、皆殺しにするだけの力を持っていた。だが、外部からの応援を得た圭一たちには及ばず、ついには滅びゆく運命にあった。そう、単体では馬を圧倒しながら、馬を救おうとする人間たちの徹底的な弾圧の前に敗れ、ついには絶滅という道をたどるしかなかったオオカミたちのように。
 オオカミたちは、人間にとっては馬を襲うという大罪を犯した許すべからざる害獣だった。しかし、それに先立って人間によって住処と餌を奪われていた彼らにとって、それは生きるためのやむを得ない行為だったろう。馬も哀しい存在だが、オオカミもまた哀しい存在であった。ひぐらしく頃に」は、終盤における圭一たちと"山狗"の戦いを通じて、日本の歴史の暗部…すなわちオオカミの食害による馬たちの受難と、それに続くオオカミたちの悲惨な運命を、ゲームという形に仮託して、鋭く告発したのである。
 「ひぐらしく頃に」が明治〜大正期の馬とオオカミの悲劇を告発しているという視点は、「祭囃し編」における"黒幕"の描写においても裏づけられている。すなわち、「皆殺し編」で圧倒的な存在感をもって姿を現し、プレイヤーの憤激と憎悪を一身に集めた"黒幕"に対し、作者は「祭囃し編」で暖かい視線を向ける。竜騎士07氏の筆は、"黒幕"の過去を徹底的に描くことにより、"なぜそんなことをしなければならなかったのか"を焙り出してゆく。そこには"黒幕"なりの理由があり、また悲しみがあった。…だが、そうした過去を暴いた上でなお、"黒幕"は自らが指揮する"山狗"とともに、最後は敗れ去るのである。圭一たち全員が無事に"綿流しのお祭り"を迎え、ようやく大団円を迎えるというハッピーエンドの裏で、彼らの敵、すなわち悪役として葬られた者たちの悲しみがあることを考えさせる構成は、善悪二元論とは全く一線を画するものである。
 このような深遠なアイロニーは、忘れられたオオカミたちの悲劇と絶滅を意識したのでなければ到底理解しうるものではない。「皆殺し編」において初めて"真の主人公"であることが明らかになった、オヤシロさまと呼ばれる超常的存在"羽入"が時に圭一たちを"ゲームの駒"と表現する不自然さも、この文脈においてならば理解しうる。圭一らが馬を象徴している以上、彼らを"駒"と呼ぶことは、なんらおかしくないのである。

 このように、「ひぐらしく頃に」は、極めて高度な形で人間と馬を描くことにより、忘れられかけたオオカミの悲劇をも現代に甦らせるという極めて洗練されたレトリックで、馬に対する敬意を捧げている。筆者は、「ひぐらしく頃に」と馬との間に、一見しただけではとても気づかない、しかし実際には極めて密接な関連性が存在することに気づいた時、深い感動に胸を打ち抜かれてしばらくは言葉も出なかった。
 この史観に基づき、圭一とその仲間たちが馬を象徴する役割を与えられているという前提のもとに再度「鬼隠し編」からリプレーしてみると、彼らの自由な魂と、それでいて運命に翻弄される悲しみが、まさに馬そのものであることを痛感させられる。「ひぐらしく頃に」の作者の視点・発想は、近年のサブカルチャー界においても稀有な異形の才であると言わなければならない。
 やはり、サブカルチャー界において名作と評価される作品は、名作であればあるほど馬との深いかかわりを持つ。馬が果たす役割の大きさは、かくも計り知れない。
 そこに馬がいたから。馬は、常に人間の傍らに在る―。(文責:ぺ)

ドラマCD ひぐらしのなく頃に ~祟殺し編~

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ひぐらしのなく頃に

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