競馬サブカルチャー論・第09回:馬と『河原崎家の一族 2』〜マルチエンディングシナリオの極北/滅びは馬によって預言されていた〜

大衆的実力闘争の爆発でクリスマス粉砕へ!

 心に傷をもつすべての競 馬ファン・人民の諸君! 今まさに諸君は国家権力の反動攻撃に直面していることを革命的に認識しなければならない。その攻撃とは何か? いうまでもなく、日帝権力が12・24、25に向けて喧伝してきた「クリスマス」なる収奪攻勢である!

 すべての闘う競 馬ファン・人民諸君! 階級的同志諸君! この闘争に勝利せよ! 白色反革命=「Xデー」を馬法のXデーに転化せよ! 武装し闘う馬法学万歳!

馬法学研究会「オリビエ・ペリエの会」(再建)

イメージ画像  この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。

 ―馬は、常に人間の傍らに在る。

 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載は、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。

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− 河原崎家の一族 2 より−

 「河原崎縄綱」の64回目の誕生日、恋人の「杏奈」に同伴するかたちで河原崎家を訪れた主人公。人里離れたこの屋敷で暮らしているのは、縄綱とその身の回りの世話をする使用人達のみ。夕食の席に姿を現した縄綱は、お祝いに集まった縁ある者達に「これからは皆で自分の世話をするように」と申し渡す。縄綱とその使用人達の異常さに不快感を覚えた主人公は、「杏奈」を連れて屋敷を出ようとするが、奇妙なことに彼がどう足掻いても再び河原崎家の門をくぐることになってしまうのだった―。


 「河原崎家の一族2」は、2003年6月にエルフから発売された、成人向けコンピューターゲームである。

 このゲームは、タイトルからも分かるとおり、1993年12月に発売された「河原崎家の一族」の続編として製作された。「河原崎家の一族」は、高額な報酬につられて「河原崎邸」にアルバイトとして住み込むことになった主人公を操り、一般社会から隔絶された「河原崎邸」と、狂気に支配されたその住人たち…河原崎家の一族の支配から脱出することをテーマとしたアドベンチャーゲームであり、現在はゲーム界における定番の一分野としてとして認知された「館もの」―周囲から隔絶された閉鎖空間からの生還を目指すジャンルのわが国における古典として認知されているだけでなく、「ひとつのゲームにシナリオはひとつ」という従来のアドベンチャーゲーム界の常識を覆し、プレイヤーの行動次第で複数のエンディングを迎えるという、いわゆる「マルチエンディングシナリオ」初期の名作として知られている。

 もっとも、「河原崎家の一族」によって開拓された「館もの」「マルチエンディングシナリオ」というジャンルが後発のメーカー、ライターによって独自の成長を遂げていく中で、その先駆者であった「河原崎家の一族」については、一時期噂されていた続編が出ることもないまま、ゲーム界の歴史の中へと消えてゆくかに思われた。そんな「河原崎家の一族」の続編が、突然10年の時を超えて発売されることになったのだから、「河原崎家の一族」をリアルタイムで知る世代の驚きと衝撃は深く、その発売の報は一部のファンによって、固唾を呑んで見守られた。

 そして、ついに発売された「河原崎家の一族2」。…それは、やはり「ヒロインの杏奈とともに、狂気に支配された河原崎邸を脱出すること」を目的とするゲームだった。前作との共通項をあえて「河原崎邸」という舞台の名称だけにとどめ、登場人物や世界観を完全に入れ替えた世界観に、「このゲームがなぜ『河原崎家の一族』の続編でなければならないのか」という疑問が生じたのはやむを得ないことだったが、実際にゲームをプレイしてみると、そこで展開される淫靡で退廃的な雰囲気はまさに「河原崎家の一族」の正統な進化形であり、さらにこのゲームに投入された美麗なCG、膨大な量と徹底的なフラグ管理に裏打ちされたテキスト、そしてゲームの中核となる「仕掛け」の施されたシナリオ等は、エンディングにたどり着いたプレイヤーを驚愕させ、沈黙させ、そして嘆息させるに値するものだった。

 ただ、この作品には、商業的成功を収めるという側面において致命的な欠陥があったことも事実である。それは、万人に受け入れられるとは言いがたいあまりの「濃さ」であり、その「濃さ」ゆえに、同じエルフが送り出した作品と比較しても、「同級生」シリーズのような支持の広がりが望めなかったのはもちろんのこと、「鬼畜もの」の代表とされる「遺作」に始まる「○作」シリーズに比べてもあまりに凄惨な世界が展開された結果、販売本数的には振るわなかったようである。筆者自身、18禁ゲームをプレイしたことのない人物から「『河原崎家の一族2』はオススメか」と聞かれれば、「初心者にはオススメできない」と答えざるを得ない。とはいえ、「河原崎家の一族2」のゲームとしての完成度自体は極めて高く、プレイヤーを選ぶものであったとはいえ、「名作」との誉れ高き前作をさらに超えるものだった。

 ところで、このゲームの中で、競馬が極めて重大な暗喩として用いられていることに、果たしてどれほどの読者が気づいているだろうか。

 このゲームの目的は、前記のとおり、杏奈とともに河原崎邸を脱出することだが、そんな主人公の前に立ちはだかってくるのが河原崎邸の主人で巨大かつ醜悪な絶対悪たる「河原崎縄綱」であり、彼に絶対の忠誠を誓う執事の「稲垣」、河原崎邸の狂気に囚われたメイドの「美香」である。もともと男性の悪役キャラの造形では18禁ゲーム界で他の追随を許さないエルフだが、「河原崎縄綱」の圧倒的な存在感は、ゲーム史に残るものと言って過言ではない。

 河原崎邸の中で協力者を見つけながら脱出に向けた必死の抵抗を試みる主人公たちに対し、立ちはだかる縄綱らの魔手はあまりにも強大である。試行錯誤を繰り返しながらも脱出に向けて奔走するプレイヤーだが、やがて主人公の視点そのままに、己の無力さを通り越した虫ケラっぷりを存分に思い知らされ、どうしようもない屈辱感とともに回避不能の奈落の底へと堕ちてゆくことになる。

 強大にして醜悪な縄綱のインパクトを最大のものとしているのは、やはり彼に狙われる犠牲者たちである。中でも、予想外の闖入者である「奈津子」と、ヒロインの「杏奈」の存在意義は、非常に大きい。

 奈津子は本来、河原崎邸とは無関係の存在だったが、カメラマンの恋人「健吾」とともに河原崎邸に迷い込んだことから、健吾とともに縄綱の狂宴の生贄に捧げられることになるキャラクターである。彼女の場合、「敵」のなんたるかも分からないうちに河原崎邸の悪意の中に飲み込まれてしまうこともあって、縄綱が考案した、常人には想像しがたい凄惨な謀略の前に無防備なまま犠牲とされ、もっぱら縄綱の醜悪さの「引き立て役」にされてしまう。縄綱の狂気と妄執は、奈津子によってプレイヤーの前に爆発するのである。プレイヤー視点からは杏奈ほどの思い入れが持てないからまだいい(?)としても、奈津子本人の状況としては、杏奈よりさらに不幸といっていい地獄と言っていいだろう。奈津子の犠牲があるからこそ、縄綱の妖怪性はより強大なものとして、主人公と杏奈の前に提示される。

 一方の杏奈は、「河原崎家の一族2」の唯一のヒロインだけあって、基本的に無個性な、誰の目から見ても好感を持たれるつくりとなっている。もっとも、こうした属性は、「キャラを立たせる個性がない」ことにも通じる。単独ヒロイン性を採る以上、「河原崎家の一族2」の魅力は必然的に杏奈の魅力に大きく依存せざるを得ない。それは、杏奈のキャラを立たせることができなければ、その時点でプレイヤーが「河原崎家の一族2」をプレイする動機を失うことも意味している。その意味で杏奈は、一歩間違えれば「河原崎家の一族2」というゲーム全体をぶち壊しかねない諸刃の剣であった。

 だが、「河原崎家の一族2」は、そんな杏奈を、序盤から中盤にかけての危機…中には縄綱とその手下ではなく、主人公によって理不尽にもたらされるものもある…にあっても、決して健気さと優しさを失わない「聖女」として描くことによって、そのキャラを見事にたたせることに成功している。ゲーム開始当初はあまりに優等生的な杏奈に苛立ちを感じるプレイヤーもいるだろうが、そうした苛立ちも、シナリオの進展によって見事なまでに彼女の魅力として昇華されていくだろう。・・・その上でゲームの中盤のクライマックスというべきルート1の結末を見せつけられると、まさにトラウマものである。

主人公「や、やめてくれ・・・お、俺の杏奈が・・・っ」
縄綱「お前の杏奈など、最初からいるわけもなかろう。里子として育てた女の娘である以上、その毛先一本ですら縄綱の所有物」

 フザヽ(`Д´)ノケンナ!!

縄綱「殺すとでも言うのかね?」
主人公「っ…殺してやるとも…」
縄綱「一人で立ち上がることさえできぬ男が何を言うか。息の根を止められたくなければ、そこで大人しく見ているがいい」

 ウオオ(T△T)オレニチカラヲ・・・

 そして、大人しく見ていることしかできない主人公の前で繰り広げられる、縄綱と杏奈の「戦い」は、もう杏奈タソが可哀想で可哀想で見ていられない。敵キャラのあまりの醜悪さゆえにディスプレイを叩き壊したくなるほどのゲームは、そうはお目にかかれまい。

杏奈「私、絶対に裏切ら…っ…(後略)」
主人公「だ、だからもう我慢しなくていいんだ!」
杏奈「お、怒らないで」
主人公「っ…」
杏奈「ごめん…なさい…(中略)でも、助けて…」

 卑劣な縄綱によって陥れられて、なお主人公への愛を貫こうとする杏奈の哀切の叫びは、主人公に同化したプレイヤーの魂を深く穿つ。

 「どうして杏奈タソがこんな目に。・゜・(ノД`)・゜・。」

 しかし、どんなに悶えても、苦しんでも、主人公=プレイヤーは、何もできない。

主人公「あ、あのまま死んだら可哀想すぎる…あいつ、今まで寂しい思いをしてきたんだ…っ、少しぐらい幸せになってもいいじゃないか」

 そんなせめてもの願いですら、縄綱の貫いた狂気と妄執の前には何の力も持たない。その果てに待っているのも、まさに「運命に抵抗することの悲しさと空しさ」のみを痛感させられる展開である。この絶望に耐え抜いたプレイヤーだけが、その向こう側にある「河原崎家の一族2」の真のクライマックスへとたどりつけるのであり、これこそが「河原崎家の一族2」の真骨頂と言えよう。

 結局のところ、「河原崎家の一族2」は、河原崎縄綱の狂気と妄執の物語である。その凄惨さは、「杏奈」「奈津子」らの恐怖と犠牲の下に浮き彫りになるのであって、それらがあるからこそ、縄綱の狂気と妄執が、プレイヤーの胸をも深く抉るのである。

 さて、このゲームを根気よくプレイしていくと、やがて縄綱らとの最後の対決を経て、トゥルーエンディングにたどりつくことができるはずだ。「館もの」のお約束として、物語の舞台となる洋館は物語の最後に必ず焼け落ちるが、河原崎邸もその例外ではない。…ただ、「河原崎家の一族2」が異彩を放つのは、むしろ河原崎邸が焼け落ちた後のエピローグである。二段階で用意されたエピローグは多くのファンから「難解」と評され、さらに現時点での通説とされている解釈…エピローグと、ゲーム内に何重にも張り巡らされた伏線から暗示される真実…も、そこにたどり着いたプレイヤーの意見を賛成派と反対派に二分している。

 「河原崎家の一族2」のトゥルーエンディングは、真実を明確な形では提示せずにある程度想像の余地を残し、最終的な結論をプレイヤーに委ねた。ただし、同種のオチはしばしば「風呂敷を広げすぎた挙句畳むことを放棄した」産物であるとして批判されることがあるが、「河原崎家の一族2」の場合、ゲーム内に張った入念な伏線を前提とした上での意図的なものであることは、多くの反対派ですら認めるところである。SF界の有名なテーゼであり、今年のジャパンCダート馬の馬名にも採用された「タイムパラドックス」のテーゼをも意識したその完成度は、かなり高いということができる。

 ただ、ゲーム内で暗示されている真実は、「館もの」のオチの定番である「主人公がヒロインと一緒に巨悪の縄綱一派を倒して見事生還、ヒロインと一緒に幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」というハッピーエンドとは、明らかに一線を画している。「河原崎家の一族2」が最も強く賞賛され、かつ批判されているのはまさにこの点である。綿密に練られたエンディングが痛切にプレイヤーの胸を打つ反面、プレイヤーによっては物語としての後味があまりにも悲しく、そして空しく感じられるという声が根強いのも、やむを得ないことだろう。

 もっとも、「河原崎家の一族2」の物議をかもす結末は、実は主人公の名前と、彼女たちの姓によって、既に暗示されていたことに気づいていれば、反対派の反応も少しは穏やかなものになっていたかもしれない。すなわち、主人公の名前は「優」。「馬に優しい」という名前からの連想・・・それは、中央競馬に比べて馬資源が豊富でない地方競馬が、かつてその特色ゆえに馬を大切に使い、経済動物という宿命に生まれながら中央からうち捨てられ、本来死を待つのみの存在であった馬たちを生き長らえさせるための安全装置としての役割を果たしてきたことを思えば、中央競馬より地方競馬によくなじむ。そして、先に挙げた2人の女性のフルネームは、それぞれ「三条 杏奈」「上山 奈津子」…いずれも地方競馬と縁の深い姓なのである。

 彼女らと同じ姓を持つふたつの競馬場のうち、かつて新潟県競馬の舞台だった三条競馬場は既に2002年3月をもって廃止され、「河原崎家の一族2」発売当時は存続していた上山競馬場も、同年11月をもってその歴史に幕を下ろした。殺される運命の馬を少しでも生きながらえさせる役割を担い続けた地方競馬も今は斜陽化し、競馬界は中央や南関東の「資本」の論理、あるいはもっと強大な「地方財政」「政治」の波に急速に飲み込まれつつある。これらの抗いえぬ強大なものを「運命」と読み替えた場合、それは「河原崎家の一族2」の主題とも重なっていく。「河原崎家の一族2」のもの悲しいエンディングは、主人公と2人の女性が背負った名前―今まさに滅びゆかんとしている地方競馬によって象徴されていたのである。

「みんなとまた会えた時、たぶんすべてを理解できる。だから、今は分からなくても平気―。」

 杏奈は、最後にそう言った。その後、作中で暗示的に用いられてきた「電車」から、主人公と杏奈の姿が消える。だが、ついに行き先が示されることのなかったその電車には、最後もいまだ降りることができない他の乗客たちの姿がはっきりと描かれている。彼らこそが、地方競馬の関係者たち、あるいは馬たちではないのか。この謎の電車は、地方競馬を乗せてどこを走り、どこに向かっているのか。地方競馬の関係者たち、あるいは馬たちは、「みんなとまた会えた時」、果たして「すべてを理解」するのだろうか。その「すべて」とは何なのだろうか。「河原崎家の一族2」は、その答えを私たちに与えることのないまま、その物語を終えている。その未来に何を読み取るか―。それは、私たち1人1人に与えられた課題である。

 馬は、時に言葉によらず未来を語る。それを人は、預言と呼ぶ。馬が果たす役割の大きさは、かくも計り知れない。そこに馬がいるから。馬は、常に人間の傍らに在る―。(文責:ぺ)