競馬サブカルチャー論・第08回:馬と『同級生』〜18禁ゲームの始祖鳥/馬は"お嬢様"と"ポニーテール"萌えを導いた〜

イメージ画像 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。

 ―馬は、常に人間の傍らに在る。

 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載は、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。

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同級生− より

 怠惰な毎日を過ごしていた「先負学園一の危険人物」たくろう(名前変更可)は、友人の「一哉」から電話で女の子へのプレゼントを買うためのショッピングに誘われる。それが、たくろうの人生の中で最も輝く高校3年の夏休みの始まりだった―。


 「同級生」は、1992年12月にエルフから発売された、成人向け(いわゆる「18禁」)コンピューターゲームである。高校生活最後の夏休みを迎えたスケベな主人公「たくろう」(名前変更可)を操り、先負町と矢吹町を行ったり来たりしながら14人のヒロインたちとの会話やイベントによって親交を深め、8月31日の「告白」を目指す…。そのコンセプトは、現在のゲーム界に一大ジャンルを築くに至った恋愛SLGの走りである。誰しも経験し、あるいは夢見る高校3年生の夏を舞台に、魅力的なシナリオ、キャラクター、そして恋愛というテーマを用意した「同級生」は、当初MS-DOSを媒体として発売されて20万本という過去に例を見ない記録的ヒットを飛ばし、後にコンシューマー機、WINDOWSに次々と移植された際も、やはり相当本数の売上を記録している。「エロゲー」という響きが現在よりはるかに罪悪感に満ちていた時代において、本来こうしたゲームを買ってはならない存在だった多くの中高生たちが、「親バレ」「先生バレ」あるいは「友人バレ」に怯えながらも、このゲームのために小遣いを持ってパソコンショップの片隅へと走った事実は消そうにも消せるものではない。

 「同級生」が発売された当時のゲーム業界では、ゲームに特化した画像・音楽等の機能を発展させたコンシューマー機に偏るあまり、汎用機ゆえにそれらの機能が劣るPCゲーム界は「人気の低下→売上の低下→開発の衰退→人気の低下」…という悪循環の一途にあった。そんな時代に突然送り出された、極めて高いゲーム性と極めて自由度の高いシナリオを持つこのゲームは、18禁ゲーム界はもちろんのこと、PCゲーム界、そしてゲーム界全体にも巨大な衝撃をもたらした。コンシューマー機の恋愛SLGの代表格である「ときめきメモリアル」が「同級生」の影響を強く受けていることは公知の事実であるし、さらにコンシューマー機ゆえの様々な「表現の規制」に限界を感じていた才能あるゲームクリエイターたちの一部は、「同級生」の発表を機に、より自由な表現を求めて18禁ゲームへと流入するという波が巻き起こった。彼らによって開発された18禁ゲームは、ユーザーの高い評価を受ける多くのゲームへと発展し、やがて90年代後半のPCゲーム(18禁ゲーム)黄金時代へとつながっていく。その意味でも、「同級生」とは日本ゲーム界にその名を残す金字塔なのである。

 このように、「同級生」は日本ゲーム界に革命をもたらし、後の「18禁ゲーム」の隆盛の基礎を築いた名作として位置づけられるべきものである。今でこそ「ヒロイン14人中11人の同時攻略が可能」、という凄まじい仕様が伝説として取り上げられがちだが、そのようなジョーク交じりの論評は、歴史の中での「同級生」の位置づけを誤らせるおそれがあることに注意を要する。

 しかし、このゲームの中で、馬が極めて重大な役割を果たしていることに、果たしてどれほどの読者が気づいているだろうか。

 馬が「同級生」で重大な役割を果たしたのは、14人のヒロインのうち、美しく成績優秀でおしとやかなお嬢さまとされる「桜木舞」のシナリオである。

 「先負学園の女神」と噂される舞は、相手が年上だろうと先生だろうと初対面だろうと口に出すことすべて下ネタという「先負学園一の危険人物」である主人公ですらおとなしくさせてしまうほどの神々しさを誇る。主人公は、舞に声をかけられただけで、緊張のあまり

「こ、こ、こ、…」

と慌てるほどである(その後、「こんちは」「ちんこは」「パチンコ」という選択肢が出る)。

 そんな舞と仲良くなるためには、ゲームの序盤のうちに、舞が所属する水泳部の活動場所であるプールはもちろんのこと、他にも学校の屋上、先負駅、公園、喫茶店の前など街のあちこちに出没しては、いつ現れるか分からない舞と会い、会話を重ね、ある程度親しくなっておかなければならない。そうすると、ゲームの中盤になって、矢吹町の遊園地で舞とデートをする、というイベントに遭遇することができるはずだ。遊園地で舞とループコースターに乗ったり、お化け屋敷に入ったり、またたわいもないことを語り合ったり、と楽しい時を過ごすことができる。

 そして、遊園地で主人公が選びうる選択肢の中に、「くるくる回る回転木馬」というものがある。プレイヤーが「くるくる回る回転木馬」を選ぶと、舞は

「私、ああいうの大好き!」

と大喜びしてくれる。そこで、主人公は調子に乗って

「舞ちゃんが馬車に乗ったら、お姫様みたいに見えるんだろうな」

と歯が浮くようなことを言うのだが、舞は主人公が望んだ馬ではなく、豚に乗ってしまう…というオチがつくのである。

 豚と美少女というのはあまり見ないパターンだが、それでも十二分に可愛いのが舞の舞たる所以であり、正ヒロインの正ヒロインたる理由である。そんな舞のシナリオの中で、馬が「高貴なお姫様の乗り物である馬車」にとって不可欠な存在として位置づけられたことが、競馬界にとっての歴史的大勝利であったことに疑いの余地はない。

 実際には、舞が乗ったのは、馬ではなく豚だった。しかし、舞はその前後のシナリオの中で、いつも自分が特別扱いされてきたことを嫌い続ける様子が描きこまれている。それゆえに無意識のうちに高貴な生き物である馬を避け、庶民的な豚を選んだ、という彼女の深層心理は、手にとるように伝わってくる。そう、やはり馬は高貴なお姫様に例えられるような正ヒロイン、美しく成績優秀でおしとやかなお嬢さまにこそふさわしいのだ。そのことは、自分を神格化する周囲の対応を悲しむ舞が、そのアンチテーゼとして、あえて馬ではなく卑しさの象徴とされることが多い豚に自ら乗ったことによって容易に裏付けられる。WIN版のCGを見ても、背景の中にはっきりと描かれた馬の姿には、本来舞にこそふさわしい美しさと気高さを備えた気品と風格が描きこまれているのである。

 さらに、ここで舞が馬ではなく豚を選んだことは、シナリオに明文で描かれているわけではないにしても、その謙虚さによって主人公により強い好感を抱かせる結果となっている。

 「同級生」の世界でお金持ちの子弟として描かれているのは舞だけではなく、舞の幼馴染である「相原健二」も同様である。だが、美しく成績優秀でおしとやかなお嬢さまとして徹頭徹尾肯定的に描かれる舞と対照的に、健二は主人公の宿敵としてだけでなく、人間性においてもイヤミで思いやりが皆無な人間のクズとして描かれている。主人公が、作中で何度も舞の人間性について、健二と対比してはそのたびに絶賛していることからも、主人公がそんな謙虚な人柄を含めて舞を愛していることは明らかだ。主人公は、「くるくる回る回転木馬」で馬ではなく豚を選んだ彼女の行動に彼女の謙虚さを見出し、よけいに彼女に傾斜していくのである。舞シナリオのクリアの必須条件とされた遊園地イベントで馬がこれほど大きな役割を与えられ、舞の魅力の本質が「くるくる回る回転木馬」の選択によって深く描かれるという事実こそが、同級生」における馬の存在の重要性を象徴している。

 また、主人公と舞が結ばれるためには、遊園地イベントの後もいくつかのはイベントをクリアしていかなければならない。主人公と舞の遊園地デートの終わりは、舞が父親の秘書に発見されるという形で突然やってくる。その後、舞は父親によって「外出禁止」となり、主人公と会えなくなってしまう。その後の舞シナリオは、主人公の宿敵であるとともに、舞の幼馴染でもある「相原健二」とも密接に関わる形で進展していく。ここでの主人公は、彼女の父親とライバルによる妨害という王道シナリオの中で、舞への愛を貫かなければならない。その絆の構築において、遊園地デートは決定的な意味を持っていた。

 もし馬がこの世に存在しなかったとすれば、舞は回転木馬で「馬ではなく豚を選ぶ」ことができない。そうすると、主人公が馬ではなく豚を選んだ舞の人格に、より深く惹かれることもなかったはずである。その場合、その後に訪れる主人公と舞の危機において、主人公は舞を信じ抜くことができなくなっていたかもしれない。この場合、舞の父親は健二を信頼してしまっていることから、父親の意向もあって、将来の舞は健二と結ばれてしまった可能性がある。

 筆者としては、この運命の分岐が「同級生」というゲーム内の世界に決定的な影響を与えたにとどまらず、現実世界における一大産業としての「18禁ゲーム」の発展の方向性を決定付けるという意味を持っていたということを指摘したい。

 「同級生」における主人公は、いわばプレイヤーの分身として位置づけられる。「同級生」に感情移入しながらプレーすればするほどに、プレイヤーもまた、主人公の感情にリンクする形で舞に対する信仰にも似た好意、そして健二に対する本能的ともいえる反感を共有するはずである。

 そこまで「同級生」の世界に埋没したプレイヤーにとって、舞が健二と結ばれることは、まさに天に二日を仰ぐよりも許し難いことである。現実社会において、女神が金持ちでイヤミなクズに穢されることはそう珍しいことではないのだが、三次元世界では恋愛弱者であることが多い18禁ゲームのプレイヤーにとっては、それだけによけいに許しがたいのである。彼らがゲームに求める世界とは、リアルな現実などではさらさらなく、現実世界では決して果たしえない夢であり、ファンタジーなのだ。

 もし「同級生」において提示されたテーマが、「主人公は、人間性最悪でも金持ちの健二に、しょせんかなわない」というものだった場合、プレイヤーたちはどのように反応したであろうか。おそらく「同級生」は歴史に残る地雷、トラウマゲームとして酷評され、唾棄され、葬られていたに違いない。「同級生」でも、あるヒロインは最初から健二に…なのだが、それをただの一ヒロインを超えた神聖な存在である正ヒロインの舞によって見せつけられた場合、今よりずっとピュアだったプレイヤーたちは、そのやるせない怒りと悲しみによって、他のあらゆる長所に盲目となって、「同級生」を歴史の闇に葬り去っていただろう。

 もしそうなっていたとしたら、日本の18禁ゲーム界の発展は10年遅れていたに違いない。「同級生」のヒットによって成長業界となった18禁ゲーム業界では、その後、従来の18禁ゲーム界で最も軽視されていたゲーム性、シナリオを売りとしたゲームが次々とリリースされるようになり、「河原崎家の一族」(93年)、「闘神都市2」(94年)、「野々村病院の人々」(94年)、「EVE〜Burst Error」(95年)、「同級生2」(95年)などの名作が誕生し、その流れが90年代後半の18禁ゲーム黄金時代へとつながっていった。「同級生」がヒットしていなければ、これらのゲーム群が日の目を見ることもなく、せいぜい「同級生」以前にその萌芽を認めうる、RPGゲームにエロの要素を混ぜたタイプ…初期の「ドラゴンナイト」シリーズや「ランス」シリーズようなゲームのみが細々と出るだけの状況になっていたに違いない。また、一般ゲームでも、「同級生」の影響を受けた「ときめきメモリアル」のメガヒットはあり得ず、良くも悪くも18禁ゲームのコンシューマー化の結果である「ギャルゲー」「萌えゲー」もなかっただろう。

 「同級生」とは、まさに「日本の18禁ゲームの始祖鳥」と呼ばれるにふさわしい。「同級生」なくして「同級生2」「下級生」がなかったのは当然として、影響はそれだけにとどまらない。「同級生」がなければ「To Heart」もなく、「君が望む永遠」もなかったかもしれない。その「同級生」が馬なしでは成り立たなかったのだから、これはすなわち、馬なくして「To Heart」もなく、「君が望む永遠」もなかった、と断言しても誤りではないはずだ。

 こうしてみると、「同級生」というゲームがもたらした社会的影響の大きさには驚くばかりである。そのことを知れば知るほど、馬がこのゲームに対してなした貢献の大きさを再確認し得る。

 ちなみに、「同級生」に対する馬の貢献は、「舞シナリオ」だけではない。MS-DOS版「同級生」が発売された際、プレイヤーたちが1番人気に支持したのは、実は舞ではなく、「田中美沙」だった。美沙は、言葉遣いが男の子っぽい快活な陸上少女であり、何よりもポニーテールだ。この人気の逆転現象は、現在よりはるかに恥じらいに満ちた市場だった18禁世界において、「同級生」によってこの世界に引き込まれたがゆえに18禁ゲームのプレー自体に後ろめたさを感じていたライトユーザー層の中高生が、その無意識の罪の意識ゆえに、本人たちも気づかぬうちに穢しがたい高嶺の花を避け、より身近さを感じさせるヒロインへと流れたものと推定される。そんな彼女の人気もまた、「ポニーテール」―すなわち「馬のしっぽ」と表現される目立った髪型なしでは、たぶんあり得なかった。その人気は、草創期の18禁ゲーム界で「美沙といえばポニーテール、ポニーテールといえば美沙」と言われたほどに凄まじいものであり、その存在は「同級生」だけでなく、「同級生」のキャラとして唯一再登場を果たした「同級生2」の売上に貢献し、これまた18禁ゲーム界の発展に寄与したのである。

 このように、「同級生」は馬の存在によって助けられて名作として認知されることによって、そのタイトルを歴史に刻むとともに、18禁ゲーム界の基礎を築きあげた。「舞」「美沙」という二大ヒロインを通してその成功の原動力となっただけでなく、18禁ゲーム、さらには間接的にコンシューマーゲームへも多大な影響を与えた馬は、まさにゲーム界の父であるといっても過言ではない。馬が果たした役割の大きさは、かくも計り知れない。

 今日のゲーム界があるのは、そこに馬がいたから。馬は、常に人間の傍らに在る―。(文責:ぺ)
 
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