競馬サブカルチャー論・第02回:馬と『明治剣客浪漫譚・るろうに剣心 追憶編』〜その世界観と連載媒体のミスマッチ/軍の象徴としての馬〜

明治剣客浪漫譚・るろうに剣心 追憶編 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。

 ―馬は、常に人間の傍らに在る。

 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載を通じ、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。

明治剣客浪漫譚・るろうに剣心 追憶編より−

 長州藩の密命を帯びた人斬り・緋村抜刀斎は、幕府の放った刺客に襲われ、これを切り捨てたところを、たまたま現場に居合わせた巴という美女に目撃されてしまう。秘密を守るために彼女をも切り捨てようとした抜刀斎だが、その前に巴が失神してしまったことで機会を失い、逆に彼女を助ける羽目になる。だが、巴はなぜかその後も抜刀斎のもとを離れようとしない。やがて時代が動き、池田屋事件によって追われるようになった抜刀斎は、追っ手の目を欺くために、巴と夫婦として暮らし始める。しかし、そんな彼らを待っていたのは、あまりにも残酷な運命だった―。


 「明治剣客浪漫譚・るろうに剣心」といえば、週刊少年ジャンプで、1994年から1999年まで連載された少年漫画である。頬に十字傷を持ち、「飛天御剣流」と呼ばれる幻の流派を使う剣の達人「緋村剣心」を主人公に据え、「不殺」を誓う彼と、彼を慕う仲間たちが、次々と現れる敵を倒し、ある者は味方につけていきながら、さらなる強大な敵に立ち向かっていくという物語は、「北斗の拳」「キン肉マン」「聖闘士星矢」「ドラゴンボール」といった80年代の名作と共通するジャンプの王道である。ジャンプの看板らしくアニメ化もされており、名前くらいは聞いたことがあるという人も多いだろう。この作品が連載されていた時期のジャンプは、ちょうどライバル誌の急追を受けて転落していく衰退期にあったが、「るろうに剣心」はジャンプの定石を踏まえながら、落日のジャンプを支え続けた看板作品と位置づけることができる。

 ただ、連載終了後の現在の視点でこの漫画を振り返ってみた場合、世界観と、少年誌という連載の媒体に、大きなミスマッチがあったと評せざるを得ない。

 「るろうに剣心」の主人公は、幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた伝説の人斬りであり、その過去への贖罪のために「不殺」を誓った男である。この設定自体は掘り下げ方によって大きな魅力を持ちえたはずだったが、実際には、少年誌という媒体ゆえに、その陰惨な過去をストーリーの中で生かしきることができなかった。対をなす陰が不十分となった結果、陽の部分・・・主人公の「不殺」もストーリー的な深みを十分表現することができず、むしろ「不殺」ゆえのストーリー上のご都合主義(とうてい改心するはずのない凶悪な敵があっさり改心する。救いようのない敵は、必ず自殺したり自滅したりする。手を汚すのは、汚れ役の特定キャラばかりとなる)が目立ち、さらに「不殺」のまま敵を退け続けることから主人公サイドに宿命づけられた不敗の宿命による展開の単調さ等、欠陥ばかりが目立つ結果となってしまったのである。

 おそらく、作者も少なくとも連載後半期には、これらのストーリーの構造的な欠陥に気づいていたのであろう。この時期の連載では、なんとかこのパターンを打破しようと努力している。ただ、世界観の根本を動かさないままでの試みは徹底を欠き、成功したとは言いがたかった。

 しかし、作品中の一部をOVA化した本作品は、作品の本来のターゲットだった少年層を最初から切り捨て、大人向けに特化することによって稀有な成功を収めている。

 本OVA「明治剣客浪漫譚・るろうに剣心 追憶編」は、作品内では主人公の口から語られる、主人公の幕末時代の回想のみを取り出してアニメ化したものである。「追憶編」は、もともと作者が少年誌ゆえの制約に苦しみ、それを打破しようと試みていた時期に連載されており、「少年誌でここまでやるか」と話題を呼んだ陰惨な描写も含んでいる。

 「追憶編」は、主人公による過去の回想という関係上、本編とはそもそも設定された時代が異なっている。さらに、本編のサブキャラクターもほとんど登場しない。こうした背景が、「追憶編」の本編から独立した「追憶編」の独特な世界観を構築することを可能にしたのだろう。さらに、OVA化にあたって、原作の明るい健康的なキャラデザインはシリアスで陰のあるものに作り直され、「少年誌には向かない」とされた部分、つまり暴力、謀略、裏切りといった部分をより厚く、かつ純化して描写することで、主人公の悲劇をより残酷に引き立たせている。

 ちなみに、「追憶編」は、日本の幕末史とも密接に関わる高度なストーリーを持つだけでなく、暴力的な表現を含んでいる。だが、「追憶編」は、こうした表現に対して厳しいはずの欧米でも「SAMURAI X」として発売され、そのクオリティ、ストーリー性が極めて高く評価されているとのことである。


 主人公たちを襲った悲劇は、「追憶編」という作品の核心であるため、ここでは触れない。馬が出てくるカットは、エンディングのスタッフロールが流れ始める中でのほんのわずかなシーンのみである。しかし、その登場、そして馬が果たした役割は、極めて印象的である。

 桂小五郎の要請に応じ、影の人斬りを捨てて遊撃隊士として官軍に加わった抜刀斎は、幕府軍との決戦(おそらく、四境戦争)に臨む。かつて上層部の命令されるままに人を斬っていた少年は、巴との出会いの中から「新時代に人々が笑って暮らせるように・・・」という自分自身の戦いの理由を見出していた。だが、そのために振るう血刀は、新時代ならざる今の時代に、多くの怒りと悲しみを生み出す。彼と巴を襲った悲劇によってその真実を知った彼は、それでもなお、そのすべてを背負いつつ、修羅のように幕兵を斬り続ける。

 そんな戦況を見守っていたのが、にまたがった官軍の指揮官・高杉晋作だった。かつて抜刀斎の卓越した剣技を見出して奇兵隊に取り立て、さらに抜刀斎を人斬りにした桂に対して

「あの小僧の人生を台無しにするからには、お前自身は綺麗な身を貫くんだ」

と迫った異能の男は、砲火の応酬、そして抜刀斎らの戦いを見守りながら、官軍の勝利を確信するが、その後突然激しく咳き込み、その掌にどす黒い吐血が広がる。この時既に死病にとりつかれていた高杉は、馬上からゆっくりと崩れ落ちていった。

 その時、歴史は動いた。

 上記のシーンには、砲音、殺陣の効果音とBGMが流れるだけで、抜刀斎、高杉、そしてその他のキャラクターの台詞は一切ない。だが、哀切感に満ちた前後のシーン、BGM「KO・TO・WA・RI」の秀逸さもあって、重厚な物語のエピローグにふさわしい風格を醸し出している。

 もしこの時高杉が馬にまたがっていなかったとしても、彼を待つ死の運命は変わらなかっただろう。しかし、当時の日本では、馬とは軍の象徴であり、指揮官と馬を切り離して考えることは不可能だった。さらに、高杉自身が、作中で「抜き身の刀」に例えられる狂気を秘めた生粋の軍人として描写されている。そんな高杉が、官軍の勝利を予感させる戦況の中で馬上から静かに崩れ落ちていったことは、軍事的な指揮官としてのみならず、生命そのものとしても滅びゆく運命を暗示していた(史実では、結核によってその後1年ほどで死亡)。

 つまり―。

 馬は高杉晋作の軍事的指導者、そしてひとつの生命としての終焉を象徴する役割を果たした。馬がいなければ、高杉は戦場で落馬することもなく、別の倒れ方をしていた。奇兵隊を組織し、寡兵をもって多兵をたびたび打ち破った軍事的鬼才が花畑で人知れず倒れていたのでは、動乱の時代の悲しみと人の世の無常を象徴することもなく、理を思い知らせることもなかっただろう。馬が果たした役割の大きさは、かくも計り知れない。

 そこに馬がいたから。馬は、常に人間の傍らに在る―。(文責:ぺ)