日本経済新聞、コラム「敗者の作法を巡って コスモバルクのダービー」を掲載

 野元賢一・運動部記者による執筆。「グッドルーザー(良き敗者)」という言葉を手がかりに、1995年の「交流元年」以来の地方競馬関係者のJRA挑戦を回顧しつつ、コスモバルク日本ダービー(GI)挑戦を、「外厩制」の孕む問題を中心に検証している。

 まず、「チーム・コスモバルク」の実態が「岡田監督、田部コーチ」だったとして、本来「施設の多様化」に過ぎなかったはずのホッカイドウ競馬外厩制度導入を通じて、岡田繁幸ラフィアン総帥が「なし崩し的に監督業に参入した」と指摘。

 その上で、「負けたチームの監督は、敗因とさい配の関係を、細部まで追及される」という一般論を展開。「ダービー当日、コスモバルクは、皐月賞時にも増して、パドックで激しくイレ込んでいた。」という見立てを前提に、「馬がまともな精神状態だったとは到底思えない」と述べ、レース後、岡田総帥五十嵐冬樹騎手の騎乗を批判したことに対し、「まともに制御の利かない状態で、折り合いがつくはずもない。馬の精神状態と調整過程の因果関係を考える必要がある」として、仮説としつつ、「2400メートル戦の前にしては、気持ちが前掛かり過ぎたのではないか」と中間の調整に原因を求め、「調整段階で既にテンションが上がり過ぎていたとすれば、折り合いを欠いた責任を、騎手のみに帰するのは不公平」として前述の岡田発言を批判している。

 そして、長距離輸送を4.5往復、関東と北海道の気温差といった、コスモバルク1頭が負わされたハンデが「周囲の人間の都合で馬が負わされたもの」であるとし、「馬を送る側の立場に立てば…勝つために考え得るベストの条件を整えるのは当然のこと」であって、「馬券発売もその信頼の上に成り立って」おり、「最初から負けた時の言い訳がいくつも並ぶような戦い方を、人為的に選択」したことに疑義を呈した上で、コスモバルクが「外きゅう制アピールのため、“捨て石”にされた」と総括。

 最後に、「今後、外きゅうの運用を目指す主体には、相応の覚悟が求められる。外きゅうにも「監督」を置くため、免許制度を改革する意思を示すべきだ」と提言しつつ、「多くの地方馬と関係者が「良き敗者」に見えたのは、外在的な制約の中で、最大の努力を払っていることが感じ取れたからである。自ら拘束衣を着るような戦いで敗れた今回のケース。あくまでも個人的な思いでしかないが、苦い後味はしばらく消えそうにない」と所感を述べている。【日本経済新聞】

 例によって例のごとく論理の展開が意味不明な点があり、意図を読み解くのに苦労しますが、要するに今回の記事は何が言いたいのでしょうか? これまでのコスモバルクJRA挑戦に関する記事の流れから察するに、日本ダービーでのコスモバルクの敗戦は、外厩制移行期における現状の制度の「人為的な」弊害により十二分な調整ができなかったことにあり、後味の悪いものだったと言いたいのでしょうか? であるとするならば、岡田発言の批判といった関係者のやり方に疑義を唱えるのではなく、純粋に今回コスモバルクにとって障害となった制度上の弊害を指摘し、その解決法を検証するのが筋ではないかと思うのですが…。

 一つ一つ検討していきますが、「負けたチームの監督は、敗因とさい配の関係を、細部まで追及される」という一般論はともかくとして、よほど仕上がりに問題があったのならばともかく、レースの結果に対してまず第一義的に責任を負うのは騎手ではないか(最近は馬に責任を押し付けるような弁解がお上手な騎手もいらっしゃいますが)と。それに、小生の見立てでは、皐月賞時に比べて日本ダービー時のコスモバルクの精神状態が極端におかしかったとは思えませんでした(皐月賞時も相当イレ込んでいましたし、もともと煩く見せる馬ではなかったかと)。確かに、レース間隔が長いダービー・デーの編成を考えれば、気分を高揚させ過ぎた仕上げだったかもしれませんが、それは結果論ではないかと。実際、一週間前のオークス(GI)については、大本命馬がコケたことに対し「中間の調整がぬるすぎた」と非難轟々だったことを思い出していただきたいものです。

 次に、ハンデのある方法を「人為的に選択した」ことに対して批判をしていますが、これもどうでしょう。確かに、ハンデのある方法であったことは確かですし、JRAに移籍という選択肢もあったとは思います。しかし、そうしたJRAに移籍するメリットと、ビッグレッドファームで厳しく鍛えられるというメリットとを考量した上で岡田総帥外厩のままでの挑戦を続けたという面は否定できないと思います。もちろん、ここまで携わってきた田部調教師を中心としたスタッフを軽々に切り捨てられないという感情的な面もあったかもしれませんが、それは責められないでしょう。つまり、コスモバルク陣営は、野元氏の言う「負けた時の言い訳がいくつも並ぶような戦い方」を、そうした意図で選択したものではないと思うのですがどうでしょう。

 そして、「今後、外きゅうの運用を目指す主体には、相応の覚悟が求められる。外きゅうにも「監督」を置くため、免許制度を改革する意思を示すべきだ」という提言。これは比較的目新しい物言いと見えますが、もっとも説明を費やすべきと思われるこの点についての説明が皆無のため、その意図が伝わってきません。そもそも、ここでいう「監督」とはなにを指しているのでしょうか? 外厩の実質的な運営者に調教師としての免許を発給することを指しているとすれば、それによるメリットを具体的に示していただかないと、意味が分かりません。

 最後に、「多くの地方馬と関係者が「良き敗者」に見えたのは、外在的な制約の中で、最大の努力を払っていることが感じ取れたからである。自ら拘束衣を着るような戦いで敗れた今回のケース」いう感想。上で述べたように、コスモバルクの関係者も、これまでの地方馬の挑戦と同様「外在的な制約」の中で最大限の努力は払っていたと思うのですが…。野元氏自身が指摘するように、「拘束衣」は今回の場合も自ら着たのではなくて、外から「人為的に」被せられたものではなかったのでしょうか。

 (ここまで、文責はMayo)

 (ここから、文責はPinsyan)

日本経済新聞、コラム「敗者の作法を巡って コスモバルクのダービー」を掲載

 【日本経済新聞】 原文はリンク先を参照していただくとして、今回は講評としていくつかの指摘を試みてみることにする。

 今回の野元記者によるコラムは、コスモバルク惨敗直後の岡田繁幸ラフィアン総帥の言動(これ自体も最近のマスメディアの発言編集の露骨振りを思えばどこまで真意通りなのか疑わしい余地があるが、仮にも競馬専門記者である野元氏が自ら指摘する以上は何らかの裏付けがあるものとして話を進める)を引き合いに出して、ホースマンとして「グッドルーザー(良き敗者)」としてのあるべき立ち居振る舞いを説くだけであったならば、競馬関係者の心得についての一つの説話として成り立っていたことであろう。

 しかし、この一個人の「グッドルーザー」としての振る舞い方の是非というエピソードを以って、認定厩舎(外厩)制度に関する議論に結び付ける―特に、外厩制度における監督制導入の必要性の論拠として用いる―ことは、前者を以って後者のための客観的な論証とはなり得ないため、説得力のある理由付けとしては成り立っていない。むしろ、なまじか印象の強そうなエピソードを引き合いに出している分、読者をミスリードするおそれを懸念する。

 外厩制度を論じるのであるならば、時期的にもちょうど今週から道営ホッカイドウ競馬外厩調教馬の出走ラッシュが始まるのであるから、1ヶ月くらい道営競馬での実際の運用を見守った上で、それを基礎データとして踏まえて執筆すれば、より実例に富んで実際的な内容のものになったのではないだろうか(もう少しネタを寝かしておくべきだったのではないだろうか)。一つの実例だけしかない段階で制度全般について一般的に論じることは、あまりにも性急に過ぎる。

 また、外厩制度における監督制導入の必要性を論じるということは、現在の道営ホッカイドウ競馬における外厩制度に不備があるという前提に立たざるを得ないわけだが(問題がなければ改善の必要などない)、現状でも道営ホッカイドウ競馬では主催者による認定手続を通じて外厩に一応の監督は及んでいるのであるから、今回のコラム文中では前提とすべき事実を正確に指摘していない。少なくとも、現在の外厩・監督システムについて触れておかなければ、監督システムの現状にどのような問題があってそれをどう「改革」すべきだというのか、具体的な議論は見えてこないはずである。

 おそらく今回は、字数制約のために省略した点が多々あったであろうがために、全体として論理的説得力に欠ける嫌いのある文章になってしまったのであろう。しかし、野元氏の着想そのものは興味深いものがあるだけに、このまま言葉足らずで終わってしまうことが残念でならない。一度、字数制限のないかたちでの野元記者の論文を拝読してみたいものである。

 (今回はMilkyHorse.com構成員複数の関心が一致したため連名で執筆)