競馬サブカルチャー論・第07回:馬と『ママレード・ボーイ』〜少女漫画的"禁断の愛"と"大団円"/馬への愛ゆえの殉難〜

イメージ映像 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。

 ―馬は、常に人間の傍らに在る。

 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載は、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。

ママレード・ボーイ より−

 桐陵学園に通う高校生の小石川光希は、ある日突然、両親から衝撃的な通告をされる。彼女の両親は突然離婚し、しかも最近知り合ったばかりの松浦夫妻とそれぞれ再婚・・・つまり、光希の父は松浦夫人、光希の母は松浦氏と再婚するというのである。こうして光希は、松浦夫妻、そしてその息子である松浦遊とひとつ屋根の下で暮らすことになる。光希は、最初は両親の奇想天外な再婚劇、そしてその松浦夫婦の息子である遊に反発していたが、次第に遊を男として意識し始め―。


 「ママレード・ボーイ」は、もともとは「りぼん」に連載された吉住渉原作の少女マンガであるが、この作品の認知度を高めたのは、1994年3月から95年9月にかけてのアニメ化であった。光希、遊の両名を中心としつつ、光希の幼馴染の銀太、光希の親友茗子、遊の前の彼女の亜梨実・・・といった多数のサブキャラクターが繰り広げる学園(?)恋愛ドラマは、その衝撃的な設定の破壊力も相まって、幅広い人気と知名度を獲得した。2004年の今日話題を集める韓国ドラマ「冬のソナタ」の最大のトラップが「○○の禁断の愛」とされるが、「ママレード・ボーイ」はそれを10年先取りしていたという事実こそ、この物語の衝撃を物語っている。

 さらに、この作品の特筆すべき点として、原作の本来のターゲット層ではない・・・というよりは、その副次的社会の中で、少女マンガを読む、そのアニメを見るといった行為を最も蔑み、もしそのような事実が発覚しようものならば、収賄政治家、横領銀行員、わいせつ教師よろしく社会的に抹殺される環境にあった男子中高生にも注目され、スキャンダルを恐れつつもこの作品を視聴させたという事実がある。そのような意味で、「ママレード・ボーイ」は日曜朝のアニメの歴史の中でも屈指の成功作となったのである。


 しかし、この作品において、馬・競馬が極めて不当な扱いをされていたという事実を覚えている人は、どれくらいいるだろうか。そんな罪状を警告・糾弾し、馬・競馬の正当な地位を回復することもまた、馬・競馬ファンの聖なる義務である。

 馬に対する不当な描写は、「第18話 恋のゆくえ 思い通りにならないね」でなされる。当時のストーリー展開は、接近する光希と遊に対してそれを阻止しようとする銀太、亜梨実がさまざまな努力を尽くす一方で、茗子の高校教師・名村との恋愛が発覚し、名村が学園を去るというエピソードが挿入された局面である。

 名村に別れを告げられて落ち込む茗子を心配した銀太の発案で、光希、遊らは「カリヨン牧場」にピクニックに出かける。茗子、偶然行き合わせた亜梨実も含め、5人で楽しい時を過ごす彼らだったが、馬がストーリーの中で最も大きな役割を果たしたのは、その矢先であった。

 カリヨン牧場には、観光用のも繋養されていた。だが、光希が放牧地の中に入って馬にさわったところ、凶悪な光を瞳に湛えた馬が、突然彼女に襲いかかった。悲鳴をあげる光希だったが、暴れ馬を治めて彼女を危機から救ったのは、遊だった。ピクニックを利用して光希、遊の邪魔をしようとたくらんでいた銀太、亜梨実は、遊に抱きついて感謝する光希を目にして敗北を悟り、打ちひしがれるのである。

 このシーンで描かれる馬の姿は、まさに悪の化身そのものである。だが、このシーンで馬は本当に悪役なのであろうか。

 まず、「カリヨン牧場」では、本当に観光客が放牧地に入り込み、馬に触ることを許可していたのだろうか。許可していないとしたら、光希がしたことは、極めて重大なマナー違反行為である。少なくとも通常の牧場では、絶対に許されない行為である。悪いのは光希であり、馬にかみつかれて蹴飛ばされて踏み潰されても文句は言えない。

 もっとも、「カリヨン牧場」は観光牧場だから、アニメで描かれていないところで観光客のために特別に放牧地への立ち入りと、馬へのおさわりが許可されていた可能性もなくはない。ただ、普通の馬は、知らない人間が触れば怒るものである。そうだとすれば、特におとなしい馬というわけでもないその馬を観光客用に触り放題にさせていた牧場の管理体制がおかしい。いずれにしろ、馬は悪くないのである。

 そもそも、もし馬が本当に激怒したならば、ろくに馬に触ったこともない高校生である遊が簡単に治めることができるはずもない。いずれにしろ、この作品での馬の描き方は、根本から誤っているといわざるを得ない。


 この作品で不当な扱いをされているのは、馬だけではない。競馬に対しても、極めて不当な扱いがなされている。

 作者の競馬への偏見の犠牲となったのは、光希たちの1学年上の先輩で、学園の生徒会長を務める三輪悟である。彼の役割は、光希らを取り巻く恋愛模様からは一歩下がった位置で教師・名村との恋に身を焦がす茗子に対し、果敢にアプローチをかけるという役回りである。外見的には長髪で遊んでそうなお調子者キャラクターに見える三輪だが、実際は二枚目的かっこよさと三枚目的明るさを兼ね備えた、登場キャラの中でも指折りのナイスガイである。

 三輪の人格の素晴らしさと競馬との深い結びつきは、彼の茗子に対するアプローチの始まりから現れる。三輪は、名村とのひそかな逢い引き場所でもある(ただし、三輪を含めた周囲は誰もそのことを知らない)図書館で本を読んでいた彼女に、突然声をかける。

「きみ、2年の秋月さんだろ?」
「え・・・どうして、名前・・・」
「だって、綺麗で目立つからさ。うちの学校の男で、君を知らない奴なんかいないよ。君が中等部に入学してきた時、綺麗な子が入った、って凄く話題になったんだぜ。ほかの女子新入生を、かるく3馬身リード!だって」

 こうして茗子に接近を図った三輪だったが、茗子には

人を馬扱いにしないでください!

とすっかり嫌われてしまう。その後、茗子が三輪の名前を知っていたことが明らかになって

「光栄だな、ひょっとして、俺も3馬身リード、かな?」

と調子に乗る三輪だが、茗子は生徒会長の名前を知らない生徒はいない、と冷たく言い放ち、三輪のデートのお誘いも即座に断ってその場を立ち去ってしまうのである。


 三輪の競馬への造詣は、その後光希・遊とのWデートに持ち込んだ際にもいかんなく発揮される。光希・遊をダシに使ってお約束どおり「はぐれる」ことに成功した三輪だったが、茗子はあくまでも三輪に冷たい。それでも三輪は屈しない。彼女を家まで送った三輪は、

「わあ、大邸宅!きみって凄いお嬢さまなんだな。顔に中身に家柄まで、まさにサラブレッド不敗の三冠馬てとこだよな」

と茗子のすべてを最高級の賛辞によって礼賛するのである。茗子には

馬扱いするの、やめてください!

と逆に怒られてしまうだけに終わったが・・・。


 さて、初対面では三輪に思い切り悪印象を抱いた茗子だったが、その氷の心は、やがて名村との破局を経てもまったく変わらぬ三輪の愛の前に解けてゆく。三輪の言葉の真意・・・「3馬身リード!」「不敗の三冠馬!」という言葉が彼なりの最高級の賛辞であることを理解し・・・というわけではないが、三輪を受け入れるようになった茗子は、やがて三輪に勧められて彼女の内に秘めた思いを小説として書いたが、三輪はその小説を茗子に無断で文学賞に応募し、その作品が見事新人賞を受賞する・・・。

 馬を愛し、競馬を愛し、「不敗の三冠」を最高の賛辞として正しく理解する三輪が幸福になるのは当然である。こうして三輪と茗子はめでたく結ばれ、サブキャラクター間の関係にひとつの決着がつく・・・はずだった。

 しかし、この物語の作り手どもは、そんな愛すべき好漢・三輪に対し、あまりに残酷などんでん返しを用意する。茗子の授賞式に、茗子の昔の恋人・・・一度物語から退場したはずの名村が祝電を寄越したことから、茗子の心の焼けぼっくいに火がついてしまったのである。

 やがて、名村が茗子の担任である亮子先生(名村に惚れている)と付き合っていると知って(実は嘘)衝撃を受ける茗子だが、それでもあきらめきれない彼女は、名村が学園を去った現在を暮らす広島へと向かう。亮子先生とともに茗子を追いかけた三輪は、海辺の砂浜で茗子を傷つけ続ける名村をぶん殴るが、その激情の報いは、名村を救うために割って入った茗子を、彼自身の手でぶん殴ってしまうという悲劇であった。

 多くの(ていうか、多すぎ)恋の破局が描かれる「ママレード・ボーイ」だが、三輪の恋の破局は、その中でも屈指の残酷さを誇る。ヒロインの光希をはじめ、定見なく異性に惚れまくる移り気な登場人物たちの中で、まったく目移りすることなくひたすら茗子を想い続けた三輪への仕打ちが、それであった。酷い。酷すぎる。

 ちなみに、名村は作品中では生徒からの信望厚い人物として描かれている・・・はずだが、視聴者の目から見ると、やっていることはかなりのクズである。

 桐陵学園高等部の教師という立場にありながら、「俺って、ロリコンかな・・・」と独り言をごちつつ、当時中等部の女生徒だった茗子に手を出す。まったくもって、ロリコンの極みである。しかも、中高一貫校なら、中等部の生徒がいずれ高等部に進学してくるのは当然なのに。

 ついでに、名村が「付き合っている」と嘘をついた亮子先生は、名村が去った後、茗子の担任を務め、名村に頼まれて茗子のことを見守ってもいた。茗子にあきらめさせるのが目的とはいえ、彼女たちの信頼関係までぶち壊す方法を取らせたのである。・・・おまけに、亮子先生は昔から名村にあこがれ続けており、名村自身、友人から

「彼女の気持ちに気づいてやれ」

と助言までされていながら、彼女に嘘の恋人関係を演じさせたのである。これを鬼畜といわずして何と言おう。


 このように、人の道を外れたクズ野郎によって一敗地にまみれた三輪だったが、物語の作り手たちによる虐待は、これだけでは終わらなかった。「ママレード・ボーイ」の終盤は、最後に主人公2人がくっついたのは当然としても、それまで主人公(またはその他登場人物)にさんざん絡んできたサブキャラクターたちが、片っ端から新たな恋人を見つけてくっついていった。振られた者同士が次々とくっついたり、ストーリー展開上何の意味もなく新キャラクターが登場しては、敗者たちに新たな恋をもたらしたり・・・という光景の繰り返しは、まさに電光石火のような救済劇であった。

 ところが、恋に破れた他のサブキャラクターたちによる強引なまでのカップル量産の嵐の中で、三輪だけはまったく救済されなかった。はるかに性格が悪いキャラ、まさかここまで救うことはないと思われていたマイナーキャラ、どうしようもないギャグキャラまでが片っ端からカップル成立となった一方で、三輪だけは何も起こらなかった。本人にはなんの責もないまま、ひたすらに想いを寄せていた茗子を名村に奪われた三輪は、その後、別の恋の争いに敗れた傷心の美人と仲良くなることもなければ、唐突に現れたストーリー的に何の意味もない美女に想いを寄せられることもなく、ただ遊のよき兄貴分、相談相手としてストーリーの終焉を迎えてしまう。

 恋愛ドラマ、特に世界の閉鎖性を特色とする少女マンガでは、恋の敗者は敗者同士でくっついて幸せになることが少なくない。もともと恋愛もののストーリーは、話に含みを持たせるために、主人公たちの性格設定をある程度優柔不断にせざるを得ない。逆に、主人公たちを引き立たせるサブキャラクターたちは、主人公とは対照的な一途な性格となりがちである。そうなると、一般のユーザーからは、判官びいきも手伝って「サブキャラがかわいそう」という声が寄せられるため、彼らに救いを与えて決着をつけ、視聴者の批判を回避するという手法は珍しいものではない。その意味でも、「ママレード・ボーイ」は少女マンガの王道を極めつくした展開と言えよう。

 そんな世界観の中で、三輪に対するあの扱いは何なのであろうか。

 確かに、三輪が茗子に対して選んだ接近方法は、デリカシーのないものだったかもしれない。しかし、作中で「デリカシーのない男」の典型として描かれ、救いがたいギャグキャラとしての意味しか持たなかったはずの六反田務までが救済されたにもかかわらず、掛け値抜きのナイスガイである三輪だけがここまで虐げられるというのは、いくらなんでもあまりにひどい差別である。自分たちの幸福のためなら周囲の迷惑などまったく考えないキャラクターが大多数を占める中で、想う相手の幸せだけを思い、静かに敗れていった三輪、そして作中の中で唯一競馬に対して正しい尊敬と造詣を持つ三輪こそが、すべての登場人物の中で最も幸福となるべき存在であったにもかかわらず、である。

 アニメの作り手たちが三輪の真価をもし正しく理解していれば、三輪をひどく扱うことによる競馬ファンの反発と抗議をおそれ、三輪を幸せにしていたに違いない。だが、三輪は幸せになれなかった。「作者(スタッフ)の神の手」は、彼を救済しなかった。愛する女性を讃えるに「軽く3馬身リード!」「不敗の三冠馬!」と語った彼の美しき魂は、作り手たちの競馬への偏見によって穢されたのである。我々は、競馬に不当な偏見を持つ人々に抗議しなければならない。

 しかし、三輪はそのことに対して一言も不平を漏らすことはなかった。馬を愛したが故の宿命を彼は受け入れ、その愛に殉じたのである。馬が果たした役割の大きさは、時に若者に過酷な試練を与える。これもまた、計り知れない競馬の持つひとつの顔なのだろうか。

 三輪の「ママレード・ボーイ」内における物語は終わってしまった。彼の青春の哀しみの理由、それはそこに馬がいたから。馬は、常に人間の傍らに在る―。(文責:ぺ)