競馬サブカルチャー論・第06回:馬と『華の嵐』〜女は華、男は嵐/昼メロの"野生"は馬によって完成された〜

イメージ映像 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。

 ―馬は、常に人間の傍らに在る。

 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載を通じ、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。

華の嵐 より−

 昭和の激動期、母を弄んだ名門華族・朝倉家に恨みをもつ天堂一也は、復讐のために、男爵・朝倉景清とその一族に接近する。だが、天堂は、やがて朝倉男爵の長女・朝倉柳子との禁断の恋に落ちてしまう。復讐と愛の狭間で苦悩する天堂と柳子を待っていたのは、あまりにも過酷な時代、あまりにも残酷な運命だった…。

 1988年、新学期を迎えたばかりの学園のあちこちで、「ごきげんよう」という耳慣れぬ挨拶が交わされていた。

 彼らが影響を受けたのは、冬休み、春休みの間に垣間見た禁断の世界だった。上流社会でのみ通じる挨拶「ごきげんよう」―その魅惑の響きの中へ彼らをいざなったのは、汚れを知らない心身を深い色の制服に包み、マリア様の庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくりと歩きながら背の高い門を潜り抜けて行くのが嗜(たしな)みとされる乙女の園―では断じてなく、もし他の季節ならば彼らには観ることさえ物理的に不可能だったであろう「昼メロ」、それも高慢だが麗しき華族令嬢と復讐に燃える卑しい一匹狼が昭和を舞台に繰り広げたドロドロの世界であった。

 一般に「昼メロ」と呼ばれるのは、平日午後1時30分から午後2時までフジテレビ系列で放映される連続帯ドラマである。よく誤解されるが、同じ時間帯のTBS系ドラマは、「昼メロ」とは呼ばれない。「昼メロ」の真髄は、暇な奥様たちをメロメロにするほどの強烈なインパクトを持つドロドロ・ギトギトであるところ、ほのぼの・まったりを持ち味とするTBS系とは、その方向性からして異なっているのである。

 「昼メロ」といえば、近年では「真珠夫人」「真実一路」「牡丹と薔薇」などが立て続けにヒットを飛ばして復調が噂される。そう、昼メロとはまさにそんな世界なのである。

 だが、近年の作品がいかにヒットを飛ばそうとも、「昼メロ」界で永遠に超えることのできない名作と呼ばれる作品がある。…それは、「愛の嵐」「華の嵐」「夏の嵐」からなるいわゆる「嵐三部作」のうち前者二者、特に平均視聴率16.2%という昼の帯ドラマではありえない数字を叩き出し、「ごきげんよう」を小中学生たちにまで流行させる破壊力を見せた「究極の昼メロ」こと「華の嵐」である。

 この作品は、米国映画の名作「風とともに去りぬ」をモチーフにしたとされている。だが、実際には原案の面影は良い意味で影も形もない。もしこの作品から他の作品の影を見出すとすれば、当初「悪」として描かれる天堂と、「善」として描かれる柳子、という構図が、「嵐三部作」の前作「愛の嵐」(こちらのモチーフは「嵐が丘」とされている)を意図的に逆転させたものであろう、と感じさせる程度である。「華の嵐」は、徹頭徹尾「華の嵐」なのである。

 彼らの位置付けは、禁断の愛と彼らが直面する朝倉男爵の生き様、そして太平洋戦争という時代の中で激動の渦へと巻き込まれ、やがて新たな局面を迎えていく。その魅力を限りある紙面で語り尽くすことは、最初から不可能である。この重厚にして濃厚なドロドロの物語によって、全国の専業主婦の83.7%(推定)は魂を奪われてメロメロになり、全国の小中学校の69.4%(推定)で新学期に「ごきげんよう」という謎の挨拶が交わされたのである。


 だが、そんな「究極の昼メロ」の中で、が極めて重大な役割を果たしたことに気づいた視聴者は、果たしてどれほどいただろうか。

 「華の嵐」の主人公である天堂、柳子は、いずれも乗馬を嗜む。物語の序盤部分での天堂は、朝倉男爵とともに乗馬を楽しむ柳子を憎悪に満ちた目でにらみながら、

「母さん、ついにあいつを叩き潰す時が来た!! あいつを破滅させ、俺が味わった苦しみをあいつの娘にも味わわせてやる!! 」

と復讐を誓うのである。

 とはいえ、大陸で他人に言えぬ仕事によって富を築いた天堂には、金はあっても権威という背景がない。そんな天堂が朝倉男爵に接近するために選んだ方法は、朝倉男爵の愛娘である柳子から接近することであり、その手段としても馬が利用されている。

 一人で遠駆けに出かけた柳子の前に、やはり馬に乗った天堂が立ちはだかる。未だ天堂との面識がない柳子が

「邪魔です、おどきなさい」

と命じても、天堂はむしろ侮蔑の視線を投げかける。矜持を傷つけられた柳子が

「無礼な!」

とムチを振り上げると、天堂はそのムチを一瞬のうちに奪い、そのムチで柳子の馬を叩いて柳子をその場から強制離脱させた。馬をコントロールできずに天堂の前から消える形となって不機嫌なまま屋敷に戻った柳子は、そこで使用人から「おとどけもの」として、天堂に奪われたムチを渡されるのである。あまりの屈辱に身を震わせる柳子について、ナレーションは

「この世に生を享けて20年、初めて出会った男の野性に柳子の心は衝撃を受けていた」

と語っている。「女は華、男は嵐」という名言を生み出した二人の運命の幕開けでなった。


 その時、歴史は動いた。

 天堂は、男爵令嬢として何一つ不自由なく育てられ、誰からも侮られたことのないお嬢さまに二重三重の屈辱を与えることで、その心に自らの存在を深く刻み付けることに成功した。その後の天堂は、金と知略によって柳子、そして朝倉男爵に接近していく。

 だが、もし柳子が乗馬を嗜まなければ、そして天堂自身が柳子を超える馬術を身に付けていなければ、2人の出会いはまったく違ったものとなっていたに違いない。柳子の誇りを打ち砕くことでその存在を刻み付けた天堂だが、この方法以上に柳子の心に強力なイメージを植え付ける方法は、なかなかないだろう。

 もし天堂が柳子への接近に失敗していたとしたら、朝倉男爵は自らの夢を賭けたワイン事業に天堂を関与させることもなければ、「共産主義的」経営方法として特高に睨まれ、やがて破滅することもなかった。柳子は天堂との禁断の愛に落ちることもなかったし、物語の後半で「夜叉夫人」となることもなかっただろう。天堂も、朝倉男爵の真実を知ることもなければ、自らの罪を償うために戦後、宿敵「蝮男爵」、そして「夜叉夫人」と化した柳子と戦うこともなかった。あるいは、戦前の段階で既に、柳子は蝮にかまれた際に天堂に助けられ、天堂も暴漢に刺された際に柳子に命を救われているのだが、この時に彼らは死んでいたかもしれない。いずれにしろ、「華の嵐」の歴史は、その根源からの書き換えを余儀なくされていたにちがいないのである。

 つまり―。

 柳子が乗馬を嗜み、天堂が柳子以上に優れた乗馬の技術を持っていたからこそ、天堂と柳子の悲恋と朝倉男爵家の激動があり、そして「昼メロの最高傑作」とされる「華の嵐」の世界が成立したのである。馬なくして「華の嵐」、そして「昼メロ」を語ることはできない。「華の嵐」の成功なくしてその後のドロドロ路線の「昼メロ」―近年の「真珠夫人」や「牡丹と薔薇」もあり得なかった。真珠夫人」「牡丹と薔薇」は、馬によってつくられたのである

 さらに、「華の嵐」の成功によって「昼メロ枠に東海テレビあり」と天下に示した東海テレビは、東海地方の一地方局から、文化の真髄の担い手へと飛躍した。このように、馬は「華の嵐」の作品世界にとどまらず、現実のマスコミの経済面・文化面にも大きな影響を与えている。馬が果たした役割の大きさは、かくも計り知れない。

 そこに馬がいたから。馬は、常に人間の傍らに在る―。(文責:ぺ)