競馬サブカルチャー論・第03回:馬と『ドラゴンクエストⅢ−そして伝説へ』〜DQシリーズの最高峰/わたしはしゃべるうまのエド。〜


ドラゴンクエスト〓 そして伝説へ この連載は有志以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。

 ―馬は、常に人間の傍らに在る。

 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載を通じ、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。

ドラゴンクエストlll そして伝説へ より−

 アリアハンという小国に、かつてオルテガという名の勇者がいた。オルテガは、世界を闇で支配しようとする魔王バラモスを倒すために旅に出たまま、二度と戻らなかった。・・・それから長い時が過ぎ、アリアハンからまた1人の勇者が旅立った。16歳の誕生日を迎えたばかりの新たなる勇者は、偉大な父オルテガが果たせなかった打倒バラモスの使命を果たすため、酒場で出会った仲間とともに旅に出たのである―。


 「ドラゴンクエスト」シリーズ(「DQ」シリーズ)は、「ファイナルファンタジー」シリーズと並んで日本ゲーム界の双璧をなす代表的ロールプレイングゲ―ムである。DQシリーズの端緒となった初代「ドラゴンクエスト」がファミコン用ソフトとして発売されたのは、1986年5月のことである。キャラクターデザイン鳥山明、音楽すぎやまこういちといった豪華な布陣による本格RPGという触れ込みではあったが、ここまで成功することを予測した人もいなかっただろう。しかし、その人気は作を重ねるごとに高まり、媒体をスーパーファミコン、そしてプレイステーションとハードを移しながら、今なお続いている。

 「ドラゴンクエストlll そして伝説へ」は、「ドラゴンクエスト」「ドラゴンクエストll 悪霊の神々」とともに、シリーズの原点である「勇者ロトの伝説」と密接に関わる「ロト三部作」と位置づけられている。発売時には注文に生産が追いつかずたちまち店頭から姿を消し、「不人気ソフトとの抱き合わせ販売」「学校をさぼってDQlllを買うために並ぶ小学生」「長い時間並んで買ったばかりのDQlllを恐喝される」といった狂騒曲も巻き起こした話題作は、DQシリーズの中でも初代DQの世界観を直接引き継いだ最後の作品でもあった。DQシリーズの特徴である壮大なマップ、重厚な世界観もさることながら、「せんし」「まほうつかい」「あそびにん」など様々な職業の仲間を自分自身で設定してパーティを組んだり、仲間の「転職」が可能だったりといった、過去にない試みを取り入れ、見事に消化しきったことでも高く評価されており、今なお「DQシリーズの最高峰」と称えるユーザーも少なくない。


 しかし、そんな日本ゲーム史に残る名作で、馬が極めて重大な役割を果たしていることを覚えている人は、どれくらいいるだろう。

 DQシリーズは、町や村に住む住民と会話をしながら情報を集めて旅を進めていくシステムをとっている。ところが、DQlllでは、場所によっては村人や町娘に混じってが現れる。コマンド「はなす」を使うと、なんと馬に話しかけることも可能である。

 とはいえ、たいていの馬は、せっかく話しかけても

馬「ひひーん!」

としか答えてくれない。馬である以上、やむをえないところであるのだが・・・。

 ところが、ゲームの中盤以降に行くことができるようになる「スー」という村に、そんな常識をはるかに超えた馬・エドが現れる。このエドは、「しゃべるうま」として村人たちの注目の的になっており、皆からうらやましがられているようである。

 エドは、外見はただの馬とまったく同じである。しかし、勇者たちが話しかけると、

馬「わたしはしゃべるうまのエドみなさんにいいことをおしえましょう。もしかわきのつぼをみつけたら、にしのうみのあさせのまえでつかうのですよ」

と、聞いてもいないのに、西の海の浅瀬の秘密を教えてくれるのだ。

 エドの教えに従って、西の海の浅瀬の前で「かわきのつぼ」というアイテムを使った場合、突然浅瀬の水が干上がり、隠されていたほこらが浮き上がってくる。

 勇者は、このほこらで、「さいごのカギ」を手に入れることができる。「さいごのカギ」は、普通にプレーをすればそれまでに手に入れているはずの「とうぞくのカギ」「まほうのカギ」では開けられない鉄格子様のとびらを開けるために必要なアイテムである。もし「さいごのカギ」を手に入れずにゲームをクリアするためには、パーティーに「まほうつかい」を加え、どんなカギでも開けることができる「アバカム」の呪文を覚えるレベル35前後まで育てることが必要になる。ちなみに、レベル35あれば、魔王バラモスは十分倒せる。倒しても得られる経験値が低い中盤まででレベルを35まで上げるだけの経験値を稼ぐことは、馬券による黒字を100万円にすることを夢見て、ひたすらゴ(以下ry)の乗り馬(5番人気以内)の単勝馬券を1万円ずつ買い続けることに匹敵する忍耐力を必要とする難行である。普通人は、そこにたどり着くまでにゲームのクリアをあきらめてしまうだろう。

 その時、歴史は動いた。

 もしエドが人の言葉を解さなかったり、人間は誰も知らない「さいごのカギ」があるほこらの出現方法を知らなかったり、勇者たちにその出現方法を教えてくれなかったとしたら、勇者たちが魔王バラモスのもとにたどり着くことは、ほぼ不可能だった。もし勇者たちが魔王バラモスのもとにたどり着くことができなければ、バラモスは倒されることもなくネクロゴンドの山奥に君臨し続けるだろう。民衆は魔物たちの侵略におびえ、世界は闇と恐怖に支配された日々をひたすら送っていたに違いないのだ。

 さらに言うならば、連続する世界観だけに、「DQ」、「DQll」以前の物語である「DQlll」が完結しない限り、「DQ」、「DQll」の世界もありえなかった。下手をすると、世界を闇で支配し続けた魔王バラモスが、「DQ」の時代に竜王、「DQll」の時代に大神官ハーゴンと、世界を二分する闇と闇の戦いを繰り広げていたかもしれない。そんなことになっていたら、善良な民衆たちの生活はひとたまりもなかっただろう。いや、あるいはそれ以前に人類自体が魔物たちに攻め滅ぼされてしまったとしても、不思議はないだろう。

 つまり―。

 エドがしゃべる馬で、やたらと物知りで、しかも底抜けに親切であったがために、勇者たちは魔王バラモンを倒し、やがて世界に平和をもたらすことに成功したのである。エドなくして、勇者ロトの伝説を語ることはできない。エドなくしてDQシリーズは存在し得なかったのだ。

 エドがなぜそんな重要な、しかも人間たちは誰も知らない情報を知っていたのかについては、作中で答えが与えられることはない。しかし、その事実は、エドの偉大さを引き立たせるものではあっても、断じて貶めるものではない。馬の素晴らしさがあればこそ、エドは歴史的な使命を与えられた。しゃべる馬のエドは、世界を救ったのである。馬が果たした役割の大きさは、かくも計り知れない。

 そこに馬がいたから。馬は、常に人間の傍らに在る―。(文責:ぺ)