さようなら〜2002年供用停止種牡馬外伝その47「ミスタートウジンの場合」

 JRHR日本軽種馬登録協会から2002年供用停止種牡馬一覧が公表されたのを受けて、MilkyHorse.comではニュースコンテンツ「文芸欄」の企画として、まよ氏@MilkyHorse.comの執筆による供用停止種牡馬の馬生を簡単に振り返る外伝を連載します。

 ミスタートウジン(JPN)→2002年10月1日、用途変更

 JRA最高齢出走記録など、数々の金字塔を打ち立てた、「無事是名馬」。

 1986年生。父はBold Ruler→Raja Baba系のジュニアス。同馬は、サンタイネスS(米GII)など10勝、デルマーオークス(米GI)2着の名牝Solid Thoughtを母に持つ良血馬で、現役時代はミドルパークS(英GI)をレコード勝ちするなど5戦3勝。種牡馬としては愛・1000ギニートライアルS(愛GIII)勝ち馬ソリュースを出し、輸入後は受精能力の低下に見舞われながらも、ミスタートウジンのほか北九州短距離S(OP)勝ち馬ミナモトジュニアスやラジオたんぱ杯3歳S(GIII)3着のミスジュニヤスなどを出している。

 母のナオユキはクイーンC2着、牝馬東京タイムズ杯2着などのなかなかの活躍馬で、繁殖牝馬としても鳴尾記念(GII)、ダイヤモンドS(GIII)を勝ち、天皇賞・春(GI)で2着したミスターシクレノンなどを出して成功した名牝である。母の父のジルドレは、現在その父系が日本を席捲しているRoyal Charger産駒の英・2000ギニー(英GI)勝ち馬で、持込馬のチトセオーが皐月賞を勝つなどの活躍を見せて輸入され、来日後も函館3歳Sなどを勝ったトモエオーなどを出して成功している。

 旧3歳10月の京都開催でデビューし、緒戦は7着に破れたものの、折り返しの新馬戦を勝ち、続くもみじS(OP)も2着して、早くも良血馬の片鱗を見せる。

 旧4歳時は、4月の阪神開催の平場で2勝目を挙げて、滑り込みで皐月賞(GI)に出走を果たしたものの、さすがに相手が強く13着に終わった。続くNHK杯(GII)も11着に終わってクラシック路線から脱落した。

 明けて旧5歳になると徐々に本格化。年明け初戦の稲荷特別で3勝目を挙げると、関門橋S(OP)6着を挟んで、ストークSを勝ち準オープンも突破。芝の京王杯スプリングC(GII)、京阪杯(GIII)は13着、15着と大敗したものの、ダートでは仁川S・摩耶Sで2着に入ってオープンでも通用するところを見せると、暮れのウインターS(GIII)ではこのレースを皮切りにダートの怪物として君臨したナリタハヤブサのレコード勝ちに対して3着と健闘した。

 旧6歳になると、ダートのオープン馬として活躍するようになり、平安Sで2着、フェブラリーH(GIII)でもナリタハヤブサには千切られたものの5着と健闘。ダートのチャンピオンが揃った帝王賞こそ8着に終わったが、武蔵野Sではついにナリタハヤブサを競り落として優勝した。また、秋には果敢にも天皇賞(GI)に挑戦し、兄・ミスターシクレノンとの競演も果たした(ミスターシクレノン11着、ミスタートウジン14着)。

 旧7歳時は、この後ミスタートウジンにとっての年中行事となる銀嶺Sへ初めて出走し、見事優勝。秋にはアンドロメダSを勝ち、キャピタルSでは4歳のゴールデンサドルT以来3年ぶりの芝での連対を果たしたものの、初重賞制覇の絶好のチャンスと思われたウインターS(GIII)では、直線半ばで先頭に立ちながら、4歳牝馬チェリーコウマンの強襲に屈して惜しくも3着。

 旧8歳になってからも、ますます盛んなミスタートウジンは、初戦のガーネットSチェリーコウマンに借りを返して10勝目。続く平安Sも勝って、今年こそは悲願の重賞制覇と思われたが、連覇を狙った銀嶺Sで3着に敗れると、この年からGIIとなったフェブラリーSでもチアズアトムの6着に終わった。このあたりからさすがに年齢的な衰えが影を見せ始め、好走すれども勝ち切れないレースが続くことになる。それでも、年中行事の銀嶺Sでは9歳時も2着、また、同じ年の帝王賞でも15番人気ながら勝ったスタビライザーにクビ差まで迫る2着と、老雄の意地を見せた。ちなみに、この年ミスタートウジンは14戦を消化。9歳にして、自身の年間最多出走を果たしているタフネス振りであった。

 タフなミスタートウジンも、旧10歳にもなるとさすがに衰えは隠し切れず、銀嶺Sこそ13番人気ながら3着に入って健在振りを見せたものの、マーチS(GIII)10着後にはついに骨折を発症してしまう。それでも、タフなミスタートウジンは、早くも夏には復帰を果たして、佐賀の開設記念に出走する。ここでなんと1番人気に支持されるのだが、残念ながら人気を裏切る6着に終わってしまった。

 その後も、時折休みを挟みながらも出走を続け、旧11歳時もすばるSで9頭立ての9番人気ながら5着、東海Sでも14番人気ながら4着と好走して意地を見せる。しかしながら、さすがのミスタートウジンもついにダウン。夏の小倉・KBC杯10着を最後に、脚部不安で1年半以上の休養に入ってしまう。

 この休養から復活したときが、旧13歳の銀嶺S。さすがに、「これ以上走らせるのは可哀想だ」という声も聞かれるようになったが、それでもミスタートウジンはタフに走り続け、銀嶺Sは8着。かろうじて賞金圏内に踏みとどまるとともに、このレースに出走していたサクラスピードオーに先着。4歳時の皐月賞で父サクラホクトオーに先着したのと合わせ、親子に先着するという偉大な記録を打ち立てた。さらに、引退レースとの声も聞かれた高知の黒船賞(統一GIII)では、4着と奇跡的な大激走。「引退」の声を自らの激走で吹き飛ばしたのである。

 その後、球節を骨折したものの、翌年には復帰を果たして恒例行事の銀嶺S出走を含む4戦を消化。その後再び休養に入り、明けて15歳のガーネットS(GIII)で復帰。この頃になると、ミスタートウジンは「働く中年の星」として、競馬ファンのみならず、一般人からも愛されるような存在となり、このレースは12着に終わったものの、騎乗したムルタ騎手は、ミスタートウジンのタフさと精神力の強さに敬意を示し、「ハートのある馬、できれば若い時に乗りたかった」という粋なコメントを残している。そして、100戦目でのフェブラリーS(GI)出走を花道に引退というプランが掲げられたのだが、「GI出走規程」の改訂により無念の除外。ファンが望む有力馬の除外を防ぐための規約改訂が、結果として有力ではないかもしれないが、多くのファンが出走を望んだミスタートウジンの除外につながったとは皮肉な話である。

 結局、再度100戦目を目指した黒船賞(統一GIII)も除外され、マーチS(GIII)へ向けての調整中に脚部不安を再発。通算100戦出走を目前にしながら、無念の引退劇となった。

 現役時代の通算成績は、99戦11勝。13年間に渡る競争生活で、JRA史上最高齢出走(15歳)、同一競走最多出走(銀嶺S・8回)などの偉大な記録を打ち立てるとともに、走行距離は16万5700m、合計27人もの騎手を背に走り続けた(最多騎乗者は村本善之騎手の41回)。

 なお、引退後は関係者の厚意により種牡馬入りを果たしている。とはいえ、重賞勝ちもなく、母系も優秀とはいえいわゆる流行の血統というわけでもない血統背景では、そう交配相手に恵まれることがないのは仕方がない。長かった現役時代に比して、あまりにも早い種牡馬生活からの引退となってしまった。しかし、「無事是名馬」ということの素晴らしさを体現し、競馬ファンの枠を越えて人気者となった、同馬のタフで不屈の走りが忘れられることはないであろう。

 同馬は現在、門別町・白井牧場で静かに余生を送っている。(文責:ま)