さようなら〜2004年供用停止種牡馬外伝その2「アイネスフウジンの場合」

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 JRHR日本軽種馬登録協会から2004年供用停止種牡馬一覧が公表されたのを受けて、MilkyHorse.comではニュースコンテンツ「文芸欄」の企画として、供用停止種牡馬の馬生を簡単に振り返る外伝を2002年版以来2年ぶりに連載中です。

アイネスフウジン(JPN)→2004年4月5日、腸捻転のため死亡

 「ナカノコール」で1990年代の競馬ブームの扉を開いた、記念碑的ダービー馬。

 1987年生。父は、海外では1975年の英・セントレジャー(英GI)勝ち馬Bruniや1972年のアスコット金杯(英GI)を勝ったエリモホーク、輸入後は1989年の日本ダービー(GI)馬ウイナーズサークルや1982年、84年の天皇賞・春を制したモンテプリンスモンテファスト兄弟など、名ステイヤーを内外で次々と輩出した大種牡馬シーホーク。母はテスコパールで、母の父は6度のリーディングサイヤーに輝き、「お助けボーイ」と呼ばれた大種牡馬テスコボーイという血統構成である。

 現役時代は加藤修甫厩舎(美浦)に所属し、鞍上はベテランの中野栄治騎手(現調教師)が務めた。勝ち上がりに3戦を要したものの、続く朝日杯3歳S(GI)では、ハイペースの2番手追走から鮮やかに抜け出し、歴史的名馬マルゼンスキーが1976年に記録したレコードタイムと同タイムという好時計で快勝。この年の最優秀3歳牡馬を受賞した。

 明けて4歳時は、緒戦の共同通信杯4歳S(GIII)こそ快勝したものの、続く弥生賞(GII)はメジロライアンの4着、皐月賞(GI)はハクタイセイの2着に敗れる。こうして迎えたダービー本番では、皐月賞3着のメジロライアン皐月賞ハクタイセイに続く3番人気に甘んじることとなった。このとき、主戦の中野栄治騎手が「借金して金をかき集めて馬券を買ってでも、アイネスフウジンをダービーの本命にしてやりたい」 と語ったという著名なエピソードも残されている。

 レース本番では、アイネスフウジンは持ち味のスピードを存分に生かしたハイペースの逃げを打ち、直線猛然と追い込んだメジロライアンの追撃を1 1/4馬身差振り切って優勝した。勝ちタイムは1988年の日本ダービーサクラチヨノオーがマークしたダービーレコードを1秒も更新する2.25.3。

 レース後、空前絶後の19万6517人という大観衆から、後に「ナカノコール」と呼ばれることとなる大合唱が巻き起こったことは、もはや知らぬもののない著名なエピソードである。これ以降、大レースの勝ち馬や騎手に対してそれを讃えるコールがなされるのがお約束となりつつあるが、「自然発生的にコールが巻き起こったのはこの時だけだった」として特別視されることが多い。

 ダービー後のアイネスフウジンは、脚部不安に見舞われ、結局レースに復帰することなく現役を引退。種牡馬としては、初期に北九州短距離Sなどオープン特別を3勝し、1997年の函館スプリントS(GIII)を3着したイサミサクラを輩出したものの、自身のスタミナを受け継ぐ一流馬は出ずにシンジケートが解散。一度は宮城に移ることとなるが、その後2000年の帝王賞(統一GI)、東京大賞典(統一GI)を制し、同年のNARグランプリ特別表彰馬となった名牝ファストフレンドを輩出している。

 現役時代、シーホークのスタミナと、テスコボーイのスピードの高い次元での融合を見せたアイネスフウジンだったが、種牡馬としては今のところ自身のような高いスピードを持つ一流ステイヤーは輩出できていない。まだまだ死ぬには早い年であっただけに、大種牡馬シーホークの系統がこれで先細りとなる可能性が窮めて高くなったこととあわせ、非常に残念なことではある。とはいえ、ファストフレンドという代表産駒から牝系を通してその血が残される可能性は十分ある。その中から、いずれはアイネスフウジンのようなスピードとスタミナの高い次元での融合を示す名馬が現れてほしいものである。 (文責:ま)