競馬サブカルチャー論・第20回:馬と『Kanon』その1〜雪が溶ける頃,冬の日の物語もまた,“思い出”に還る〜
競馬サブカルチャー論とは
この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで,歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し,数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と,その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
―馬は,常に人間の傍らに在る。
その存在は,競馬の中核的な構成要素に留まらず,漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では,サブカルチャーの諸場面において,決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
※本稿には,PCゲーム版の内容に関する強烈なネタバレが含まれています。本文に施されている注釈は,熟読したい人向けです。なお,ゲーム版を"水瀬名雪"→"沢渡真琴"→"川澄舞"→"月宮あゆ"→"美坂栞"*1の順でクリアした後の読者を想定しています(え)。
1.Visual Art's/Key 『Kanon』より
2."ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon」
1) 文芸様式としてのファンタジー
1:「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所"
1) ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論
2:「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語
1) 月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成
3.「Kanon」における"奇跡"のガジェット〜小さな"奇跡"の物語
1:"奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか
2:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(1)〜あり得ないはずの状態
3:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(2)〜超常的な救済
1) 水瀬名雪シナリオの場合
2) 月宮あゆシナリオの場合
4:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(3)〜日常の中にある非日常的な状態
1) 久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較
5:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(4)〜日常的な,奇跡のように思える偶然
1) 世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい
2) あらゆる物語可能性に想いを馳せる
6:あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない?
1) "同一世界解釈/確定的過去共有"とは
2) "多世界解釈/遡及的過去形成"とは
3) マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路
4) 「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来
7:それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな"奇跡"の物語
1) 7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?
4.馬と「Kanon」(←ここから読んでも無問題)
5.主な先行文献の相関関係
Visual Art's/Key 『Kanon』 より
雪が降っていた。
思い出の中を,真っ白い結晶が埋め尽くしていた。
数年ぶりに訪れた白く霞む街で,
今も振り続ける雪の中で,
俺はひとりの少女と出会った。
―“思い出”に還る物語―
…そして…
―小さな“奇跡”の物語―
"Kanon"
(「Kanon」オープニング/DVD-ROM解説書より)
「Kanon」*2は,1999年6月4日にゲームブランドKeyから発売された成人向け恋愛アドベンチャーゲーム(いわゆる18禁PCゲーム)である。2000年1月7日には18禁描写を省略したPC全年齢対象版も発売された。また,2004年11月26日には全年齢版で追加されたイベントCG等も収録した18禁DVD-ROM版が「Kanon Standard Edition」の名称で廉価再販され,PC全年齢対象DVD-ROM版も「Kanon Standard Edition 全年齢対象版」の名称で2005年1月28日にやはり廉価再販されており,現在でも容易に入手することができる。
本作は,Tactics所属時代に「MOON.」(1997年),「ONE〜輝く季節へ〜」(1998年)を制作した主要スタッフが,ゲームブランドKeyを立ち上げた後,記念すべき第1作目として企画・制作された美少女ゲームである(企画・脚本:久弥直樹/脚本:麻枝准/音楽:折戸伸治,OdiakeS/原画:樋上いたる/CG:ミラクル☆みきぽん,鳥の,しのり〜)。先発の「ONE〜輝く季節へ〜」,後発のKeyブランド諸作品「AIR」(2000年),「CLANNAD」(2004年)と併せて,四部作的な評価を受けることが通例である*3。また,Tactics〜Keyの系譜にとって,シナリオライターの麻枝准氏と久弥直樹氏による最後の競作としても意義深い。
本・競馬サブカルチャー論では,始祖鳥「同級生」(エルフ,1992年)によって美少女ゲーム(恋愛ADV,恋愛SLG)が成立し*4,「河原崎家の一族」(エルフ,1993年)による黎明といわゆるリーフ・ビジュアルノベル三部作*5―「雫」(Leaf,1996年),「痕」(Leaf,1996年),「To Heart」(Leaf,1997年)―による到達をもってビジュアルノベルへの分岐・進化が遂げられた*6と解釈する"美少女ゲーム/ビジュアルノベル史観"をなぜか採用しているのだが,このような史観に沿って本作の歴史的意義を説明するとするならば,次の通り指摘することができるだろう。
―「Kanon」とは,"ビジュアルノベルの繁栄期"*7を代表する,"感動系(泣きゲー)"*8のエポックメイキングとなった作品である。確かに,美少女ゲームとしてのパラダイム*9ないし年代論という見地から見るならば,"三段階層式フォーマット"―"叙述の視点とキャラ萌え"→"会話とエピソードの積み重ね"→"ヒロインと主人公の物語"―*10 *11に属するもののその革新性は乏しく,系譜的にはあくまでも「ONE〜輝く季節へ〜」(1998年,Tactics)及び「AIR」(2000年,Key)の中継作に過ぎない*12。しかし,文章・画像・音楽を表現技法として融合的に用いるビジュアルノベル*13としての完成度に着目するならば,「Kanon」という作品には,音と絵とテキストの調和がもたらしたゲーム表現ならではの"叙情"や"美しさ"があり,「絵や音楽とシンクロして詩的なテキストが降って来た」*14とまで評されるくらい,それはプレイヤーの心の琴線に触れる。ただし,そのシナリオは決して万人受けするものとは限らない―。
このように概略されることの多い「Kanon」は,もはや美少女ゲームとしては古典の域に達した観すらあるのだが,このたび発表後7年目にして異例ともいえる二度目のテレビアニメ化が実現することになった。「AIR」TVアニメ版(2005年)や「涼宮ハルヒの憂鬱」*15TVアニメ版(2006年)を手がけた京都アニメーションによる制作で,2006年10月5日25時からBS-iにて2クール作品として放送が開始されるのである。この「Kanon」TVアニメ版(第2期)を心ゆくまで満喫するためには,原作のPCゲーム版を予習ないし復習しておくに越したことはない(というよりも,原作を知らずに視聴すると腑に落ちないことが多いかもしれない)。
そこで,今回の競馬サブカルチャー論では,その前半部を用いて,本作が"感動系(泣きゲー)"のエポックメイキングであるにもかかわらず,どうして"万人受けしない"のかという点にも言及した上で,文芸的な"様式と主題"を踏まえつつ,本作のストーリーを概説することを試みることにしたい。
"ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon」
文芸的な側面から批評するならば*16,本作「Kanon」は"ジュブナイルファンタジー"である,というのが適切だろう。ここにいう"ジュブナイルファンタジー"とは,ジュブナイル(成長物語)という主題(テーマ)を備え,文芸様式としてのファンタジーという体裁を採る文芸作品を意味する。端的にいえば,ファンタジーの様式を用いて*17ジュブナイル的な主題*18を表現した作品のことである。
… 文芸様式としてのファンタジー …
ファンタジーとは,一般的には,幻想的・空想的な要素といった仮想の設定の下,世界観を構築する芸術表現技法のことである。仮想的なあらゆる設定を排斥し,現実世界にのみ準拠した世界観を構築するリアリズム文学に対するアンチテーゼとして位置付けられるものである。このファンタジー文学はさらに二類型に分岐する。"剣と魔法のファンタジー"と"文芸様式としてのファンタジー"である*19。
前者の"剣と魔法のファンタジー"とは,異世界(現実世界とは別の世界)を舞台に,緻密かつ詳細な世界観を展開する物語のことであり,その代表作として「指輪物語」「ゲド戦記」「ナルニア国ものがたり」(いわゆる,世界三大ファンタジー)が挙げられる通り,単に"ファンタジー"というときはこの"剣と魔法のファンタジー"を指しているのが通例である。
これに対して,後者の"文芸様式としてのファンタジー"とは,古典的意味におけるファンタジーのことであり,幻想的・空想的な要素といった仮想の設定を所与の前提として,抽象的かつ不条理なままの世界観を当然視する物語のことである。"剣と魔法のファンタジー"がその世界観を緻密かつ詳細に描写することに重きを置くのに対して,"文芸様式としてのファンタジー"は,現実世界におけるリアリズムの絶対性―その存在が疑われることもなく,説明を要するまでもなく,ただ実在すると断言される―を,そのまま自らの世界観に置換する。つまり,「存在」する以上,その存在を疑うことはもはや無意味であり,そこに「説明」を求めることもまた,無意味なものである。このようなテーゼに基づいて,架空世界こそがリアリズムそのものだとみなすわけである*20。叙事詩や神話,天地創造の起源譚といった非写実的な口承文芸がその代表例ということになる。
「Kanon」の様式は,この"文芸様式としてのファンタジー"によるものである*21。少なくとも,写実的なリアリズム文学の様式に連なるものではないので,「リアリティを無視している」*22という批判は妥当しないし,リアリズム文学に即した解釈を無理やりひねり出すこと*23も無用である。要するに,ファンタジー文学とリアリズム文学との比較は,単なる個人の嗜好(好き嫌い)の問題に過ぎず,二項対立的に優劣を決すべき問題ではない。
― 「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所" ―
それでは,実際に「Kanon」が採り込んでいるファンタジーの世界観は何だろうか。シナリオの文脈に沿いつつ,あえて踏み込むとするならば,次のような見解を挙げることができるだろう。すなわち,
月宮あゆ*24は7年間,昏睡状態の中で覚めない夢を見続けている。やがて,彼女の夢は巨大な想念となって現実世界を呑み込み,今,この街では"夢の世界"と"現実世界"という二つの次元が重なって存在している。主人公の相沢祐一が7年ぶりに再会する“あゆ”は,この"夢の世界"の次元におけるたった一人の住人である*25。ただし,“あゆ”は単純に月宮あゆが見ている夢の中での彼女の姿ではない。“あゆ”は,月宮あゆの人格のうち"エス(子供の部分)"*26が抜け出した「夢人」ともいうべき意識体である。
もっとも,あゆの夢の想念がひとりでに街を覆い尽くしたわけではない。7年ぶりにこの街に帰ってきた祐一の無意識下の想念が,眠り続ける月宮あゆの夢の想念と共鳴*27した結果,初めてあゆの夢の想念は肥大化して街を包み込むまでになり,“あゆ”が出現できるようになったのだ*28。そして,主人公の想念による干渉*29に対して,彼女の想念が"夢の世界"を創り出してまで呼応しようとする契機こそが,「約束」*30だったのである―。*31
このように,あまりにもド派手過ぎて忘れがちになってしまうが,主人公が街で再会することになる“あゆ”の存在自体がファンタジーによる所産に他ならない。そして,この"夢の世界"と"現実世界"という二つの次元の重なった街という世界観*32はすべてのシナリオに共通するものだが,このうち月宮あゆシナリオ,水瀬名雪*33シナリオ,美坂栞*34シナリオの三つ*35は,あゆの想念による"夢の世界"の次元に完全に入っている。特に,美坂栞シナリオのエピローグにおいて,"街を包むあゆの夢の想念"をほのめかす栞のセリフがあることは見過ごせないだろう。
【栞】「例えば,ですよ…」
【栞】「例えば…今,自分が誰かの夢の中にいるって,考えたことはないですか?」
【祐一】「何だ,それ?」
(「Kanon」美坂栞シナリオ・エピローグより)
他方で,あゆの想念による"夢の世界"の次元が存在するにもかかわらず,そこから影響を受けないままストーリーが完結するシナリオも存在する。川澄舞シナリオと沢渡真琴シナリオの二つ*36がそれである。それぞれ,対応するファンタジーの世界観が追加されている。すなわち,
川澄舞*37が深夜の校舎で討とうとしている『魔物』とは,彼女自身が10年前に拒絶した自分の超常的な『力』そのものであり,その名を『希望』という。舞には自身の『希望』という名の『力』を,敵として倒す以外の選択肢がない。なぜならば,『希望』を手放している今の彼女には『未来へと紡ぐ力』がないから―。*38
沢渡真琴*39の正体は,妖狐である。かつて主人公に拾われて,捨てられた狐が,人間のぬくもりを再び求めて,ものみの丘から人里へと降りてきたのだ。しかし,狐が人の姿になるためには二つの代償が必要だった―。*40
というものである(本稿では,これを"風の辿り着く場所"*41と呼ぶことにする)。本作を構成する五つのシナリオ(+α)相互の関連性・整合性については諸説あるところだが,川澄舞シナリオと沢渡真琴シナリオにおいても,ストーリーとは直接無関係だとしても,あゆの想念による"夢の世界"の次元はやはり発生している,と捉えた方が比較的穏当な解釈を導くことが容易である*42。
とりあえずここでは,「Kanon」におけるファンタジーの世界観は,"夢の世界"*43と"風の辿り着く場所"*44という二つのプロットから多層的に構成されている,とまとめることにしておこう。
…ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論…
本作のヒロイン5人のうち,月宮あゆ,川澄舞,沢渡真琴の3人*45については,特にその非常識さと精神年齢の幼稚さが指摘され,キャラ萌え*46としてあざとい*47という批判が向けられることがある*48。おそらく,特に強烈なのは,“あゆ”によるたい焼き食い逃げ*49と,真琴による水瀬家での"いたずら"ということになるだろうか。
しかし,その当否自体はさておくとして*50,ヒロインの"幼さ"は各シナリオの伏線として張られているものであり*51,しかも,上記の通りファンタジーの世界観からは,“あゆ”は"エス(子供の部分)"が抜け出した存在であり,舞は『希望』という名の『力』を手放しているし,真琴はその正体が妖狐だからそれぞれ幼稚な面がある*52,と整合的に説明できることには留意しておくべきだろう*53。
ついでにいえば,賛否両論があるであろう原画デッサン(いわゆる"いたる絵")については,その歴史的経緯を踏まえて各自で判断するほかない。
― 「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語 ―
「俺たちはすでに出会っていて,そして,約束をしたんだからな」
(「Kanon」川澄舞シナリオより)
「Kanon」は,"思い出に還る物語"と呼称されることがある*54。前作の「ONE〜輝く季節へ〜」が,"ボーイ・ミーツ・ガール"後の再会で終わる物語だったとするならば,本作の「Kanon」は,再会から始まる物語―"ボーイ・ミーツ・ガール・アゲイン"がモチーフになっているわけである*55。そして,実際,過去に出会っていた"ヒロインと主人公の物語"*56が思い出されたとき,「Kanon」の各シナリオはクライマックスを迎える*57。
ところで,本作における"思い出"とは,いったい何だろう?
「…思い出って,なんのためにあるんだろうね」
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
ここでは,"思い出"というキーワードを手がかりに,本作におけるジュブナイル*58的な主題をあえて読み解くことにしてみよう。また,前作「ONE〜輝く季節へ〜」との連続性を見過ごすこともできないので,これを踏まえることにもしたい。
前作「ONE〜輝く季節へ〜」の段階で,既に"思い出"という言葉には,実に多義的な援用が施されている。そのなかでも,特に注目すべき言及は次の箇所である。
そこは,永遠がある世界…。
だったら,その悠久の時の中で…。
あの人の思い出と一緒に過ごす。
短い思い出だけど,それなら何度も繰り返せばいい。
だって,永遠なんだから…。
(「ONE〜輝く季節へ〜」里村茜シナリオより)
少女は,穏やかに微笑んでもう一度言葉を紡いだ。
オレの訊きたかった言葉。
切望してやまなかった言葉。
これから,思い出という永遠の中で,ずっとオレだけの為の言葉を…。
「夕焼け,きれい?」
それが,永遠のはじまり…。
(「ONE〜輝く季節へ〜」川名みさきシナリオより)
そこは永遠の世界なんだから。
ずっと旅し続ける世界なんだから。
長森との幸せな記憶を持ってゆけばいい。
そこで,オレは永遠に長森との幸せな思い出を反すうし続けることができる。
(「ONE〜輝く季節へ〜」長森瑞佳シナリオより)
"思い出という(名の)永遠"である。この"思い出という(名の)永遠"は,「Kanon」でもやはり頻出しているので,ここで対照させてみよう。
もう胸を引き裂かれるような現実も見ないで済む。
そう…。
春の日も,夏の日も,秋の日も,冬の日も,舞の思い出と暮らそう。
楽しかった思い出だけを連れて,いこう。
そうすれば,何も辛くない。
すべてはここで終わってしまったけど…
(「Kanon」川澄舞シナリオより)
俺はただ,安らかな日々を過ごしたかった…。
いつまでも,思い出は安らかな場所であり続けて欲しかった…。
思い出は,誰にとっても安心できる場所だったから…。
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
ところで,「ONE〜輝く季節へ〜」において,ここで"思い出"という言葉から連想された"永遠"という概念*59には,"不変"や"停滞","過去"や"非日常"という程度の意味合いが込められているが,とにかく否定・脱却すべき対象として位置付けられている。
(滅びに向かって進んでいるのに…?)
いや,だからこそなんだよ。
それを,知っていたからぼくはこんなにも悲しいんだよ。
滅びに向かうからこそ,すべてはかけがえのない瞬間だってことを。
こんな永遠なんて,もういらなかった。
だからこそ,あのときぼくは絆を求めたはずだったんだ。
(「ONE〜輝く季節へ〜」永遠の世界Ⅷより)
不変で非日常的な過去への「永遠」*60よりも,有限で日常的な未来への「流転」を選ぼう。そこでは,全てが失われていくし*61,楽しいこと*62も悲しいこと*63もあるけれど,かけがえのない*64,人と人との絆*65は確かにあるのだから―*66。「ONE〜輝く季節へ〜」におけるジュブナイル的な主題は,この通り"永遠否定"*67というフレーズに要約することができる*68。そして,「ONE〜輝く季節へ〜」では"永遠否定"を果たすための"絆"を恋愛に求めることにし,6人のヒロインとのラブストーリーを描こうとした*69。
これに対して,本作「Kanon」が取り組んだジュブナイル的な主題は,"永遠否定"を前提にした"過酷な現実の受容"である*70。そして,前作の"永遠否定"から本作の"過酷な現実の受容"への応用を表すための工夫として,主題(大テーマ)をさらに三つの中テーマに分解し,それぞれについてヒロインごとのシナリオで掘り下げて描写している点に特色が見受けられるといえよう。また,"過酷な現実の受容"を果たすために"絆"を求めるという点は前作と同様である。ただし,「Kanon」で持ち上げられる"絆"は恋愛には限られない。むしろ,"家族愛"への傾斜が見受けられる(これをあえて,中テーマのひとつ"絆"の内容に関する小テーマと呼ぶことにする)。
"ONE〜輝く季節へ〜" | "Kanon" | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
大テーマ | ||||||||||
永遠否定 | 過酷な現実の受容 | |||||||||
中テーマ | ||||||||||
澪 | 茜 | み さ き |
瑞 佳 |
留 美 |
繭 | Bond(絆) | 佐 祐 理 *71 | 名雪*72 | ||
Time Limit(限りある日常) | 真琴*73 | 栞*74 | ||||||||
Break Eternity(永遠破壊) | 舞*75 | あゆ | ||||||||
小テーマ (Bond-絆-の各論) |
||||||||||
恋愛 | 恋愛+家族愛 | |||||||||
シナリオ(敬称略) | ||||||||||
久弥直樹 | 麻枝准 | 麻枝准 | 久弥直樹 |
…月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成…
いきなりクライマックスになってしまうが(本当に申し訳ない),シナリオ本文から引用してみよう。
【あゆ】「…ボクのこと…」
【あゆ】「…ボクのこと,忘れてください…」*85
【あゆ】「ボクなんて,最初からいなかったんだって…」
【あゆ】「そう…思ってください…」
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
このシナリオにおける受容すべき"過酷な現実"とは,主人公の相沢祐一が7年前のあゆの事故という過去を直視する(思い出す)ことであるとともに,「ここにいたらいけない」*86存在だった“あゆ”が自らの消失を受け入れる(思い出す)ことに他ならない*87。
問題はその受容のあり方である。「大切な人を目の前で失った,悲しい思い出」を祐一に残したくない*88と考えた“あゆ”の「最後のお願い」は,自分という存在を最初からいなかったことにするというものだった*89。この"過ぎ去るものと初めからないものは等しい"という価値観は,ニヒリズム(虚無主義)的*90なものであり,「ONE〜輝く季節へ〜」でぶち上げられた「永遠の世界」のガジェットの再来に他ならない*91。
【祐一】「本当に…それでいいのか?」
【祐一】「本当にあゆの願いは俺に忘れてもらうことなのか?」
(中略)
【祐一】「お前は,ひとりぼっちなんかじゃないんだ」*92
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
しかし,祐一は,この「最後のお願い」をそのまま叶えようとはしなかった*93。ここで祐一は,“あゆ”という少女が生きた記憶を忘れず,大切な人を失う悲しさをあえて受け容れ,それでもなお“あゆ”の存在した意味を肯定する*94。なぜなら,全てが失われていくし*95,悲しいこともあるけれど*96,“あゆ”と祐一との思い出には,かけがえのない絆が確かにあったのだから*97 *98。
【あゆ】「…祐一君…」
【あゆ】「…ボク…」
(中略)
【あゆ】「ボク,ホントは…」
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
祐一の返事は,彼女の「ボクなんて,最初からいなかったんだ」という"永遠"願望を破壊するものだった(Break Eternity-永遠破壊-)。その結果,“あゆ”も,自身の不可避な消失という"過酷な現実"を,ニヒリズムに陥ることなく,"過ぎ去るもの"を肯定的に捉える"永遠否定"によって,受容することができたのである。
こうしてみると,“あゆ”の消失に伴う二人の別れは,確かに"過酷な現実の受容"ではあるけれど,悲劇的な挫折として描写されているわけでは決してない*99。なぜならば,二人にとっての悲劇的な別離*100と挫折は,既に7年前に起きていた過去の出来事のほうなのである。7年後の“あゆ”の消失に伴う別れの再現は,“あゆ”と祐一の二人が,7年前に起きた悲しい出来事を直視する*101とともに,その「悲しい現実を心の奥に押し込めて,安らいでいることのできる幻を受け入れ」る*102逃避*103を否定し,その過去をあるがまま,取り返しのつかない"過ぎ去ってしまう"*104ものとしてシリアスに受容するという,二人にとってのジュブナイル完結が含意されている。
"現実世界" | "夢の世界" | |||
---|---|---|---|---|
祐一のジュブナイル | シナリオ中の出来事 | あゆのジュブナイル | “あゆ” | あゆ |
過酷な現実 | 7年前のあゆの事故 | 過酷な現実 | 昏睡 | |
「…約束,だよ」 | 誰 か を 待 っ て い る 夢 *105 |
|||
現実逃避 (ニヒリズム) | 安らいでいることのできる幻*106 | |||
空白の7年間 | ||||
祐一の帰還*107 | 出現← | |||
“あゆ”と祐一の再会 | 再 会 の 思 い 出 *108 |
|||
過酷な現実との対峙 | 巨大な切り株 | 過酷な現実との対峙 | ||
過酷な現実の受容 | 天使の人形 | |||
「…ボクのこと,忘れてください…」 | ニヒリズム | |||
永遠否定 | 「ひとりぼっちなんかじゃないんだ」 | |||
「ボク,ホントは…」 | 永遠否定 | |||
「…よかった」 | 過酷な現実の受容 | |||
“あゆ”の消失 | 帰還→ | |||
ゆっくりと,夜が白み始めていた。 | 目覚め | |||
とまっていた思い出が,ゆっくりと流れ始める…*109 たったひとつの奇跡のかけらを抱きしめながら… | ||||
―雪が溶ける頃,冬の日の物語もまた,思い出に還る*114―
(「Kanon」パッケージ裏より)
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*3:「MOON.」(Tactics,1997年)を含めて五部作と見る向きもある。なお,「planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜」(Key,2004年)は実験作的な意味合いが大きく,「智代アフター〜It's a Wonderful Life〜」(Key,2005年)は一応「CLANNAD」の外伝なので,ここでは割愛しておく。
*4:拙稿「競馬サブカルチャー論・第08回:馬と『同級生』〜18禁ゲームの始祖鳥/馬は”お嬢さま”と”ポニーテール”萌えを導いた〜」(2004年,d:id:milkyhorse:20041219:1103443200),拙稿「競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』〜Key的ジュブナイル主題の集大成/人生が競馬の比喩だった〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060406:p1)を参照されたい。
*5:「初心者のための現代ギャルゲー・エロゲー講座 第2集 ビジュアルノベルの完成」(http://www.kyo-kan.net/column/eroge/eroge2.html)も参照。
*6:拙稿「競馬サブカルチャー論・第16回:馬と『Fate/stay night』〜「燃え」によるビジュアルノベルの復興/英雄的"馬"表現の金字塔〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060417:p1)において,ビジュアルノベル史を前史・黎明期・発展期・繁栄期・停滞期・復興期に沿って概観しているので,参照されたい。また,「河原崎家の一族」については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第09回:馬と『河原崎家の一族 2』〜マルチエンディングシナリオの極北/滅びは馬によって預言されていた〜」(2004年,d:id:milkyhorse:20041224:1103821200)も参照されたい。このほか,相沢恵「永遠の少女システム解剖序論」(2000年,http://www.tinami.com/x/review/02/page1.html),「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也&原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/),「「同級生」から「To Heart」までにおける恋愛ゲームの変遷」(2001年,http://web.archive.org/web/20041030195950/http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe10.htm)を参照。
*7:拙稿「競馬サブカルチャー論・第16回:馬と『Fate/stay night』〜「燃え」によるビジュアルノベルの復興/英雄的"馬"表現の金字塔〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060417:p1)において,ビジュアルノベル史を前史・黎明期・発展期・繁栄期・停滞期・復興期に沿って概観しているので,参照されたい。
*8:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-3)を参照されたい。
*9:1992年以降について解析した論考として,「美少女ゲームのパラダイムは4年で交代する〔仮説〕」(2006年,d:id:genesis:20060406:p1)を参照されたい。
*10:"感動系(泣きゲー)"というジャンルに即していうならば,ほのぼのとした恋愛パートでプレイヤーを感情移入させ,終盤の劇的な別れと再会で感動させる,と言い換えても構わない。
*11:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1)を参照されたい。
*12:夜ノ杜零司「臨界点ゲーム15 Kanon」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点+1』100頁)より。
*13:実質としてのビジュアルノベル。この下位概念として,テキスト表示形式に応じて,形式としてのビジュアルノベル(全画面)とADV=アドベンチャーゲーム(画面下部限定)の二つに分かれる。「Kanon」は実質としてのビジュアルノベルであり,ADVでもある。
*14:雪駄「雑記帳」(2000年,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d0002-2.HTM#2.3)より。
*15:拙稿「競馬サブカルチャー論・第17回:馬と『涼宮ハルヒの憂鬱』〜馬に仮託されたハルヒの”憂鬱”と有希の”消失”〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060703:p1)も参照されたい。
*16:ここでいう"文芸"とは"原語を媒介とする表現"という程度であり,特権的な深い意味はない。
*17:手段。
*18:目的。
*19:Wikipedia「ファンタジー」の項も参照されたい。
*20:火塚たつや「永遠の世界の向こうに見えるもの」総論(2001年,http://tatuya.niu.ne.jp/review/one/eien/outline.html),火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」総論(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(2).html)を参照されたい。「『「Kanon』という物語のテーマ,もしくはメッセージを探っていくためには,この物語をファンタジーとして受け取り,そのディテールを分析して見たところで,その甘さが砂糖によるものか,合成甘味料なのか,ということがわかるだけで,大した意味はない」という源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)における指摘も同旨と思われる。
*21:この様式は,前作「ONE〜輝く季節へ〜」(Tactics,1998年)からの踏襲でもあるということは,系譜論的にも支持しやすい。拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-2)を参照されたい。
*22:例えば,サロニア私立図書館「Miracles do not come true. You only realize miracles by yourself.」(2003年,http://april1st.niu.ne.jp/column/Kanon.html)は「ファンタジー的な世界観を取り除いた後に残るのは,我々が生活するごく普通の日常世界と全く変わらない『現実の』世界である」と説くが,文芸様式としてのファンタジーを採る立場からは,ファンタジー的な世界観が取り除けるというのはあり得ないことなのである。
*23:記憶障害や精神疾患を読み取ろうとした例として,しろはた「アフター・エヴァの一つの極北"Kanon"」(1999年8月,http://www.ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/kanon.htm),琥珀色の南風「『Kanon』考察」(2002年1月,http://www1.ttcn.ne.jp/~NIGIHAYAMI/kanon.htm)。
*24:本作のメインヒロイン。
*25:他方で,相沢祐一をはじめとする他の登場人物は"現実世界"の次元の住人である
*26:フロイト心理学における"エス""自我""超自我"のうち"エス"に相当する部分だそうです。
*27:【祐一】(…あ) 不意に,夢の断片が甦る。【祐一】(…こいつが出てたような気がする) 寒そうに手を合わせている少女を改めて見つめる。【あゆ】「…ど,どうしたの?」【祐一】「変な夢を見た」【あゆ】「夢?」【祐一】「いや,別にたいしたことじゃないけどな」【あゆ】「…ボクも見たよ,夢」 不思議そうに,暗闇の中から俺の方を見つめなおす。【あゆ】「昔の夢だったような気がする…」【祐一】「昔って?」【あゆ】「よく分からない…」(月宮あゆシナリオ)/祐一の無意識下の想念とあゆの夢の想念が交感していることを示唆する一例。
*28:「気が付くと,商店街にいた」,久弥直樹「Kanon プレビューSS 月宮あゆ」(1999年,アスペクト『E-LOGIN』1999年5月号付録)より。
*29:こう考えないと,“あゆ"が赤いカチューシャをしている理由が整合的にならない。/「そうだっ! 今度祐一君に会うときは,これつけて行くね」「ああ,約束だぞ」「うんっ,約束」(月宮あゆシナリオ)
*30:「…約束,だよ」
*31:フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_index.html)のうち,第1部と第2部(第1章から第4章まで)による。この論考は,比較的シナリオの文面から着想された丹念な分析が施されており,ファンタジーとジュブナイルを折衷する穏当な見解として,参考すべきところが多い。
*32:夢オチではない。念のため。
*33:本作のヒロインの一人。
*34:本作のヒロインの一人。
*35:本作の企画兼メインライター,久弥直樹氏による書き下ろし部分。
*37:本作のヒロインの一人。
*38:フジイトモヒコ「『舞』〜タナトスの牢獄〜」(1999年10月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/mai_tana_index.html)による。
*39:本作のヒロインの一人
*40:動物報恩譚。日本人にとっては,自明過ぎて論証を待つまでもなく許容できてしまうという意味において,まさに"文芸様式としてのファンタジー"の典型といえよう。Jun Yokoyama「Kanon ファーストインプレッション」(1999年6月,http://web.archive.org/web/20010111200500/http://www.imasy.or.jp/~nysalor/kanon.html),火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」各論8.「日本人」のファンタジー:真琴シナリオ(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(8).html),フジイトモヒコ「Last examinations」第4回 §3,MAKOTO〜Time Limit,2〜(2000年9月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_index.html)も同旨。
*41:「風」というキーワードは本稿では初出になるが,この呼称は制作者意思に沿うものである。「今回は…風がキーになっているので。風が生まれて,それが最後に辿り着く場所が…エンドだって感じにしてるんですよ」,麻枝准氏発言「Key Staff Interview 1 麻枝准」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。川澄舞シナリオならば「あの日の麦畑が広がっている」,沢渡真琴シナリオならば「びゅうと風が吹きつけ,白いベールが…遠く空へと舞った。」という各クライマックスを想起されたい。そういえば,本作のED曲のタイトルも「風の辿り着く場所」だ。
*42:どのシナリオでも前半部に"あゆの見ている夢"が挿入されているし,また,そういう余地を残しておくことが制作者意図にも沿う。久弥氏は,川澄舞・沢渡真琴両シナリオにも,あゆの想念による"夢の世界"が及んでいて構わない,と示唆している。久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。
*43:久弥直樹氏の担当による月宮あゆ,水瀬名雪,美坂栞の各シナリオ。
*45:水瀬名雪の"幼さ"は,幼馴染である相沢祐一との関係性のみにおいて見受けられる現象なので,ここでは数えない。
*46:To Heart」を例にしたその深淵については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-1-2)を参照されたい。
*47:例えば,「ヒロインの精神年齢が幼すぎる(小学校低学年程度)ため,プレイヤーに子供を見る時の,あるいは動物を見るときのような相手に対する感情をを抱かせる。それが設定上はヒロインが恋愛対象となりうる程度の年齢であるため,それを所謂萌え要素と錯覚させているフシがある」という指摘。http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=187&uid=Aquarius より。また,「相手に信頼を置く度合いが高いなら頭を触られても何の抵抗も出なくなる訳ですが,この主人公 始めの方から頭に手を置き過ぎてます」という指摘。http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=187&uid=torii より。後者については,「To Heart」のマルチ以来の伝統芸能としか言いようがないのでは(え)。
*48:例えば,サロニア私立図書館「Miracles do not come true. You only realize miracles by yourself.」(2003年,http://april1st.niu.ne.jp/column/Kanon.html)。
*49:何度も繰り返しているような印象が強いが,実は2回。しかも,後に“あゆ"はたい焼き屋のおじさんのところまで謝りに行き,代金も支払い,許してもらっているのだが…。
*50:繰り返しになるが,これは嗜好の問題に過ぎず,優劣を決すべき問題ではない。
*51:"泣きゲー"における演繹的なキャラクター設定については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-3-2)を参照されたい。
*52:しかも真琴以外は後に解消されることになる。
*53:こぼれ話としていえば,ヒロインの性格にいわゆる"電波"が混ざるのは,ビジュアルノベルの開祖「雫」(Leaf,1996年)―「長瀬ちゃん。…電波,届いた?」―以来の伝統芸能みたいなものである(え)。
*54:発売前のキャッチコピーに由来している。ちなみに,商業的には,前作「ONE〜輝く季節へ〜」を作ったスタッフはここにいるよ,と思い出してもらうための言葉でもあったらしい。「以前からボクらの仕事を好きでいてくれたファンに対して,メッセージを発信しようって決めていたんです。『あ,あの連中がまた何かやったぞ』って」,麻枝准氏発言「Key Staff Interview 1 麻枝准」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。
*55:ここからも,「ONE〜輝く季節へ〜」から「Kanon」への連続性を見出すことができるだろう。
*56:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1)を参照されたい。
*57:ただし,美坂栞シナリオを除く。なお,Key系諸作品における「夢」のガジェットの用法については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-4-2)を参照されたい。
*58:「成長物語」という程度の意味で構わない。
*59:「永遠の世界」というガジェット自体については,拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-2)を参照されたい。
*60:停滞。
*61:「(滅びに向かって進んでいるのに…?)」(「ONE〜輝く季節へ〜」永遠の世界Ⅷ)
*62:「とても幸せだった… それが日常であることをぼくは,ときどき忘れてしまうほどだった。」(「ONE〜輝く季節へ〜」プロローグ)
*63:「すべては,失われてゆくものなんだ。そして失ったとき,こんなにも悲しい思いをする。それはまるで,悲しみに向かって生きているみたいだ。」(「ONE〜輝く季節へ〜」"みさお"のシーン)
*64:「滅びに向かうからこそ,すべてはかけがえのない瞬間だってことを。」(「ONE〜輝く季節へ〜」永遠の世界Ⅷ)
*65:この"絆"について,「ONE〜輝く季節へ〜」よりもさらに年代的に先行する「To Heart」(Leaf,1998年)にいわせると,"居心地の良い仲良し空間"―誰かといないとおもしろくない。なぜなら,人間はつくづく共感する生き物だから―ということになる。
*66:「だからこそ,あのときぼくは絆を求めたはずだったんだ。」(「ONE〜輝く季節へ〜」永遠の世界Ⅷ)
*67:フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)より。
*68:後のKeyブランド諸作品が散々試行錯誤を繰り返すことになる"過酷な現実との対峙,受容,克服"というジュブナイル的主題の出発点である。拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-4-2)を参照されたい。
*69:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-4-1)を参照されたい。
*70:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」第3部 Kanon(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_3.html),拙稿「競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』〜Key的ジュブナイル主題の集大成/人生が競馬の比喩だった〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060406:p1)も同旨。火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」総論2.『Kanon』の「主題」と「様式」(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(2).html)のいう「失恋による成長」もおそらく同旨。
*71:『「Kanon」というドラマの解答編的な意味合い」』―中テーマについては,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:佐祐理シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html),フジイトモヒコ「Last examinations」第6回 SAYURI〜Cure〜(2000年6月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_SAYURI.html)へ。
*72:『古い絆の継承と新しい絆の成立(初恋の再成就)』―中テーマについては,フジイトモヒコ「Last examinations」第2回 NAYUKI〜Bond〜(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_NAYUKI.html)へ。シリアスドラマを読み込む見解として,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:名雪シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)もある。
*73:『タイムリミットとニヒリズム』―中テーマについては,いずれも天野美汐の登場に注目するフジイトモヒコ「Last examinations」第4回 MAKOTO〜Time Limit,2(2000年5月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_MAKOTO.html),源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:真琴シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)へ。ちなみに,火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」8.「日本人」のファンタジー:真琴シナリオ(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(8).html)は天野美汐に注目していない。
*74:『タイムリミットとニヒリズム』―中テーマについては,いずれも美坂姉妹の関係に注目するフジイトモヒコ「Last examinations」第3回 SHIORI〜Time Limit,1(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_SHIORI.html),源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:栞シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)へ。
*75:『子供時代との決別』―中テーマについては,フジイトモヒコ「Last examinations」第5回 MAI〜Break Eternity,1〜(2000年6月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_MAI.html),源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:舞シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)へ。あらすじについては,フジイトモヒコ「『舞』〜タナトスの牢獄〜」(1999年10月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/mai_tana_index.html)へ。舞と祐一の過去共有に潜むノイズについて,then-d「自己の物語化及び物語の交錯論」4.Kanon 舞シナリオを中心に(2002年7月,http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe9.htm#chapter4)による指摘も重要。
*76:本図は,フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)所収の図を参考に,本稿執筆者が修正したものである。
*77:タイトル由来について,Keyの公式見解は,あくまでも語感重視であって,意味内容を明らかにしていないらしい。本稿で採り上げなかった以外の解釈としては,宗教的・文学的には"正典"という意味があるので,同一スタッフによる「MOON.」「ONE〜輝く季節へ〜」の正当な後継作であるという宣言を含意しているという見解があり得る。また,美術的には"理想的比率"という意味があるらしい。
*78:Wikipedia「対位法」「カノン(音楽)」「フーガ」の各項も参照されたい。
*79:雪駄「「Kanon」における五つの旋律の構成表 ver.0」(1999年11月,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d9911-1.HTM#11.3)より。フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」第3部 Kanon(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_3.html)はさらに詳細な検討を試み,音楽的対位法の用例に厳格に従うならば本作の様式は"kanon"ではなく"fuga"だと結論付け,J.S.バッハ作曲「フーガ ト短調」BWV578(小フーガ ト短調)を想起している。
*80:それはそうと,音楽的対位法の用例に厳格に従わないとするならば,ヨハン・パッヘルベル作曲「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」第1曲(パッヘルベルのカノン)を想起するのもよいだろう。なぜならば,この曲はJRA日本中央競馬会の1998年度TV-CMで用いられたほか,ラジオ番組「Kanon 〜The snow talks memories〜 雪降る街の物語」(JOQR,2000年10-12月,田村ゆかり・川上とも子)のED曲でもあったからである。また,"楽譜には単旋律が記され,そこに追唱の開始点や音高などを示した記号がつけられ,演奏者がその記号に従って追唱を補い,曲を完成させることになる記譜法"を"謎カノン"と呼ぶとのことであり,これも示唆に富んでいる。
*82:「この技法は絵の具をパレットで混ぜず,単独色をキャンパスに点々と描く。近くで見るとそれらは独立した色の点だが,少し距離を置いてみると,協調しあって,一つの形と色調を作り出す。その色調は,パレットの上で合成したのでは得られない鮮烈さを持っている。」,フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)より。
*83:本図は,フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)所収の図を参考に,本稿執筆者が修正したものである。
*84:申し訳ないが,本稿執筆者の知力と体力と気力の限界を超えてしまった。
*85:Kカスタネダ「人の願いと人への願い」(2002年,http://homepage3.nifty.com/taji21/kanon/hitononegai.htm)。それから,ワタナベさん「ろじっくぱらだいす 遊戯 Kanonゲームレビュー」(1999年,http://logipara.com/game/kanon1.html)。
*86:【あゆ】「…ボク…ここにいたらいけないの…?」【あゆ】「…いたら…いけない人間なの…?」(月宮あゆシナリオ)
*87:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*88:【あゆ】「大切な人を失う悲しみ…」【あゆ】「ボクは知ってるから…」【あゆ】「だから,ボクはもう…」(月宮あゆシナリオ)
*89:ちなみに,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)はこのセリフの段階で「7年前の出来事も,この冬の再会も,そしてこの別れもそれが,どんなに過酷なものであろうと,すべて現実の出来事として受け止めて前向きに生きてください」と読み取ろうとするが,これは早すぎる。
*90:Wikipedia「ニヒリズム」の項も参照されたい。
*91:「ONE〜輝く季節へ〜」において,折原浩平が周囲から忘れ去られ,「永遠の世界」へと消え去る理由について,「『永遠』を求めた彼は,当然の代償として「初めからなかったこと」になる。なぜなら,『流転』より『永遠』を選んだ彼は,同時に「過ぎ去ること」の意味の否定,すなわち「初めからないことと過ぎ去ることは等しい」という価値を選んでしまったのだから」と説いた見解として,フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html)。
*92:この「ひとりぼっち」というフレーズは,実は「奇跡」や「約束」「思い出」に負けず劣らず,本作において象徴的な用いられ方をされている言葉といえよう。
*93:このセリフの段階では,実は,祐一による"過酷な現実の受容"の方がわずかに先行している。/【祐一】「本当に,これでお別れなのか…」【あゆ】「…うん」【祐一】「ずっと,この街にいることはできないのか?」【あゆ】「…うん」【祐一】「そうか…」(月宮あゆシナリオ)
*94:フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」第2部 AYU(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_2.html)より。
*95:【あゆ】「きっと,当たり前のことが当たり前ではなくなるからだよ」【あゆ】「今までは,すぐ目の前にいて…」【あゆ】「一緒に話して,一緒に遊んで…」【あゆ】「そんな,何も特別ではなかったことが,特別なことになってしまうから…」(月宮あゆシナリオ)
*96:【あゆ】「他愛ない幸せがすぐ目の前にあった時のことを,ふと思い出してしまうから…」【あゆ】「だから,悲しいんだよ」(月宮あゆシナリオ)
*97:【あゆ】「こうして祐一君と一緒にいられることが,ボクにとってはかけがえのない瞬間なんだよ」(月宮あゆシナリオ)
*98:このセリフの段階で,祐一は"過酷な現実の受容"による"永遠否定"を“あゆ”に先行して遂げたことになるだろう。
*99:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*100:7年前のあゆの事故では,死の演出は施されていたが,あゆが死んだとは断定されていない。ここでの描写は,初恋の人が死に瀕しているという動揺して当然な状況における祐一の主観に過ぎない。これを評して,少なくともあゆの生死ぐらいは確かめられたものを,生きているのに,死んでいると勘違いする祐一はあまりにふがいない,と見る向きがある。火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」4.あゆが「帰還」した意味:あゆシナリオ:あゆシナリオ否定派を分析する(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(4).html)より。当時9〜10歳の小学生にそこまで要求するのは酷に過ぎると思われるが,ゲーム発売当時は,このような感情的反発が一部であったらしい。
*101:思い出に「返る」
*102:思い出に「帰る」
*103:「そんな,悲しい幻…。だけど,その時の俺は,現実より幻を選んだ。悲しい現実を心の奥に押し込めて,安らいでいることのできる幻を受け入れた。弱い心が潰れないように…。思い出を,傷つけないために…。」(月宮あゆシナリオ)
*104:思い出に「還る」
*105:フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_index.html)へ。
*106:「そんな,悲しい幻…。だけど,その時の俺は,現実より幻を選んだ。悲しい現実を心の奥に押し込めて,安らいでいることのできる幻を受け入れた。弱い心が潰れないように…。思い出を,傷つけないために…。」(月宮あゆシナリオ)
*108:祐一を待ち続ける夢を見ていたあゆから“あゆ”が抜け出し,彼女が祐一と再会した思い出を持ち帰ったからこそ,あゆに目覚めの契機が訪れるという側面がある。
*109:このラストシーンを前作「ONE〜輝く季節へ〜」の久弥直樹氏担当箇所に置き換えると,「すぐ側に大切な人がいる。だからその人と歩んでいく。今までの思い出は少しだけ…。だけど,これからたくさん増えていく…。限りのある時間を精一杯使って…。」という川名みさきシナリオ・エピローグがズバリ当てはまる。また,「ONE〜輝く季節へ〜」の麻枝准氏担当箇所に置き換えるならば,「一年分の,思い出いっぱい。ひとりでがんばった思い出いっぱい。いろんなひとにありがとう。そしてさようなら。」という椎名繭シナリオ・エピローグということになる。
*110:本図は,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html),フジイトモヒコ「Last examinations」第1回 ONE前提考察(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_pre_e.html),フジイトモヒコ「Last examinations」第7回 AYU〜Break Eternity,2〜(2000年8月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_AYU.html),フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_index.html)から着想を得たものである。
*111:本稿の立場とは異なり,「Kanon」のジュブナイルとファンタジーとの間にはねじれ構造があると解釈する論考として,火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」3.『Kanon』の「構造」(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(3).html),火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」4.あゆが「帰還」した意味:あゆシナリオ(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(4).html)。
*112:「俺はただ,安らかな日々を過ごしたかった…。」「あゆの笑顔を見ていると,こんな一瞬が永遠に続くといいなと,心から思う。そして,それは,叶えられない願いではないと… 今の俺は,信じて疑わなかった…。」(月宮あゆシナリオ)
*113:ドラマCDの「ONE〜輝く季節へ〜 (1) 長森瑞佳ストーリー あなたのこころをわたしのなかへ」(1999年,ムービック)について,雪駄「ONEドラマCD長森編の永遠」(2000年,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d0002-1.HTM#2a)が同旨。本稿はその「Kanon」への当てはめである。
*114:「今日という日もまた,思い出の中に還っていく…」(月宮あゆシナリオ)/「何気ないやり取りのひとつひとつが,栞の言う通り大切な思い出に還っていく…」「この瞬間も,やがて思い出に還る…」(美坂栞シナリオ)
競馬サブカルチャー論・第20回:馬と『Kanon』その2〜それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな“奇跡”の物語〜
競馬サブカルチャー論とは
この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで,歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し,数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と,その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
―馬は,常に人間の傍らに在る。
その存在は,競馬の中核的な構成要素に留まらず,漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では,サブカルチャーの諸場面において,決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
※本稿には,PCゲーム版の内容に関する強烈なネタバレが含まれています。本文に施されている注釈は,熟読したい人向けです。なお,ゲーム版を"水瀬名雪"→"沢渡真琴"→"川澄舞"→"月宮あゆ"→"美坂栞"*1の順でクリアした後の読者を想定しています(え)。
1.Visual Art's/Key 『Kanon』より
2."ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon」
1) 文芸様式としてのファンタジー
1:「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所"
1) ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論
2:「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語
1) 月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成
3.「Kanon」における"奇跡"のガジェット〜小さな"奇跡"の物語
1:"奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか
2:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(1)〜あり得ないはずの状態
3:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(2)〜超常的な救済
1) 水瀬名雪シナリオの場合
2) 月宮あゆシナリオの場合
4:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(3)〜日常の中にある非日常的な状態
1) 久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較
5:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(4)〜日常的な,奇跡のように思える偶然
1) 世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい
2) あらゆる物語可能性に想いを馳せる
6:あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない?
1) "同一世界解釈/確定的過去共有"とは
2) "多世界解釈/遡及的過去形成"とは
3) マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路
4) 「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来
7:それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな"奇跡"の物語
1) 7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?
4.馬と「Kanon」(←ここから読んでも無問題)
5.主な先行文献の相関関係
「Kanon」における"奇跡"というガジェット〜小さな"奇跡"の物語
「Kanon」は,"小さな奇跡の物語"と呼称されることがある*2。前作「ONE〜輝く季節へ〜」におけるファンタジー要素が"永遠の世界"のガジェットに見出されるとするならば*3,本作の「Kanon」におけるファンタジー要素は,このいわゆる"奇跡"という一言に集約されがちな側面がある。確かに,本作では劇伴やテキストによる演出が,"奇跡"という名のガジェットに向けて強く働きかけられていることは間違いない。
そして,この"奇跡"というガジェットの存在が,「Kanon」という物語の評価を賛否両論真っ二つに分けることになった。批判的な立場から言わせれば,こういうことになるらしい。すなわち,交通事故に遭った秋子さんは回復し(水瀬名雪シナリオ),重病だった栞は治癒し(美坂栞シナリオ),消滅したはずのあゆは目覚め(月宮あゆシナリオ),切腹した舞は蘇生し(川澄舞シナリオ),死んだ真琴は復活する(沢渡真琴シナリオ)。悲劇として終わろうとするドラマが,劇的にハッピーエンドへと変化する。その一番丁寧に描くべきはずの転換点を,納得のゆく整合性を見せることなく,ただ"奇跡"という言葉を持ち出して説明放棄してしまった。これが安易な御都合主義でなくて何だというのか―,と。*4
上記の見解では,"奇跡"という言葉が"超常的な救済"という一義的な意味であることが所与の前提になっている。
「あんたたちの会話を聞いてると,奇跡が安っぽいものに思えてくるわ…」
(「Kanon」美坂栞シナリオより)
ところで,そもそも「Kanon」における"奇跡"とは,いったい何だろう? 本章では,本作が久弥直樹氏と麻枝准氏による共同脚本であることに着目し,その分析を試みることにしたい*5。
― "奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか ―
美坂栞シナリオのエピローグには,病から回復できた栞が自分の想像だと前置きした上で,次のように語る場面がある。
【栞】「例えば,ですよ…」
【栞】「例えば…今,自分が誰かの夢の中にいるって,考えたことはないですか?」
【祐一】「何だ,それ?」
【栞】「ですから,たとえ話ですよ」
(「Kanon」美坂栞シナリオ・エピローグより)
これは,本稿でも採り上げた,"夢の世界"と"現実世界"という二つの次元の重なった街―というファンタジー的世界観をほのめかす台詞である。そして,この後には,次のような台詞が続く。
【栞】「私の,私たちの夢を見ている誰かは,たったひとつだけ,どんな願い事でも叶えることができるんです」
【栞】「もちろん,夢の中だけですけど」
(中略)
【栞】「たったひとつの願い事は,永い永い時間を待ち続けたその子に与えられた,プレゼントみたいなものなんです」
【栞】「だから,どんな願いでも叶えることができた…」
【栞】「本当に,どんな願いでも…」
【栞】「例えば…」
【栞】「ひとりの重い病気の女の子を,助けることも」
【栞】「たったひとつだけの願いで」
【祐一】「……」
(「Kanon」美坂栞シナリオ・エピローグより)
しかも,この直後,ご丁寧にも,
【祐一】「…そういえば,最近あいつの姿見ないな」
ダッフルコートに手袋姿で,いつも元気いっぱいに走り回って…。
【栞】「あゆさん,ですか?」
【祐一】「ああ」
子供っぽくて,そして,無邪気で…。
【祐一】「最後にあゆと会ったのは,いつだったかな…」
確かまだこの街が真っ白な雪に覆われていた頃…
落ちる粉雪の中で…。
最後の言葉は何だっただろう…。*6
(「Kanon」美坂栞シナリオ・エピローグより)
と,月宮あゆのことをプレイヤーに想起させてから,ようやく栞のたとえ話は締め括られる。
こうして美坂栞シナリオを読み終えたプレイヤーは,月宮あゆシナリオ・エピローグ最後の一文「たったひとつの奇跡のかけらを抱きしめながら…」と合わせ読むことによって,「Kanon」の世界観の中では,あゆの想念が生み出した"夢の世界"の次元で,たったひとつだけ願いが叶う―いわゆる"月宮あゆの力による超常的な救済"としての"奇跡"がもたらされているのだ,と想像を逞しくするわけである。ああ,あの「終わりのない夢」を見ていたのはあゆだったんだな,そういえば「願いを叶えてくれる」"天使の人形"があったな,確かに「ボクの,願いは…」と言い残しているな,と。
とするならば,"奇跡"にはきちんと伏線が張られていたことになる。しかも,その"奇跡"が発動する仕組みは,"夢の世界"と"現実世界"という二つの次元の重なった街での出来事であるという*7,文芸様式としてのファンタジーの文脈に沿った説明がきちんと施されているのだから,むしろ洗練された様式美を見出すことすら,できそうなものである*8。
もっとも,この点については,たとえ"奇跡"が発動する仕組み自体がファンタジー的な世界観に沿って説明できるのだとしても,不可避的なはずの悲劇が強引にハッピーエンドで締め括られることに変わりない,という批判が依然として成り立つように思われる。例えば,「ジュブナイルの主題とファンタジーの様式との間に構造上のねじれがある」*9と評されることがあるのが,その一例といえよう。
しかし,「Kanon」の各シナリオにおいて"別離(あるいはその予兆)"として描かれている状況は,悲劇的なものではまったくなく,"過酷な現実を受容する"というジュブナイル的到達点を示しているに過ぎないということを看過すべきではない*10。本稿では月宮あゆシナリオにしか触れてこなかったが,例えば,「Kanon」のシナリオ全体を指して「奇跡は実はどうでもいいことなのだ」*11とか,「本質は奇跡を手段として語られる事柄にあり,奇跡自体を目的として考えることはほとんど無意味である」*12と評されることがあるのは,この趣旨からである。「Kanon」のシナリオ上では一貫して,悲劇は特別視されていないのである。
それ以前に,そもそも「Kanon」における"奇跡"という言葉の意味を,"超常的な救済"であると一義的に即決できるかすら,実はあやうい。なぜならば,「Kanon」における"奇跡"という言葉は,シナリオの文脈に応じて,極めて多義的な使い方をされているからである。以下,順を追って検討してみよう。
― あり得ないはずの状態としての"奇跡" ―
「Kanon」における"奇跡"という言葉は,登場人物の会話のなかで頻繁に登場する。特に,久弥直樹氏担当のシナリオ*13では,その傾向が顕著であり,もはや意図的に多用されているといってよい。しかも,"奇跡"について言及がなされる都度,その肯定と否定が繰り返され,意味の確定を決して許そうとしていない。
【栞】「そうですね…」
雪のように白い肌…。
【栞】「奇跡でも起きれば何とかなりますよ」
【祐一】「……」
【栞】「…でも」
穏やかに微笑みながら,自分の運命を悟り,そして受け入れた少女が言葉を続ける。
【栞】「起きないから,奇跡って言うんですよ」
(中略)
【祐一】「起きる可能性が少しでもあるから,だから,奇跡って言うんだ」
【栞】「…私には,無理です」
(「Kanon」美坂栞シナリオより)
これは,"あり得ないはずの状態"としての"奇跡"である。栞が雄弁に語る「奇跡はあり得ない」という字面通りの見解は,美坂栞シナリオの象徴ともいうべき台詞なのだが,にもかかわらず,祐一に言わせれば「あり得るから,奇跡なんだ」ということになる。しかも,栞はこれを再否定し,肯定と否定の循環が発生する。
また,別の日常会話の場面では,祐一自身が"あり得ないはずの状態"について言及することがある。
【名雪】「おはよう,祐一」
にこやかに挨拶をする名雪は,すでに制服に着替えていた。
【祐一】「…どうしたんだ?」
【名雪】「え? どうもしないけど…」
【祐一】「名雪がこの時間にちゃんと起きてるなんて,奇跡だ」
【名雪】「ひどいよ…祐一」
【名雪】「わたしだって,たまには早起きするよ」
【祐一】「1ヶ月に1回くらいだろ…」
【名雪】「だから,たまに,だよ」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
【名雪】「ついたよ」
【祐一】「名雪,時間は?」
【名雪】「えっと…わ,まだ10分もあるよ」
【祐一】「奇跡だな」
【名雪】「そうだね」
【香里】「あんたたちの会話を聞いてると,奇跡が安っぽいものに思えてくるわ…」
【祐一】「そうか? 俺たちがこれだけ余裕を持って登校できるなんて,まさに奇跡じゃないか」
【香里】「相沢君」
香里が俺の方を振り返ることなく続ける。
【香里】「奇跡ってね,そんな簡単に起こるものじゃないのよ」
【祐一】「…?」
【香里】「冗談よ,さ,行きましょうか」
【祐一】「…おーい」
(「Kanon」美坂栞シナリオより)
今度は,祐一がそれを"奇跡"と認めようとするのだが,名雪や香里が直後の台詞でそれを打ち消す。こうして,"あり得ないはずの状態"を"奇跡"だと一義的に確定することは,慎重に回避されているのである。
― 超常的な救済としての"奇跡" ―
…水瀬名雪シナリオの場合…
"超常的な救済"としての"奇跡"についても,このことは当てはまる。上記で採り上げた栞の「たとえ話」(美坂栞シナリオ・エピローグ)以外で,"超常的な救済"を意識した"奇跡"の文脈が登場する箇所は,下記の通りである。
【名雪】「…出ていって…」
【祐一】「秋子さんは,まだ助かる可能性だってあるんだ」
【名雪】「……」
【祐一】「いや,絶対に助かる」
【祐一】「あのマイペースな秋子さんが,こんなことでいなくなるわけないだろ」
【名雪】「…祐一,奇跡って起こせる…?」
【祐一】「……」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
水瀬名雪シナリオでは,結ばれた祐一と名雪の「絆」が試される状況として*14,あるいは,名雪が「過酷な現実を受容」するジュブナイルの状況として*15,秋子さんの交通事故が発生する。秋子さんとの死別(のおそれ)を直視できない名雪は,「…これで,わたしはひとりぼっちだね…」「わたし,強くなんてなれないよ…」「ずっと,お母さんと一緒だったんだから…」*16と心情を吐露し,秋子さんの回復という"奇跡"を願う。
ところが,ここで名雪が"奇跡"の担い手として言及するのは,そもそも祐一なのであって,あゆではない。しかも,祐一は"奇跡"を願う名雪に対して,「奇跡は起こせない」と語りかける。
「名雪…」
「俺には奇跡は起こせないけれど…」
「でも,名雪の側にいることだけはできる」
「約束する」
「名雪が,悲しい時には,俺がなぐさめてやる」
「楽しいときには,一緒に笑ってやる」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
「奇跡は起こせない」けれど,楽しいときに一緒に笑うように,悲しいときは一緒に「悲しい」と泣くことができる,と祐一は説くのである*17。「奇跡は起こせない」という現実は,悲しいことだけれど,それでもかけがえない。だから,悲しみを否定することはない。強くなることが,悲しみを否定することだというのならば,強くなれなくても,それはそれで構わない。
おはよう 目覚めは 眩しくて 悲しい
さよなら 許せない 僕たちの弱さが よかった
(「Kanon」OP『Last regrets』より)
こうして,二人は「悲しい」ことを「悲しい」と認め合うことによって,「ひとりぼっち」ではない自分達の"絆"を再確認することができ*18,名雪が「過酷な現実を受容」するというジュブナイルも達成される*19。名雪シナリオの物語は,駅前のベンチで待つ祐一の許に名雪が駆け付けて,二人が雪の中でキスを交わしたときに,事実上閉幕しているのだ*20。
【名雪】「きっと,悲しいことがあったんだよ」
【祐一】「…悲しいこと?」
俺の心を見透かしたような名雪の言葉に,思わず訊き返す。
(中略)
【祐一】「……」
【名雪】「がんばろうね」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
【名雪】「わたし,やっぱり強くはなれないよ…」
【名雪】「だから…」
(中略)
【祐一】「強くなくたって,いいんだ」
【名雪】「…うん」
【名雪】「俺が,名雪の支えになってやる」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
そして,上記の分析は,美少女ゲームのパラダイム*21に即した見地からも支持できるものである。そもそも,名雪シナリオの中テーマとして本稿が推している"Bond-絆-"とは,"三段階層式フォーマット"*22のうち"会話とエピソードの積み重ね"という第二階層を膨らませたものに当たる。この領域での先駆的作品として,「居心地の良い仲良し空間」*23という世界観を構築した「To Heart」(Leaf,1997年)を外すわけにはいかない。「To Heart」と本作の名雪シナリオを比較すると,「To Heart」が"絆"の価値を楽しさを共感すること*24に求めたのに対して,本作の名雪シナリオは"絆"のかけがえなさを"悲しみの共感"として描写しており,ここに"絆"を巡る両作品間のメタ的志向の共通性を見出すことができる。
このように,名雪シナリオにおいて,物語が閉じた後,エピローグで秋子さんが回復したとしても,それはもはや"救済"としての体を成していない。なぜならば,"絆"を確かめ合った名雪と祐一は,既に悲しみを受け容れており,"奇跡"を待ち望んでいるだけではないのだから。
さらに,名雪シナリオのエピローグは,「いくつもの奇跡」「たくさんの奇跡」について言及する。この言及の仕方は,精妙極まりないものであり,そもそも"奇跡"とは,栞がほのめかすように「たったひとつだけ」なのか,果たして"救済"としてもたらされているのか,あるいは本当に"超常的"なものといえるのか,すべて決定的な言質を取らせていない。
俺たちは今,いくつもの奇跡の上に立っていた。
名雪と,この街で再会できたこと…。
名雪のことを好きでいられたこと…。
そして…。
秋子さんの穏やかな微笑みも…。
名雪の暖かな笑顔も,奇跡…。
たくさんの奇跡と偶然の積み重ねの上で…。
(「Kanon」水瀬名雪シナリオ・エピローグより)
"超常的な救済"に違いないかと思われた"奇跡"の描写は,その実,たった数行の文章のせいで,その言葉の一義的な了解から滑り落ちてしまっているのである。
…月宮あゆシナリオの場合…
また,肝心の月宮あゆシナリオにおいて,"月宮あゆの力による超常的な救済"が発動したという描写は皆無であることを見過ごすわけにはいかない。
本当にどんなお願いでもいいの?ああ,もちろんだ本当にほんと?本当にほんとだ本当に本当にほんと?本当に本当にほんとだだったら…ボクの…お願いは…(「Kanon」月宮あゆシナリオ・エピローグより)
確かに,月宮あゆシナリオでは,「持ち主の願いを叶えてくれる,不思議な人形」が思わせぶりに紹介された後,月宮あゆが目覚めるエピローグに上記の場面が挿入されている。そのため,「もっと,祐一君と一緒にいたいよ…」という“あゆ”の本当の「最後のお願い」を目の当たりにし,
【祐一】「でも,まだ願いがひとつ残ってるだろ?」
【あゆ】「ボクは,ふたつ叶えてもらったから,充分だよ」
【あゆ】「残りのひとつは,未来の自分…」
【あゆ】「もしかしたら,他の誰かのために…送ってあげたいんだよ」
(中略)
【あゆ】「大丈夫。きっと,見つかるよ」
【あゆ】「この人形を必要とする人がいれば,必ず…」
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
という回想シーンを合わせ読んだプレイヤーは,水瀬名雪や美坂栞の各シナリオでは,「願いを叶えてくれる,不思議な人形」は「他の誰かのために」送られたのかもしれない,月宮あゆシナリオでは,祐一が見つけた"天使の人形"は「未来の自分」のために届けられたのだから,と想像を逞しくするうち,「ボク(月宮あゆ)」の「お願い」をたったひとつだけ叶える"超常的な救済"がもたらされているに違いない,と整合的な解釈を読み取ろうとする。
しかし,抱きしめられているのは,あくまでも"たったひとつの奇跡のかけら"なのである。これは本当に「たったひとつの奇跡」そのものを意味しているのだろうか?
【あゆ】「…誰が願いを叶えてくれるの?」
【祐一】「俺」
【あゆ】「あはは…そうなんだ」
【祐一】「だから,俺にできないことも叶えてやれないぞ」
【あゆ】「そうだよね…」
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
さらに,よくよく考えてみると,"天使の人形"で願いを叶えるのは祐一なのである。「叶えられるのは俺(=祐一)にできることだけ」だという言及は,月宮あゆシナリオだけで少なくとも4回にも及ぶ。しかも,上記で触れた月宮あゆシナリオのエピローグ場面にしても,本編で同じやり取りが回想されたとき,その直前にあった台詞はやはり「祐一君にできることだったら,どんな願いでも叶えてくれるんだよね…?」なのである。また,この直後に続いたあゆのお願いは「今日だけ,一緒の学校に通いたい…」なのであって,「もっと,祐一君と一緒にいたいよ…」という“あゆ”の本当の「最後のお願い」とは直接結び付かない。
そもそも,かつて祐一に"天使の人形"で二つの願い事*25を叶えたというささやかな実績があったとしても,それは"奇跡"とは無縁な日常的なシチュエーションに過ぎないし,蘇生,復活,治癒や回復といった救命的色彩を帯びた事象との間では,いかにも程度の飛躍が大きい。基本的に,"現実世界"の次元の住人に過ぎない祐一は,無力な存在なのである。
こうしてみると,"天使の人形"への三つ目のお願いが叶ったからあゆが目覚めた,という直接の描写は最後まで存在していない。結局のところ,"あゆの力によって誰かが超常的に救済される"という設定は,それ自体,月宮あゆシナリオにおいてすら,語られているようでいて,実は語られていないのである。
― 日常の中にある非日常的な状態としての"奇跡" ―
他方で,"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"が雄弁に語られることもある。これは,特に麻枝准氏担当のシナリオ*26において,顕著な傾向である。
【天野】「今,相沢さんは,束の間の奇跡の中にいるのですよ」
【祐一】「奇跡…」
確かにそれぐらいの言葉を持ち出してこないと,見合わないような状況だ。
【天野】「そして,その奇跡とは,一瞬の煌めきです」
(「Kanon」沢渡真琴シナリオより)
沢渡真琴シナリオや川澄舞シナリオでは,"奇跡"の非日常性はうまく言語化できない水準のものとして描写されている。これはどういうことかというと,妖狐が「記憶と,そして命」という「ふたつの犠牲」*27と引き換えに人間の姿になったり*28,『希望』という名の『力』を「魔物」として討とうとする少女が夜の校舎にいる*29という,いわば"風の辿り着く場所"のファンタジー的世界観そのものを指して,"奇跡"と呼び習わすわけである。
そう答えるも,胸の内では違うことを考えていた。
おまえは知らないのだろうけど,今俺はとんでもない現実に直面しているんだぞ。
おまえが少しでも相談に乗ってくれればいいのに。
けど,その前におまえは俺の気が確かか,疑ってしまうだろうな。
やっかいなことだ…と。
(「Kanon」沢渡真琴シナリオより)
ここでいう"非日常的な状態"とは,それまでの日常から区別は可能であっても,決して隔絶された世界ではなく,地続きのまま徹底してリアルな場面として描写されることになる。丁度,前作「ONE〜輝く季節へ〜」における"永遠の世界"がそうであったように*30,本作「Kanon」においても,例えば「前半はありがちなベタベタなことをやっていたのに,話が進むにつれて,真夜中の校舎で剣を振り回し,魔物と戦い,ヒロインの内面世界に引きずり込まれて,そして最後は,金色に輝く草原があらわれた」といったような,「どんどん予想だにしなかったイメージに到達してしまう」*31因果経過は,とんでもないけれど,やはり現実なのである。
すなわち,それがどれだけ途方もない可能性だとしても,その状態が起こり得るだけの論理も整合性も,世界にはとっくの昔から隠れ潜んでいる。しかし,決してその全容を知ることなどできない。それでも,実際に起こってしまい,しかも気付いてしまった以上は,その状態を"奇跡"として受け入れるしかないというのである*32。
べつに彼女に用があったわけじゃなかったが,どうしてだか俺は彼女と話がしてみたかった。
少なくともこんな夜の校舎で人,それも女の子と出会うなんて奇跡的だ。
それだけでも話すに充分の価値がある。
(「Kanon」川澄舞シナリオより)
さらに,このような"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"というプロットは,久弥直樹氏担当の"夢の世界"のファンタジー的世界観にも射程が及ぶ。つまり,あまりにもド派手過ぎて忘れがちになってしまうが,主人公の相沢祐一が街で再会することになる“あゆ”の存在自体が,「奇跡の上にあった」ことに他ならないのである。
あゆは,確かに存在していた。
たとえそれが,どんな奇跡の上にあったとしても,俺はこの街であゆと再会した。
(中略)
どれも,失ってみて初めて気づく,かけがえのない瞬間だった。
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
そして,この"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"という文脈の下では,一匹の小狐の餌付けをしたり*33,麦畑に迷い込んだり*34,初恋の少女と指切りをする*35といった,日常の中での些細な出来事を契機として,このような"非日常的な状態"が惹き起こされてしまったことに対する素朴な驚きが,"奇跡"という言葉に仮託されている。これは,前作「ONE〜輝く季節へ〜」において,"永遠の世界"の発生した理由が子供の頃の他愛ない口約束だったことを悟った折原浩平が,そんな小さなきっかけで,愛すべき日常が儚くも壊れてしまい,奇跡的な非日常が成立したという感慨を込めて「とても幸せだった…」と呟いた情景*36をなぞるものでもある。
今こうして過ごしている時間は,もしかするとあり得なかったかもしれない。そんな世界の不安定さと,他にあり得たかもしれない無限の分岐可能性について,「一体そこからどんな物語が発想できるだろう。何があのとき,始まっていたというのだろう」*37と思いを馳せるのである*38。少なくとも,麻枝准氏による"奇跡"の解釈では,そういうことになるのだ。
このような"日常の中にある非日常的な状態"として"奇跡"を捉える見解は,"奇跡"を専ら「Kanon」のファンタジー的世界観という様式に引き寄せて説明するものであり,これまで採り上げてきた他の見解(超常的な救済,あり得ないはずの状態)が"奇跡"を「Kanon」のジュブナイル的主題と対照させながら語ろうとしたことに比べると,ひときわ異彩を放つ解釈である*39。そして,このような"奇跡"の解釈の仕方は,特に作中における矛盾も見当たらないので,全シナリオに共通する最小限度の了解事項として成立するかのようにも思える。
あゆは,確かに存在していた。
たとえそれが,どんな奇跡の上にあったとしても,俺はこの街であゆと再会した。
(中略)
どれも,失ってみて初めて気づく,かけがえのない瞬間だった。
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
しかし,そもそも久弥直樹氏担当の月宮あゆシナリオにおける"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"への言及が,「たとえそれが,どんな奇跡の上にあったとしても」という仮定法による留保付きとなっていることを看過するわけにはいかない。つまり,むしろここでは,「たとえ」「どんな」「あったとしても」と何重にも巧妙にぼかされていて,"夢の世界"のファンタジー的世界観そのものが"奇跡"なのかどうかについても,やはり一義的な意味確定を回避していると読むべきなのである。少なくとも,久弥直樹氏による"奇跡"の解釈では,そういうことになるのだ。
…久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較…
こうしてみると,本作における"奇跡"という言辞を巡って,シナリオ担当の久弥直樹氏と麻枝准氏との間で用法の統一が施されているとは,到底いえない*40。もっとも,このような状況は,前作「ONE〜輝く季節へ〜」において既に先例のあったことである。
「ONE〜輝く季節へ〜」の場合,企画担当の麻枝准氏がプロットを組み立てた"永遠の世界"を巡って,麻枝氏が"永遠の世界"を日常に対する非日常,現実に対する非現実といった二項対立的なものではなく,それまでの日常から切り離されない,徹底して地続きのリアルな状況として描写しようとした*41のに対して,久弥氏はその精緻さを完全には理解せず,"永遠の世界"を現実世界と対立する外界的・異界的な何かとして捉えようとしていたふしがある*42。
それに対して,本作の「Kanon」では,企画担当の久弥直樹氏がプロットを組み立てた"奇跡"を巡って,久弥氏が何重の意味にも"奇跡"という語を多義的に引用しながら,決して一義的な確定を許そうとしなかったのに対して,麻枝氏はその"奇跡"の精妙さを理解し切れず,"日常の中にある非日常的な状態"としての"奇跡"を一義的かつ雄弁に物語ろうとした*43。
ここには,二人ともメタな方向性は共有しているのだけれど,ベクトルの向きが少しずつ違い,その微妙に異なった方向性が一つの作品の中で混ざり合うことによって,何ともいえない面白さが生み出されていくという側面がある*44 *45。しかし,惜しまれることに,この"同一作品内における競作性"ともいうべき外連味のなさは,本作を最後にKey系諸作品から喪われてしまった*46。
― 日常的な,奇跡のように思える偶然としての"奇跡" ―
これまでの検討を集約すると,結局のところ,「Kanon」における"奇跡"というガジェットとは,"あり得ないはずの状態"と"日常の中の非日常的な状態"と"超常的な救済",ひいては"日常的な,奇跡のように思える偶然"(後述)の全てに射程が及んでおり,しかも一義的に意味を確定することは意図的に避けられているということになる。つまり,「Kanon」という作品の中では,これらの四つの概念が区別されないような世界観が築き上げられているふしがある。
これはどういうことかというと,「Kanon」という作品の中においては,「名雪がこの時間にちゃんと起きてるなんて」というささやかな"奇跡"から,"夢の世界"の次元の住人である“あゆ”と祐一が7年ぶりに再会するという"奇跡"に至るまで,あらゆる"奇跡"が区別されてはならないということである*47。繰り返しになるが,だからこそ,特に久弥直樹氏担当のシナリオでは,「いくつもの奇跡」「たくさんの奇跡」と言及されることになるのだ。
俺たちは今,いくつもの奇跡の上に立っていた。
名雪と,この街で再会できたこと…。
名雪のことを好きでいられたこと…。
そして…。
秋子さんの穏やかな微笑みも…。
名雪の暖かな笑顔も,奇跡…。
たくさんの奇跡と偶然の積み重ねの上で…。
(「Kanon」水瀬名雪シナリオ・エピローグより)
上のテキストでは,"超常的な救済"じみた"奇跡"をなぞるはずの「秋子さんの穏やかな微笑み」*48という文言ですら,「いくつもの奇跡」を構成するうちの一つとして捕捉されているに過ぎない。さらにいうならば,ここでの「奇跡と偶然の積み重ね」という祐一による述懐は,"奇跡のような偶然"という感覚のなせる業であり,そもそもこのような感覚は,"超常的な奇跡"と"非日常的な奇跡"と"日常的な偶然"を等価視しなければ出てこないのだ*49。そこでは,相反概念であるはずの日常と非日常が,ふと魔が差したかのように融合してしまう。このような,まさに非日常(+超常性)と日常を同時に見るという複眼的視線に基づく奇跡観は,Keyの次回作「AIR」(2000年)ではっきりと認知されることになったマジックリアリズム*50 *51を,実は先取りしていたのではないか。
こうして"超常的な奇跡"と"非日常的な奇跡"と"日常的な偶然"が等価視されるとき,"日常的な,奇跡のように思える偶然"という感覚が生まれることになる。それは,過去を振り返るときにだけ有効な,明確な因果経過に分節化できるまでに至らない,剥き出しの生のイメージそのままの認識である*52。
【名雪】「祐一もたまにはジャムつけたらいいのに」
【祐一】「だから,俺は甘い物は…」
途中まで言いかけて,ふと名雪の笑顔と目が合った。
(中略)
【祐一】「…そうだな,たまには甘い物もいいかもしれないな」
イチゴジャムの瓶をあけて,バターナイフを差し入れる。
(中略)
【名雪】「何かたくらんでる?」
【祐一】「俺がジャムを塗って何が画策されるって言うんだ…」
【名雪】「うん,そうだね」
【祐一】「俺はただ…」
名雪と同じことをしてみたくなっただけだ…。
(中略)
【祐一】「奇跡だ」
【名雪】「しみじみ言わないでよっ」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオより)
「ふと,笑い声が聞こえたような気がして…」
「それは,昼間出会った,あの人たちの声で…」
「あの笑顔を,あの楽しそうな声を思い出して…」
「今の自分がどうしようもなく惨めに思えて…」
「つられるように笑って…」
「本当に久しぶりに笑って…」
(中略)
「笑って出たはずの涙が止まらなくて…」
「もう,おかしくもないのに涙が止まらなくて…」
「赤く染まった左手が痛くて…」
「自分が,悲しくて泣いていることに気づいて…」
「…そして」
【栞】「ひとしきり笑ったら…腕,切れなくなってました」
(中略)
【栞】「もしかしたら,これが奇跡だったのかもしれませんね…」
(「Kanon」美坂栞シナリオより)
…世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい…
かつて前作の「ONE〜輝く季節へ〜」においても,川名みさき先輩が友人から架かってきた一本の無邪気な電話で自殺を思い留まったり*53,折原浩平がふと立ち寄った演劇部の部室に上月澪のスケッチブックが忘れっ放しになっていた*54というように,ところどころで偶発的・外因的事象を頼りとするシナリオの場面転換が見受けられたが,今回の「Kanon」においてもこれは同様であり,ふと魔が差したかのような心境の変化や,取るに足らないささやかな偶然が,登場人物たちの運命を左右するほどの重大なトリガーになってしまう描写が決して少なくない*55。
…もしかしたら,これが奇跡だったのかもしれない。そこでは,登場人物たちは過去を振り返り,曖昧に推し測ることでしか,"奇跡"を実感することができないでいる。
このような,"日常的な,奇跡のように思える偶然"という奇跡観が採り込まれると,"外部の事象は人間の意図から独立していて,しばしば人の意志的な営みを中断させる"という問題認識が俄然,迫真性を帯びてくることになるだろう。
一般に,"客観的世界が主観的認識に先行して存在する"という実在論的な世界認識は,比較的平凡な部類に属するものになりがちだが,むしろ「Kanon」の場合には,"現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にはたらくし,どこまでも優しくはたらく"という認識を徹底しているところに特徴を見出すべきである。―現実は,人の心の持ちようなどかかわりなく,人為の及ばない次元において,いくらでも苛酷であり得る*56。「Kanon」における"奇跡"のガジェットに心に沁みいるような優しさがあるとすれば,それは同時に,どこまでも残酷になり得るということと表裏一体なのである*57。
上記のような「Kanon」における世界受容のあり方を評して,「この世は無慈悲で残酷であるとともに,神聖な美しさに満ちている」というユングの言葉が引用されることがあるが*58,これは当意即妙といえよう。さらに付け加えると,系譜論的な見地からも,これは支持できる。現に,本作から5年後に発表された「CLANNAD」(Key,2004年)は,「世界は美しい。悲しみと涙に満ちてさえ」と高らかに宣言しているのだ*59。この点は,いくら強調してもし過ぎるということはない。「Kanon」の世界における他者性は,果てしなく残酷で,果てしなく優しいのだ。
だからこそ,何の伏線もなく*60秋子さんは交通事故に遭う*61。「恋はいつだって唐突だ」*62。祐一とあゆの笑い声をふと思い出したせいで,栞は笑い泣きしながら自殺をためらうし*63,佐祐理さんと舞にしても,「気づいてしまえば,わたしはダメだった」となる*64。それに何といっても,「その時,風が吹いた」という「ただ,それだけ」で,世界は暗転してしまうのだ*65。
ここまで身も蓋もない世界の外因性に対するとき,人為の及ぶような余地はほとんどあり得ないように思われる。少なくとも「Kanon」という世界観の下では,絆や努力によって勝ち取れる程度*66では,"奇跡"という名には到底値しない。祈れば済むような問題ならば,どんなによかったことか,なのである*67。
そういう意味においては,ここで例えば「奇跡を起こすことのできない人間」を想起するようなことは,まったく正しい*68。そんな取り返しのつかなさに直面しても,なお麻枝准氏による"奇跡"の解釈は,「記憶と命―ふたつの犠牲があれば,奇跡は起こせる」と高らかに謳い上げて*69,非日常的ではあっても人為的な"奇跡"の可能性*70を力任せに押し切ろうとするのだが,久弥直樹氏による"奇跡"の解釈にいわせれば,「ちょっと意味ありげでかっこいいよね」*71と軽くいなして,おしまいである。
―ただ,それだけだった。
(「Kanon」月宮あゆシナリオより)
…あらゆる物語可能性に想いを馳せる…
さて,そんな"日常的な,奇跡のように思える偶然"としての"奇跡"ですら,一義的確定的な"奇跡"の定義に該当しないということは,既に触れた通りである。「もしかしたら,これが奇跡だったのかもしれませんね」という言辞には,やはり巧妙なはぐらかしが含まれているのである。
あるいは"あり得ないはずの状態"だったのだろうか。"日常の中の非日常的な状態"のようにも思える。ひょっとすると"超常的な救済"なのかもしれない。それとも"日常的な,奇跡のように思える偶然"だというのか。―何度でも繰り返すが,「Kanon」における"奇跡"とは,区別されてはならないのである*72。
ここから見出せるのは,マルチシナリオ構成から整合的な唯一の物語*73―確定的かつ合理的な解釈―を読み込もうとするプレイヤーの心裡を想定しつつそれを徹底的に逆用して,なおかつ真相を確定させようとしないという,極めてクレバーな表現技法である。本作には,主人公の一人称によって物語が進行するという様式*74を徹底的に逆用した,ADV形式ビジュアルノベルによる表現の限界に対する挑戦が含まれていたのである*75。
プレイヤーは個別のシナリオで起きたこと以外を知ることはできない。もっと踏み込んで言うと,本作は相沢祐一による一人称の語りなのであって,本作で語られるところの世界とは所詮,単なる祐一の認識以上のものではあり得ないということである*76。例外的に,月宮あゆの一人称に切り替わる場面があっても*77,それもまた彼女の視点を通じた一面的な世界認識に過ぎない。マルチシナリオを読み重ねていくうちに,プレイヤーはあたかも他方向の視点から全体を見通す面白さを発見したつもりになるかもしれないが*78,そもそも本作では,プレイヤーに主人公の視点しか与えられていない以上*79,やはり祐一の視点から見えないものを透過すべきではなかったのである。バイアスのかかった叙述の視点しか用意されていないということは,本作でプレイヤーが確定的な世界を把握することが最初から不可能だったことを意味している*80。
ところで,不可能図形という数学用語と不可能物語という心理学用語をご存知だろうか。
不可能図形とは,部分的には可能な図形が全体としてはひとつの図形として成立し得ない図形のことである*81。これに対応するかたちで,叙述の分野においても,一人一人の語りは成り立っても,単なる見方や解釈の違いに留まらず,全体としてはひとつの物語として成立し得ない不可能物語という概念がある。不可能図形が平面図を三次元として錯視してしまう人間の眼の性能を逆手に取るものであるように,不可能物語では,ひとつの物語(供述)を,たとえそこにどんな矛盾や錯誤があろうとも,自分の身体的体験に置き換えた上で,現実の出来事として臨場感をもって受け入れようとする人間の深層心理が逆手に取られているのだという*82。「Kanon」のマルチシナリオがこの不可能物語であるとまではいわないが,少なくとも,ここで挙げたフィクションをノンフィクションとして受けとめたがる心理作用については,本作におけるマルチシナリオ構造の徹底的な逆用に通ずるところがあるといえよう。
結局,「一人の女の子がたったひとつの奇蹟を起こして,一人の命を救う」という可能性へと誘導された*83はずのプレイヤーは,そのままの意味で"奇跡"を確定的に読み取ろうとする都度,当の各シナリオから肯定と否定の循環を付き付けられることになる。そのいつ果てるとも知れない思索を繰り返した末に,ようやく我々は,それが何かは判らないけれど,奇跡はあるのかもしれないという達観めいた境地―あらゆる物語可能性に想いを馳せ*84,その上でいま目の前で起きた出来事(各シナリオのすべてのエピローグ)を心の底から受け入れるという地平―に辿り着くことができるのではないだろうか*85。
しばらく待っていると,後ろから小さな悲鳴のような声が聞こえる。
…どんっ!
直後,背中を押されるような感触。
押される,というよりは何かが背中に当たったような…。
【女の子】「…うぐぅ」
俺と同じくらいの学年だろうか…?
振り向くと,なぜか女の子が泣いていた。
(「Kanon」共通シナリオ -1月7日深夜の夢- より)
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*2:「あの時の雪を,覚えていますか? 深い雪に覆われた街で語られる,小さな奇跡の物語―」:Key公式ウェブサイトのキャッチコピーによる。
*3:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1-2)を参照されたい。
*4:のり@臥猫堂「批評 Kanon」(2005年1月,http://homepage2.nifty.com/nori321/review/kanon.html)が端的にまとめている。
*5:本章の論旨は,特に断りのない限り,今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2),今木「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1)によるところが大きい。本稿は,今木氏によるこれらの指摘に依拠しつつ,具体的な当てはめを試みるものである。
*6:【あゆ】「…ばいばい,祐一君」
*7:夢オチではない。念のため。
*8:この点については,本稿でも,既に指摘した通り,月宮あゆシナリオを具体例に分析してみた。
*9:火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」3.『Kanon』の「構造」(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D(3).html)より。
*10:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」物語の純度とゲームの達成感から奇跡の意味を考える(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*11:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*12:フジイトモヒコ「Last examinations」第7回 AYU〜Break Eternity,2〜(2000年8月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_AYU.html)より。
*13:月宮あゆシナリオ,水瀬名雪シナリオ,美坂栞シナリオ。
*14:フジイトモヒコ「Last examinations」第2回 NAYUKI〜Bond〜(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_NAYUKI.html)より。
*15:源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:名雪シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*16:ここで,【名雪】「…わたし…お父さんの顔,知らないから…」という台詞が挿入され,名雪が自らの"父性の欠如"について深刻な問題意識を持っていたという事情も顕出しているのだが,本作でこの点がこれ以上追求されることがなかった。なお,久弥直樹「夏日」(2000年6月,C58,Cork Board同人誌『SEVEN PIECE』所収)において,名雪の父との死別が示唆されている(あくまでも非公式設定だが)。
*17:「なぐさめる」ということは,「悲しみを共有する」ことであり,結局は「一緒に泣く」ということである。
*18:「かつて,主人公があゆを失い,悲しみに沈んだ時,当時の名雪と彼の絆では,名雪は主人公を悲しみから救い出すことはできなかった。でも,今なら,名雪と彼の今の絆ならば,同じように悲しみに沈みこんだ名雪を救い出すことができるかもしれない。この絆の強さを問う事件であるのだ。…だが,あくまでもこれは新しい絆の「試し切り」であり,決して名雪編のテーマそのものではない。だからとって付けたようなイベントになり,しかも『最終イベント』『締め』としてしか存在することを許されないのだ。最後に回さなければ,存在する意義をなくしてしまうのであるから。」,フジイトモヒコ「Last examinations」第2回 NAYUKI〜Bond〜(2000年3月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_NAYUKI.html)より。
*19:「このシナリオで重要なのは,この「過酷な現実の克服」は,あゆの奇跡によって行われるのではなく,それ以前に,祐一の献身的な行動で,為されるといことだろう。その意味では,物語は,過去をトレースして,駅前で名雪が祐一を迎えにいき,キスをしたことによって終わるのだ。つまり,ふたりが支え合うことで,その現実の克服が可能になったということを示唆して,物語は,閉じているのである。」,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」各シナリオの構造の解析:名雪シナリオ(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*20:ちなみに,祐一のジュブナイルという観点からは,あゆENDがああいう話であるにもかかわらず,“あゆ”の正体を祐一が思い出さないまま終わる名雪ENDが,あゆENDと等価的に配置されている意味に思いを致すことはできないだろうか。ここでは手がかりとして,ひぐちアサ『ヤサシイワタシ』(2001年,講談社,ISBN:4063142671,ISBN:4063142868)のプロットを挙げておきたい(特に2巻)。
*21:1992年以降について解析した論考として,「美少女ゲームのパラダイムは4年で交代する〔仮説〕」(2006年,d:id:genesis:20060406:p1)を参照されたい。
*22:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-1-2)を参照されたい。
*23:高橋龍也氏発言「『To Heart』でやりたかったのは「一緒にいて楽しい」ということなんです。性欲を抜きにしても,一緒にいて楽しい女の子を。」「そういうときに重要なのはコミュニケーションだと思うんですよ。それを知ってるから,みんな…常にコミュニケーションを持ちたがってると言うか。誰かといないとつらい時代なのかな,と思っちゃたりもするんですけど。…最終的にそういう誰かがいるってだけで,世界が楽しくなる。モノクロで取り込み風の,冷たい背景のなかに,くるくる表情の変わるキャラクターがいるという対比があることで,すごくキャラクターが浮き出てきて,世界に味が出てくるんです。」「『To Heart』は問いかけなんです。こういう空間をどう思いますか,という。それで良いと思うならば,その空間はなぜ構成されているのかを考えると,結局コミュニケーションを大事にしてるんですよ。」,「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也&原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/page5.html)より。
*24:誰かといないとおもしろくない。なぜなら,人間はつくづく共感する生き物だから。
*25:【あゆ】「ボクのこと忘れないでください」/【あゆ】「今日だけ,一緒の学校に通いたい…」(月宮あゆシナリオ)
*27:【祐一】「奇跡を起こすには,ふたつの犠牲が必要だってわけだ」【祐一】「記憶と,そして命」【天野】「はい」(沢渡真琴シナリオ)
*30:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-2)を参照されたい。
*31:ササキバラ・ゴウ氏&佐藤心氏発言「ササキバラ・ゴウインタビュー:美少女ゲームの起源」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』60頁)より。
*32:のり@臥猫堂「批評 Kanon」(2005年1月,http://homepage2.nifty.com/nori321/review/kanon.html)より。
*33:「あの日,少年だった俺は,丘で一匹の小狐を助けた。」(沢渡真琴シナリオ)
*34:「…そう。だから祐一は,あの日にも現れたんだよ。…訪れてもいなかった,この場所に。」(川澄舞シナリオ)
*36:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c0)を参照されたい。
*38:cogni「存在論的,確率的,麻枝的」(2006年7月,d:id:cogni:20060708:p1)より。
*39:雪駄「Kanon論考:「奇蹟」から考えるKanonという表現」(1999年,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/kanon4.htm)より。
*40:ちなみに,これを制作事情から説明すると,久弥直樹氏の執筆スタイルが基本的に秘密主義だったらしく,未完成段階のシナリオを他のスタッフに読ませることがなかったためと思われる。そのため,全シナリオの脱稿後に初めて,久弥氏と麻枝氏との間で脚本のすり合わせが行なわれ,修正箇所はキャラクター相互の登場時間や場所の矛盾解消に留められたらしい。開発中,麻枝氏はずっと,久弥氏から「あゆは死んでるんだよ」と聞かされていたとのことである。久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。
*41:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#c2-2)を参照されたい。
*42:拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060827/p1#20060827fn75)とその注釈先を参照されたい。
*43:「舞と真琴は,あゆの影響ないですねぇ。その2キャラは,自らの力で奇跡を起こしているんですよ。」,麻枝准氏発言「Key Staff Interview 1 麻枝准」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。これに対し,「麻枝さんは,真琴と舞の奇跡は本人が起こしているとおっしゃっていましたが」とインタビュアーに問われた久弥直樹氏は「どう捕らえてもいいところはあるんですけれど…いや,それでもいいと思うんですよ」と微妙な答え方をしている。久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。
*44:flurry「In a flurry/水陸両用日記(2003年9月23日)」(2003年,http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200309.html#23_4)より。
*45:例えば,「ONE〜輝く季節へ〜」における長森瑞佳シナリオ(麻枝准氏担当)と里村茜シナリオ(久弥直樹氏担当)の比較例として,2.14「死刑台のエロゲーマー(死エロ) 2000年3月11日の項」(2000年,http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/03.html#11)。
*46:これを元長柾木氏に言わせれば,久弥直樹氏の離脱後は「Keyの路線がどんどん鬼子になっていく」ということになる。東浩紀・佐藤心・更科修一郎・元長柾木「共同討議 どうか,幸せな記憶を。 美少女ゲーム運動1996-2004」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』105頁)より。まあ,これ以上本稿で追求すべきことでもないが…。
*47:今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2),今木「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1)によるところが大きい。
*48:交通事故に遭った秋子さんが回復したことを指していることは,論を待たない。
*49:今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2),今木「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1)によるところが大きい。
*50:現実・日常にあるものが,伝承や神話,非合理などといった非現実・仮想なものと融合された設定の下,世界観を構築する芸術表現技法。Wikipedia「マジックリアリズム」の項も参照されたい。
*51:ちなみに,「AIR」シナリオライターの一人・涼元悠一氏も,「イメージとして(「AIR」をマジックリアリズム)に捉えられたのなら,本当に光栄なんですけど,…そこまでは…まだいってないと思います」とマジックリアリズムを意識した発言している。麻枝准・涼元悠一・更科修一郎「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」(2001年,『カラフル・ピュアガール』2001年3月号)より。
*52:「そういえば『ONE〜輝く季節へ〜』で「何よりもそれはイメージだ」と折原浩平に"永遠"を語らせたのは久弥直樹ではなかったか」,今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2)を参照されたい。里村茜シナリオのことである。
*53:「その友達は私の目が見えなくなったなんて知らないから,昨日のドラマ見た?っていつもの調子で話しかけてくれて」「私はうんともいいえとも言うことができなくて,ただ相打ちを打つだけだった」「…もうすぐ私は死ぬんだって思ってたから」「友達はずっとドラマの最終回の話をして,最後にこういったんだよ」「『最終回おもしろくなかったね』って」「『みさきが考えてたのと違う結末になっちゃったね』って」「『みさきが考えてくれた話の方が面白かったよ』ってね」「そしたらね,何だか悩んでたことが馬鹿らしくなって」「悩んでたことが馬鹿らしくなったら,死のうって思ってたことも馬鹿らしくなって」「なんだ,私が悩んでたことはこの程度のことだったんだって,そう思ったんだ」(「ONE〜輝く季節へ〜」川名みさきシナリオ)
*54:「そんな中で,オレはふと見慣れた物を見つけた。緑色のスケッチブック。間違いなく澪の物だった。浩平(…あいつ,ここで着替えたときにそのまま忘れていったな)苦笑しながらその側に近づく。」(「ONE〜輝く季節へ〜」上月澪シナリオ)
*55:今木「取るに足らぬ出来事による『中断』」(2003年11月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200311.html#21)より。
*56:これは,主として久弥直樹氏が主導する"奇跡"観を,世界認識と関連付けて分析する見解である。他方で,麻枝准氏の"奇跡"観には,心の持ちようひとつで現実が変容するような世界認識の気安さが残っているということになるらしい。今木「現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にも優しくもはたらくという認識」(2000年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/g0002.shtml#07)より。確かに,非日常の極みともいうべき川澄舞シナリオにしても,「おまえが気づけばいいんだ」なのである。
*57:今木「現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にも優しくもはたらくという認識」(2000年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/g0002.shtml#07)より。
*58:今木「現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にも優しくもはたらくという認識」(2000年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/g0002.shtml#07)より。
*59:【ことみ】「世界は美しい」【ことみ】「悲しみと涙に満ちてさえ」(「CLANNAD」一ノ瀬ことみシナリオ)。ちなみに,この台詞を書いたのは久弥直樹氏ではなく涼元悠一氏(Key所属シナリオライター,当時)なのだが,Keyにおける久弥直樹氏→涼元悠一氏というシナリオライターの継受については,本稿ではこれ以上追求しないものの,検討に値することは間違いない。
*60:「何の伏線も張られていないところで唐突に発生する」「リアリティを極端に無視した異常なイベント」だと酷評する向きもある。その例として,サロニア私立図書館「Miracles do not come true. You only realize miracles by yourself.」(2003年,http://april1st.niu.ne.jp/column/Kanon.html)。しかし,やはり交通事故は勿論のこと,人の死別や発病といったものは,本人にも周囲の者にとっても,何の伏線もなく唐突に発生してしまうという状況認識の方が,経験則に沿っていると思われるし,よっぽどシビアな感覚に基づいているのではないだろうか。
*66:友情,努力,勝利?
*67:"奇跡"へのこだわりを見せるキリスト教的価値観にしても,"奇跡"とは信仰のきっかけに過ぎず,信仰によってもたらされることはあり得ないらしい。本稿とは無関係なので,これ以上追求しないが。
*68:「一見,物語のテーマを崩しかねない『奇跡』というシステムだが,実際は,物語のテーマを補強するシステムとして『奇跡』は描かれているのだ。これはどういうことかというと…結局のとこ,『奇跡を起こすことのできない人間は,その現実を受容し,それでも前向きに生きて行かざるを得ない』といった形で,物語の主題を補強しているのである。」,源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」物語の純度とゲームの達成感から奇跡の意味を考える(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)より。
*69:これは沢渡真琴シナリオでのものだが,久弥直樹氏担当のパートを含む他の全シナリオに射程が届く解釈になり得る。
*70:前作「ONE〜輝く季節へ〜」においても,麻枝准氏は「奇跡は人との絆が起こすものなんだ」と筆を走らせている。拙稿「競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜」(2006年,http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060826/p2#c2-4-2)を参照されたい。
*72:制作者意思にも沿っている。「(すべての奇跡を起こしているのはあゆだというふうにとれるのは,)蛇足かなとも思ったんですけど,僕は,理由のない奇跡っていうのがあまり好きではないので,ひとつの答えとして用意したんです。(麻枝さんは,真琴と舞の奇跡は本人が起こしているとおっっしゃっていましたが,)それでもいいと思うんですよ。…ほんと,ユーザーさん次第ですね。…どう捕らえてもいいところがあるんです。」,久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』)より。
*73:いわゆる"TRUE END"と呼ばれるものである。
*74:一人称は,勘違いすることもあれば,本音を隠すこともあるし,ときには自分の推測を断定的にしゃべり,嘘もつく。最近ならば,「涼宮ハルヒの憂鬱」TVアニメ版(2006年)が主人公・キョンによるナレーションで進行した様式を評して,「一人称の語り手は信用できない」という指摘があったことが記憶に新しいのではないだろうか。今木「八月の残りの日 原作のキョンは信用できない一人称の語り手です」(2006年,d:id:imaki:20060531:p1),K氏の読む価値なし日記クラシック「そうだ谷川流について語ろう」(2006年,d:id:kimagure:20060407),はじめてのC お試し版「ハルヒ総括3『面白い世界』」(2006年,d:id:hajic:20060704:p3),bmp_69「『涼宮ハルヒ』を語る三人のキョン」(2006年,http://bmp69.net/mt/archives/2006/06/post_409.html)を参照されたい。ちなみに,この実況調一人称/一人称独白体による新言文一致は,新井素子まで遡るらしい。
*75:これはあくまでも,1999年当時におけるという意味での歴史的評価である。「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1 所収)より。
*76:一人称は,勘違いすることもあれば,本音を隠すこともあるし,ときには自分の推測を断定的にしゃべり,嘘もつく。最近ならば,「涼宮ハルヒの憂鬱」TVアニメ版(2006年)が主人公・キョンによるナレーションで進行した様式を評して,「一人称の語り手は信用できない」という指摘があったことが記憶に新しいのではないだろうか。今木「八月の残りの日 原作のキョンは信用できない一人称の語り手です」(2006年,d:id:imaki:20060531:p1),K氏の読む価値なし日記クラシック「そうだ谷川流について語ろう」(2006年,d:id:kimagure:20060407),はじめてのC お試し版「ハルヒ総括3『面白い世界』」(2006年,d:id:hajic:20060704:p3),bmp_69「『涼宮ハルヒ』を語る三人のキョン」(2006年,http://bmp69.net/mt/archives/2006/06/post_409.html)を参照されたい。ちなみに,この実況調一人称/一人称独白体による新言文一致は,新井素子まで遡るらしい。
*78:いわゆる「神の視点」と呼ばれるものである。
*79:プレイヤーが主人公の視点しか獲得できないことと,プレイヤーと主人公が一心同体になることは別の問題である。プレイヤーが主人公と一心同体になるもならないも,人それぞれという気がするのだが。sharan「『プレイヤー=主人公』という神話」(2006年,http://blog.livedoor.jp/sharan428th/archives/50507432.html)も参照されたい。
*80:肯定的にせよ,否定的にせよ,「Kanon」のシナリオが説明不足だと評される所以である。
*81:錯視図形ともいう。その例として,"ペンローズの三角形"がある。
*82:浜田寿美男「〈うそ〉を見抜く心理学─『供述の世界』から─」(2002年,NHKブックス,ISBN:4140019379)より。
*83:超常的な救済としての"奇跡"。美坂栞シナリオのエピローグでの示唆。
*84:麻枝准氏は,"非日常的な状態"という一義的な"奇跡"の解釈から出発して,奇跡に惹き起こされてしまった素朴な驚きというかたちで物語可能性への想起を導こうとした。これに対して,久弥直樹氏は,"奇跡"の解釈についてもあらゆる可能性を排除せず,物語可能性に対する想起を多層的なイメージとして導こうとした。これもメタな方向性を共有した二人による同一作品内での競作の一例である。
*85:「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年,d:id:imaki:20051119#p1 所収)より。
競馬サブカルチャー論・第20回:馬と『Kanon』その3〜競馬という営みもまた,“思い出”の中に還っていく〜
競馬サブカルチャー論とは
この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで,歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し,数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と,その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
―馬は,常に人間の傍らに在る。
その存在は,競馬の中核的な構成要素に留まらず,漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では,サブカルチャーの諸場面において,決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
※本稿には,PCゲーム版の内容に関する強烈なネタバレが含まれています。本文に施されている注釈は,熟読したい人向けです。なお,ゲーム版を"水瀬名雪"→"沢渡真琴"→"川澄舞"→"月宮あゆ"→"美坂栞"*1の順でクリアした後の読者を想定しています(え)。
1.Visual Art's/Key 『Kanon』より
2."ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon」
1) 文芸様式としてのファンタジー
1:「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所"
1) ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論
2:「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語
1) 月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成
3.「Kanon」における"奇跡"のガジェット〜小さな"奇跡"の物語
1:"奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか
2:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(1)〜あり得ないはずの状態
3:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(2)〜超常的な救済
1) 水瀬名雪シナリオの場合
2) 月宮あゆシナリオの場合
4:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(3)〜日常の中にある非日常的な状態
1) 久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較
5:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(4)〜日常的な,奇跡のように思える偶然
1) 世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい
2) あらゆる物語可能性に想いを馳せる
6:あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない?
1) "同一世界解釈/確定的過去共有"とは
2) "多世界解釈/遡及的過去形成"とは
3) マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路
4) 「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来
7:それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな"奇跡"の物語
1) 7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?
4.馬と「Kanon」
5.主な先行文献の相関関係
― あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない? ―
ところで,「Kanon」に含まれるエモーショナルな側面として,「あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない」というテーゼがまことしやかに囁かれることがある。例えば,「あゆが助かるときは,栞が助からないんだよ」「名雪の幸せは,あゆの自己犠牲のおかげなんだよ」「栞が助かるとき,あゆは助からず,舞は夜の校舎で剣を振り回し続けている」といった言及のされ方が,それである。
このような言及のされ方にどれほどの意義があるかはさておき,このテーゼの是非を巡るかたちで,本作のマルチシナリオ構成がいわゆる"同一世界解釈/確定的過去共有"と"多世界解釈/遡及的過去形成"のどちらに依拠していると考えるべきかについて,見解の相違が見受けられることも事実である。そこで,本稿前半部の最後として,メモランダム形式でこの点にも触れておくことにしたい。
"同一世界解釈/確定的過去共有"と"多世界解釈/遡及的過去形成"とは,マルチシナリオ方式を採用するビジュアルノベルにおける分岐シナリオ相互間の関係を説明しようとする二つの有力な見解である。なお,以下の検討は,エヴェレットの多世界解釈やコペンハーゲン解釈,ライプニッツ可能世界論といった哲学・量子力学における用法とは一切無関係であり,便宜上,ビジュアルノベルにおけるマルチシナリオ解釈方法論に射程を特化した用法に過ぎない点に注意されたい。
…"同一世界解釈/確定的過去共有"とは…
"同一世界解釈"とは,マルチシナリオの下では,単一の確定的な過去と設定が存在し,時系列に沿ってシナリオが分岐するうちに,パラレルワールド(並列世界)を形成するという理解である*2。選択肢に基づく主人公の行動は未来への分岐に過ぎないので,選択肢によって過去の出来事が遡及的に差し替えられることはない。その意味で,"確定的過去共有"型と呼ばれることもある。
従って,プレイヤーは複数のシナリオを読み重ねることによって,断片的な情報を相互補完的に解釈し,客観的に実在する唯一の過去や設定を知ることができる。あるシナリオで語られる過去や設定が他のシナリオで語られないのは,発見するための機会や思い出すきっかけ*3がなかったからに過ぎない。あえていうならば,プレイヤーは主人公に成り代わって,登場人物たちの物語を順番に聴いて回るようなものである。
そして,これはビジュアルノベルのシナリオ作成技法から論拠付けられるらしい。すなわち,マルチシナリオ方式のビジュアルノベルの制作過程においては,世界観・舞台設定の企画立案が先行し,そのプロットに沿った共通シナリオ部分を冒頭に配置することが通例である*4。従って,特に制作者意思が"遡及的過去形成"を採用していることが明らかでない限り,「主人公はルートによらず他の登場人物全員と過去を共有する存在である」というテーゼは有効であり,ひとつの確固たる過去と設定に基づいたキャラクター群が織り成す物語可能性系としてマルチシナリオの相互関係は把握されるべきだというのである*5。代表的な作品例としては「痕」(Leaf,1996年)がある。
この文脈に沿って「Kanon」のマルチシナリオを読み解くと,プレイヤーはふと,栞が助かるのにはあゆの自己犠牲が伴い,あゆが祐一と結ばれるときは名雪の朝寝坊が最もひどくなり,舞が救われるとき真琴は人知れず消滅する,といったセンチメンタルな物語可能性を想起してしまう。ちなみに,ササキバラ・ゴウ氏が「主体性の結果として痛み」が残る例として「Kanon」を挙げるときは*6,この"同一世界解釈/確定的過去共有"が所与の前提とされている。
…"多世界解釈/遡及的過去形成"とは…
"多世界解釈"とは,マルチシナリオの下では,選択肢以前の主人公は複数の不確定世界の重ね合わせ状態の中にあり,時系列に沿ってシナリオが分岐するうちに,不確定だった可能性が唯一の世界へと収束するという理解である*7。選択肢に基づく主人公の行動は,未来だけでなく過去への分岐でもあるので,選択肢によって過去の出来事が遡及的に形成されることになる。選択肢によって分岐した途端,シナリオごとに過去や設定が差し替えられる以上,一方の選択肢を選んだ後の個別シナリオで判明する過去や設定は,その選択肢を選ばなかったときの他の個別シナリオでは最初からなかったことにされる。その意味で,"遡及的過去形成"型と呼ばれることもある。
従って,相互のシナリオは完全に独立しているので,プレイヤーは全てのシナリオを読まなくとも,個別シナリオ単体を読むだけでストーリーを完結させることができる。あるシナリオで語られる過去や設定が他のシナリオで語られないのは,最初から存在しないからである。あえていうならば,プレイヤーによる選択肢に,全能の神にも等しい力を認めるようなものである*8。
そして,これはビジュアルノベルのシステム・スクリプト生成上の制約から論拠付けられるらしい。すなわち,ビジュアルノベルの主人公(プレイヤーキャラクター)の人格は,最初はまっさらな空白状態にならざるを得ず,プレイヤーによる選択肢を反映して徐々に内面を形成していくほかないというシステム上の制約がある*9。とするならば,個別シナリオ上の「過去」や「設定」は,ツリー構造に即していえば枝の部分に個別バラバラに生起するようなものでしかない以上*10,「選択肢の分岐次第ではそのルートから抹消される登場人物の過去がある」というテーゼがはたらくので,マルチシナリオの相互関係を考慮すべきではないというのである。代表的な作品例としては,「WHITE ALBUM」(Leaf,1998年)が考えられる。
この文脈に沿って「Kanon」のマルチシナリオを読み解けば,例えば水瀬名雪シナリオを選んだときは,栞は風邪をひいていただけの健康少女であり,あゆはただの鯛焼き泥棒であり,真琴も記憶喪失の家出少女か何かであり,舞は夜の校舎で剣を振るうのが趣味の変な女の子だったことにしておくことができる*11。ちなみに,東浩紀氏は,このような"多世界解釈/遡及的過去形成"を採りたがるマルチシナリオ型ビジュアルノベルのプレイヤーの心裡状態を分析して,「解離的な心の動き」と名付けている*12。
…マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路…
以上の通り両説の概説を施してみたが,現実問題として,この両説の当否を,具体的な作品への当てはめを念頭に置かないまま,抽象論のレベルで検討することには実益がない。なぜならば,両説はそれぞれビジュアルノベルのゲームシステムに固有の特色を見出して,自説の一般的な論拠付けとして援用しようとするが,以下の通りいずれも説得的な論証には成功していないからである。
"多世界解釈/遡及的過去形成"説は,選択肢によるマルチシナリオの分岐にビジュアルノベルの特権性を見出すことが前提だったのだが,近年,その特権性に拘泥しない作品が相次いで商業的成功を収めるに至り,この概念の凡用性はおよそ喪失してしまったといわざるを得ない。その作品とは,「Fate/stay night」(TYPE-MOON,2004年) *13と「ひぐらしのなく頃に」シリーズ(07th Expansion,2002〜2006年) *14である。
もともと「AIR」(Key,2000年)の時点で,"DREAM編→SUMMER編→AIR編"という一本道ルートへの志向が顕在化していたのだが,このときはKeyの制作者が「このままシナリオ重視で突き詰めていくと…出来の悪いアニメーションになってしまう」*15という問題意識を抱いたため,次回作以降での一本道ルートの追求が回避されたという経緯があった。
ところが,「鬼哭街」(ニトロプラス,2003年)が商業作品のビジュアルノベルとしては初めて選択肢のない完全な一本道ルートのシナリオ構成で発売されると,その翌年には「Fate/stay night」が,一見マルチシナリオ方式を装いつつ事実上の一本道ルートを敷き,選択肢による分岐に"BAD END"直行のトラップの役割しか与えないという構成で発売された。さらに,2002年から徐々に同人市場を席捲したPC版「ひぐらしのなく頃に」シリーズに至ると,選択肢次第で八つの個別シナリオに分岐するマルチシナリオ型ビジュアルノベル1枚としても成立可能だった内容が*16,選択肢の存在しない一本道ルート型のビジュアルノベル8枚*17に分割されてしまったのである。
このようなビジュアルノベルのパラダイム*18を巡る歴史的経緯に照らすと,スクリプト生成といったシステム上の制約云々以前に,プレイヤーの選択によるシナリオ分岐にビジュアルノベルの特権性を見出そうとする前提自体が,もはや凡用性を失っているをいわざるを得ないのである。
他方で,"同一世界解釈/確定的過去共有"説も万能ではない。というのも,連載漫画のたとえ*19を持ち出すまでもなく,制作現場で企画立案当初のプロット通りにシナリオが書き下ろされるとは限らないし,また,各シナリオの後半部では単体ごとのクライマックスを盛り上げるために設定の後付けが施されることは間々あることであり,そのまま共通シナリオ部分との間の矛盾・不整合が補正されないことも少なくないからである*20。
以上の検討からも明らかな通り,具体的な作品への当てはめを待たずに,抽象論のレベルで両説の当否を決することはできないし,する必要もないのである。
とするならば,結局のところ,"同一世界解釈/確定的過去共有"と"多世界解釈/遡及的過去形成"―いずれのマルチシナリオ構成を採用しているかについては,ビジュアルノベルの各作品ごとに,具体的な当てはめを行なって判断するしかない。そのための判断基準については,まず第一に,シナリオ本文を文理解釈することによって判定し,文理解釈で真偽不明な場合には,次善の策として,作品内外で明らかにされている制作者意思によって判定することが,比較的穏当な解釈を導くことができ,妥当するだろう*21 *22。
…「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来…
さて,肝心の「Kanon」におけるマルチシナリオ構成だが,結論から先に言ってしまえば,本作の場合は"同一世界解釈/確定的過去共有"が採用されていると考えた方が無難である。選択肢による因果の遡及的形成という見方がエレガントに決まる*23作品もあるかもしれないが,それはまた別の話である。
そもそも,本作には冒頭の共通シナリオ部分が存在するし,どの個別シナリオに分岐するにしても,全シナリオに共通する伏線として"月宮あゆによる「夢。夢を見ている」というモノローグ"が挿入されていることに変わりはない*24。仮に,ここで"多世界解釈"を採ろうとするならば,この夢のモノローグは各シナリオに応じてバラバラに解釈できるような内容でなければならなかったのである。
また,月宮あゆシナリオ以外に分岐した場合には,必ず“あゆ”が「探し物,見つかったんだよ」と祐一に別れを告げにくることになる。少なくとも,この「探し物」については,ひとつのシナリオで示された謎をべつのシナリオで解決するという構成が採られているわけであり,これを"多世界解釈"で片付けられてしまうと,べつのシナリオの出来事が文字通り別の世界の出来事になってしまい,謎解きが不可能になってしまう*25。
さらにいえば,本作のマルチシナリオ構成をこのように解したとしても,各シナリオごとに描写される登場人物の設定や過去相互間に深刻な矛盾が見受けられるわけでもないし*26,その上,本作のシナリオライターが"確定的過去共有"を志向していたことも明らかなのである*27。特に弊害が見受けられないからには,制作者意思を尊重してしかるべきだろう。
言ってみると『Kanon』って,世界観に穴が開いてるじゃないですか。
どうやっても,どうしようもない穴が開いていると。
でも,その穴があまりにも美しい穴なんですよ。
それで愕然としたんです。
この穴は偶然に開いたものなのか,それとも人為的に開けたものなのか見分けがつかない。
もし人為的に開けたのなら,この人たちは天才集団だと思ったわけです。
(涼元悠一氏発言-「ARIA」vol.1- より)
しかし,本作が"同一世界解釈/確定的過去共有"に基づくからといって,冒頭の「あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない」というテーゼが唯一絶対の解釈であるということにはならない。
本稿で既に述べたことの繰り返しになるが,「Kanon」における表現技法の最大の特色は,実況調一人称/一人称独白調の文体が人間の深層心理に働きかける効能の大きさ*28を見切った上で,暗喩やほのめかし*29,台詞のダブルミーニング*30を駆使して,選ばれなかった分岐の先にあり得たかもしれない他の物語可能性をプレイヤーに想起させるストーリーテリングの妙にある。
すなわち,"奇跡"という言辞ひとつを巡っても明らかだったように,「Kanon」では,テキストの解釈の幅があらかじめ許容されており,むしろそうした解釈の幅を大きく残すことが,マルチシナリオ構造の全体を通じて徹底されている*31。そこでは,個々のテキストのみではなくシナリオ全体をいかに解釈し再編集するかの遊びが,プレイヤーに委ねられているのである*32。
結局,「Kanon」のシナリオからは,「aだから,bである」という確定的な因果性ではなく,あくまでも「Aだから,Bかもしれない」という推測的な関係性しか,直接読み取ることはできないのだ。後者の関係性の推測という思考パターンの方が,むしろ我々の生の事実認知プロセスに即しているのだが,にもかかわらず,「あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない」という断定的なテーゼが語られることがあるとするならば,それは「Kanon」の物語では直接語られることのなかった,他にあり得たかもしれなかった物語可能性のバリエーションの一つがひとり歩きしたものに過ぎない*33。"みんな助かる"のは勿論「Kanon」とは別の物語だが,"誰かが犠牲になる"というのも,それは「Kanon」とは異なる別のお話なのである*34。
― それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな“奇跡”の物語 ―
夕焼けに霞む表情は,分からない。
「祐一さん,ついてきてください」
それだけを言い残して,“しおり”の姿が夕焼けに霞む。
「どこに,行くんだ?」
俺の言葉に,“しおり”が振り返る。
「思い出が,集まる場所です」*35
(久弥直樹『if 〜Kanon another story〜』 より) *36
ところで,元長柾木氏は,美少女ゲーム*37の"ゲーム性"を構成するフォーマットとして,シュミレーション性*38,アクション性*39,二次創作可能性*40,反復性*41の四つを挙げている*42。元長氏の史観によれば,「Kanon」の歴史的意義は第4の要素"反復性"の獲得によって美少女ゲームのフォーマットを完成させた作品ということになるのだが,ここではあえて,元長氏のいう第3の要素"二次創作可能性"―キャラクターやシチュエーションについてプレイヤーが想像を広げること―を大いに刺激する吸引力が本作にあったということを,強調しておくことにしたい*43。
すなわち,本作を読了したプレイヤーに,シナリオ各編で直接言及されなかったはずの物語について,あれこれと想像を逞しくさせるだけの何かがあったとするならば,それだけの物語可能性を許容するに足る*44壮大な世界観が「Kanon」においても構築されていたと見るのが,素直なものの見方ではないだろうか。
非公式設定ながら,シナリオライターの1人である久弥直樹氏は,自らの執筆した同人誌のひとつに『SEVEN PIECE』*45というタイトルを付けている。ひょっとすると,久弥氏にとって「Kanon」という物語は本来1000ピースぐらいの巨大な世界観なのであって,自身の執筆した小さなエピソード群は,そのほんの数ピースに過ぎなかったのかもしれない*46。少なくとも,「Kanon」という世界観の懐の深さからすれば,各シナリオで直接描写されたストーリーは,あり得たかもしれない物語可能性のほんの一部―冬の街に降り注ぐ思い出のかけら*47―に過ぎなかった,ということくらいはいえそうなものである。
例えば,月宮あゆENDのときに限って,なぜか“あゆ”の名雪に対する心情*48が垣間見えたりすることがあるが,だからといって,水瀬名雪ENDのときにあゆがどんな願い事をして,その願い事が叶ったかどうかについては,シナリオから真相を読み取ることはできない。それはもっぱら,個々のプレイヤーの想像に委ねられているのである。
ひょっとしたら,「ボクの,願い」はあゆENDと同じく「ボクのこと,忘れてください」だったかもしれない。あるいは,そっと秋子さんの回復を祈ってくれたのかもしれない。それから,秋子さんが回復したのは,あゆの力による超常的な救済だったかもしれないし,彼女の願いとは無関係に偶然助かったのかもしれない。それに,「永かった夢が終わりを告げる」といっても,祐一との再会という思い出は持ち帰ることができたのだから,名雪ENDでもあゆは目覚めるかもしれない。
ここでは,どのような組み合わせになっても,それ相応のテーマを読み取ることができるはずである。シナリオがあえて沈黙している部分をどう解釈しようとも,それはプレイヤーの自由で構わない。ただし,それはあくまでも,あり得たバージョンの一つに過ぎないのであって,他のバージョンを排斥するものであってはならない。このような解釈の幅こそが,まさにあらゆる物語可能性を想起するということの正体なのである。
このような発想に乗じるときに拡がる「Kanon」の物語可能性の何と豊穣なことか。
たとえ他のシナリオに分岐することになろうとも,美坂栞と祐一が必ず校舎の中庭で再会するのはどうしてだろう。佐祐理さんという親友と出会うことができた川澄舞は,祐一と再会しようがしまいが,少なくとも「ひとりぼっち」ではない。沢渡真琴ENDのラストシーンで,"眠る真琴と寄り添うぴろ"の画の意味するところは何か。祐一が代わりに見付けないとき,“あゆ”が自力で発見する「探し物」とは一体何なのか。「7年前の出来事」を祐一が思い出さないエンディング*49が肯定されている真意は,どこにあるというのだろうか(本作には"BAD END"という名のエピローグはひとつもないのだ)。*50
確かに,本作では,あらゆる物語可能性の分岐先で,"奇跡"の物語が囁かれることになるだろう。ただし,果てしなく残酷で,果てしなく優しい現実の偶然性が徹底され,悲劇から喜劇,幸福劇に至るまであらゆる日常を否定せず,かけがえのないものとして受け容れる「Kanon」の大きな物語にとって,それはまるで手のひらからこぼれ落ちる雪のかけらのように,本当にささやかで小さな"奇跡"の物語に過ぎないのである。
…7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?…
「7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?」
(第2期TVアニメ版「Kanon」(百花屋/京都アニメーション) -第1話「白銀の序曲 〜overture〜」- より)
2006年は,「Kanon」にとって,原作PCゲーム版が発売されてから,ちょうど7年目という節目の年に当たる。相沢祐一が雪の街を離れ,再び帰って来るまでに相当する年月が経過した今,当時を知る原作ファンにとって,このたびの二回目のTVアニメ化がどのような感慨をもって迎えられることになるのか*51,多少興味深いところである。
…そして,今回の第2期TVアニメ版「Kanon」(百花屋/京都アニメーション,2006〜2007年)をリアルタイムで視聴するという事実もまた,やがて思い出へと還っていくのだ。
最後には…どうか,幸せな記憶を*52。
馬と「Kanon」
ところで,このように深遠な「Kanon」という作品に,ゲームの内外を問わず「馬」との密接不可分な紐帯が見受けられるという重大な事実に,果たしてどれだけの読者が気付いていただろうか。
「Kanon」が競馬界にもたらした一大センセーションとして,「まじかる☆さゆりん杯」*53の名をを挙げない者はモグリである(何の?)。「まじかる☆さゆりん杯」とは,本作の登場人物の一人である倉田佐祐理さんのファンクラブ「倉田佐祐理FC まじかる☆さゆりん」による協賛で実施された,今はなき高崎競馬場の冠レースである。
地方競馬ではとても由緒ある冠協賛レースであり,2000年から2004年にかけて通算6回施行された。2004年12月31日限りで公営高崎競馬が廃止されたこともあってか,7回目の開催見通しが立っていないことが今なお惜しまれている。
レース名の由来は「魔法少女まじかる☆さゆりん」から。ちなみに,「さゆりん」は佐祐理さんの愛称。「Kanon公式原画・設定資料集」(エンターブレイン,2000年)に収録されていた佐祐理さんの設定原画の中に1枚だけステッキを持ったスケッチが含まれていたことから,こんなに話が膨らんでしまったらしい。何でも,ステッキを持っているから,魔法少女だということである*54。
「まじかる☆さゆりん杯」は,事情を知らない一般の競馬ファンにとっても,記憶に残る衝撃的なレース名だった。何といっても,レース名に「☆」が入っているのは前衛的に過ぎるし,全文字がひらがなで,しかも"まじかる"という辺りもポイントが大きい。多分,「Kanon」を知っていても,よほどコアな原作ファンでもない限り,レース名だけでは何のことか分からなかったのではないか。
レース名 | 開催日 | 優勝馬 |
まじかる☆さゆりん杯 鳥居峠特別 | 2000年01月09日 | ハギノオープン |
まじかる☆さゆりん杯 からまつ特別 | 2000年11月09日 | リョウマ |
第3回まじかる☆さゆりん杯 コスモス特別 | 2001年09月23日 | テツマダイオー |
第4回まじかる☆さゆりん杯 ききょう特別 | 2002年10月13日 | ヤマテツライデン |
第5回まじかる☆さゆりん杯 トパーズ特別 | 2003年11月02日 | パズルプレゼント |
第6回まじかる☆さゆりん杯 やまゆり特別 | 2004年10月24日 | サクラエスポワール*55 |
そんな愛すべき「まじかる☆さゆりん杯」の歴史の中でも,絶頂期のきらめきを放ったのは,第3回まじかる☆さゆりん杯ということになるだろう。この日の高崎競馬場は,"全レース協賛特別競走デー"「WeLoveたかさきDay4」*56一色だったのである。
2001年9月23日(日) 高崎競馬 |
||||||||||
R | 発走 時刻 |
天候 馬場 |
距 離 コース |
品種 | 登録 頭数 |
出馬表 (前5走,馬体重,対戦表) |
競 走 成 績 |
払 戻 金 |
||
1 | 11:20 | 晴 | 良 | 右1330 | サ | 8 | ハロンボウ&キロポスト賞C5 | ● | ● | |
2 | 11:50 | 晴 | 良 | 右1400 | サ | 9 | ブロンズコレクター賞C4 C5 | ● | ● | |
3 | 12:20 | 晴 | 良 | 右1400 | サ | 8 | THE RACE COURSE | ● | ● | |
4 | 12:50 | 晴 | 良 | 右1400 | サ | 9 | TGM賞C3 普通 | ● | ● | |
5 | 13:20 | 晴 | 良 | 右1500 | サ | 8 | 【JRA認定】2歳イ 特別 | ● | ● | |
6 | 13:50 | 晴 | 良 | 右1400 | サ | 9 | ひまわる杯C2 普通 | ● | ● | |
7 | 14:20 | 晴 | 良 | 右1400 | サ | 8 | まじかる☆さゆりん杯 コスモス特別 | ● | ● | |
8 | 14:50 | 晴 | 良 | 右1500 | サ | 9 | 青の軍団結成記念B3 普通 | ● | ● | |
9 | 15:25 | 晴 | 良 | 右1500 | サ | 10 | 競馬同人誌連合会杯 りんどう特別 | ● | ● | |
10 | 16:00 | 晴 | 良 | 右1500 | サ | 8 | WeLoveたかさきDay特別 | ● | ● |
繰り返すが,これは誇張はあっても,嘘ではない。すべて,正真正銘の歴史的事実なのだ。
このように,競馬ファンは,清々しいまでに「Kanon」のことを愛していた。それでは,「Kanon」の方は? 「Kanon」は馬について何を語ろうとしたのだろうか。
本作は,札幌市や横浜市,大阪府の風景が元ネタとして登場すること*59からも察せられる通り,都心部近郊が舞台地として想定されている。競馬場があってもおかしくない立地なのだが,作中で競馬について言及されることはトンとない。これはKey系諸作品全般に当てはまることだが,馬が正面から出てくることは皆無なのである。
しかし,このような理解の仕方は,本作の表層に惑わされたものであり,あまりにも短絡的に過ぎる。
そもそも,サブカルチャー界においてジャンルを問わず名作であればあるほどあらゆる場面に馬を散りばめようとする傾向が強いということは,我々がこの「競馬サブカルチャー論」を通じて繰り返し検証してきた通りである。このことは美少女ゲーム/ビジュアルノベル業界にも当然射程が及ぶ。現に,「Fate stay night」(2004年,TYPE-MOON)が直球勝負の馬賛美を惜しまず,それに対して馬頭観音も加護を与えたという歴史的事実を,我々は既に知っているではないか。
そして,我々には,もうひとつ知っていることがある。偉大なる寺山修司,曰く。競馬が人生の比喩なのではない。人生が競馬の比喩なのだ。つまり,直接描写されることがなくとも,馬は姿を変え形を変え,様々な比喩によって言及されている。そして,名作であればあるほど,馬のために駆使される修辞も洗練極まっていく。競馬を知る我々に求められているのは,この世界に散りばめられている馬に関する高度な言辞を発見することができるだけの愛馬心なのである。
「Kanon」から馬に対する重大なメッセージが含意されているのは,その単純さゆえに高度な解釈が要求される水瀬名雪シナリオである。
―相沢祐一は,親の海外転勤に伴い水瀬家に居候することになり,7年ぶりに幼馴染でいとこの水瀬名雪と再会する。7年前のことを覚えていない祐一は,記憶のない女の子(真琴)や,何を落としたのか思い出せない少女(あゆ)と出会ううち,「来るはずがないって,分かってる人を」「ずっと,待って」いたもう一人の少女―名雪のことを思い出す。7年前に「悲しいこと」があったせいで泣き続けていた祐一(10歳)は,彼を慰めるために"雪うさぎ"をプレゼントしようとした名雪(10歳)を拒絶していたのだ。
「まるで霧が晴れるように」記憶を取り戻した祐一は,「7年前の少女」は彼女だったんだと思い出し,「今まで,すぐ近くにあって,それでも見ないようにしていた答え」を見付ける。祐一は,名雪のことをずっと好きだっと告げる。祐一の思いがけない告白にいったんは動揺する名雪だったが,祐一のことをずっと好きでいられた自分の想いを再確認し,7年越しの二人の約束は実る―。
水瀬名雪シナリオで描かれるのは,祐一と名雪の恋愛模様である。「Kanon」を追走曲に見立てた上でジュブナイル的主題を割り当てるとするならば,"Bond(絆)"の旋律がこれに相当する。本シナリオのエンディングは,名雪にとっては初恋の再成就だが,祐一にとっては古い絆の喪失を新しい絆の力で克服するということであり,"Bond(絆)"のかけがえなさが多面的に描かれているのも特色のひとつである。
しかし,これこそが「Kanon」が競馬界に対して投げかけた最大級のメタファーであるということに,どれほどのプレイヤーが気づいただろうか?
「どうしようもなく馬鹿な男が,約束をすっぽかした」ことを7年越しに謝る祐一に対して,自分の本当の気持ちと7年ぶりに向き合った名雪は次のように答える。
月の夜空を仰ぐように,名雪が背中を向ける。
【名雪】「わたし…あれから考えたんだ…」
小さな声で,名雪が言葉を紡ぐ。
【名雪】「ずっと,考えたんだよ…」
【名雪】「わたし,あまり頭は良くないけど,でも,一生懸命考えたよ…」
【祐一】「……」
【名雪】「そして,出た答え…」
【名雪】「何度考えても,ずっとこの答えだった…」
【名雪】「わたしの答えは…」
後ろを向いたまま,名雪が言葉を続ける。
【名雪】「イチゴサンデー,7つ」
【名雪】「それで,許してあげるよ」
名雪の髪が,風にさらされて揺れていた。
風に運ばれた髪が,月明かりに透けて見えた。
【名雪】「祐一だけ,特別サービスだよ」
【名雪】「だって…」
【名雪】「わたしも,まだ…」
【名雪】「祐一のこと,好きみたいだから…」
(「Kanon」水瀬名雪シナリオ より)
イチゴサンデーといえば,「880円(税別)で幸せになれるんだから,安い物だと思う」と祐一が述懐していた例のアレである。それが7杯ということは,880×7=6160円(税別)ということになる。10歳の子供がした仕打ちだったとはいえ,その後,7年もの間,心のどこかに引っかかっていた名雪の傷心を慰謝するにしては,随分と安上がりなことである。そこから我々プレイヤーは,名雪の祐一に対する思いやりの深さを想起し,しばしの感慨に耽ることになる。愛や思いやりの深さはお金に換算できるものではないな,と。
しかし,話はここで終わらない。賢明なる読者諸君は,もうお分かりであろう。
「Kanon」は愛や思いやりの深さを,馬を単位にして高らかに謳い上げていたのである。馬で"サンデー"といえば,みなまで言いたくはないのだが,ある1頭の種牡馬の名を挙げないわけにはいかないだろう。
―あえてここに記そう。
とは,1989年ケンタッキーダービー(米GI),プリークネスS(米GI)の二冠を達成したほか,その年のBCクラシック(米GI)にも勝っており,米国を代表する馬産家アーサ−・ハンコック三世の最高傑作である。同馬が米国クラシック三冠,BCクラシックで宿敵イージーゴーアーと繰り広げた死闘は,米国競馬史に残る名勝負に数えられている。宿敵との戦いに3勝1敗と勝ち越した同馬は,1989年エクリプス賞年度代表馬に選出されたにとどまらず,1980年代の米国最強馬という呼び声も高い。
現役引退後は,「生産者は予言者でなければならない」という名言*60を残した「大社台」こと吉田善哉・社台ファーム*61代表が総額24億9000万円のシンジケートを組んで日本に輸入し,1991年から安平町*62・社台スタリオンステーションにて供用された。「運命に噛みついた馬」と称えられることもあった,その驚異的なまでの勝負根性とスピード,瞬発力はいかんなく産駒へ引き継がれ,1995年にはわずか2世代の産駒でJRAリーディングサイヤーを獲得するという史上初の快挙を達成すると,それ以降11年連続でJRAリーディングサイヤーに輝いている。
主な産駒はディープインパクト,ゼンノロブロイ,ネオユニヴァース,デュランダル,ゴールドアリュール,マンハッタンカフェ,アグネスタキオン,アグネスフライト,エアシャカール,アドマイヤベガ,スペシャルウィーク,ステイゴールド,サイレンススズカ,ダンスインザダーク,バブルガムフェロー,マーベラスサンデー,タヤスツヨシ,イシノサンデー,フジキセキ,ダンスインザムード,ヘヴンリーロマンス,アドマイヤグルーヴ,スティルインラブ,ビリーヴ,トゥザヴィクトリー,スティンガー,ダンスパートナーほか,枚挙に暇がない。
こうした豪華な代表産駒の顔ぶれからも明らかな通り,同馬は,日本競馬史上空前絶後といっても過言ではない歴史的大種牡馬である。
つまり,名雪が祐一を許してあげる条件は
だったというのである!
それにしても,サンデーサイレンス7頭分とは…。これはもはや,庶民には到底及ぶところのない天文学的数字である。少なく見積もっても数百億円。いや,下手をすると四桁の大台に乗ってしまうだろう。名雪の七年分の傷心を慰謝するためには,かくも大金を積むしかないというのか―。
もちろん,本作がここで伝えようとしているのは,そんなことではない。愛や思いやりを金銭に換算しようとすることは,無粋極まりないのだが,それをあえて他の価値に置き換えようとするならば,それはサンデーサイレンス7頭分にも匹敵するということである。
このように本作は,極めて洗練されたレトリックで,人間の精神的所産の中でも最も尊いとされる愛や思いやりと,馬には同等の価値があると言っているわけであり,この上なく馬を賛美しているのだ。
そして,原作PCゲーム版が発売された1999年には分からなかったけれども,7年後の現在(2006年)ならば分かることがもう一つある。
サンデーサイレンスはもうこの世にはいないのだ。数々の栄誉に包まれた同馬の馬生は,2002年8月19日に終止符が打たれている。享年16歳。サラブレッドの寿命からすれば,早すぎる死だった。サンデーサイレンスほどの大種牡馬であっても,永遠不滅はあり得ず,その栄光に終止符が打たれ,土に還るときが来るというのである。そして,今もなお,同馬亡き後の喪失感を埋め合わすに足る次世代の大種牡馬は現れていない。
このような現状認識を踏まえるとき,我々はもう一度,サンデーサイレンスのメタファーと水瀬名雪シナリオとの関係性を見直す必要が出てくる。サンデーサイレンスのメタファーは,どうして名雪シナリオでなければならなかったのか。その答えは,名雪シナリオにおけるジュブナイル的主題の中に見出すことができる。
―未来が現在となり,現在は過去となる。永遠不変はなく,日々は流転し,やがて"思い出"に還る。たとえ喪われるものであったとしても,生きる人々の絆はかけがえない。それでも,確かに絆はあったのだから。サンデーサイレンスもまた然り―。
種牡馬サンデーサイレンスをリアルタイムで知る者は,少なくとも,生前の同馬がどれほどの愛憎と畏敬を集めていたか,その圧倒的な存在感を経験として理解している。しかし没後4年を経て,競馬場を走る産駒の数も先細りしつつある今,サンデーサイレンスとは,もはや生ける伝説ではなく歴史上の存在に過ぎないのである。
サイレンススズカのすべてを伝えることはできないし,相手に完全に納得させることも出来ないだろう。なぜなら,先にあげたようなサイレンススズカ評も,間違いなくサイレンススズカの客観面を正しく言い当てているものだからである。記録は後世の人々と共有することが容易だが,記憶を後世の人々と共有することは不可能である。
今になってサイレンススズカとはなんだったのか,と考えてみて,ふと思うことがある。サイレンススズカとは,1998年に日本競馬に突然現れた,何よりも美しく,何よりも儚い幻だったのではないか。そして,その時代を生きた私たちは,幸運にも共通して同じ幻を見ることができただけなのではないか。だとすると,いくら資料や映像を持ち出したところで,その記憶を持ち合わせていない人々を説き伏せることはできないのも道理である。
もしかすると,サイレンススズカとは,同じ時代を生きた私たちが共通して見た,幻のような馬だったのではないか。ほかの馬たちとはあまりに違う次元を走った彼の走りは,現実というにはあまりに速く,そしてその存在は,あまりにも儚く私たちの前から消えてしまった。私たちに,幻というにはあまりにも深い記憶を遺して。
サイレンススズカとは,私たちに何よりも鮮烈な記憶を焼き付けた,永遠の幻だったのである。だが,彼が私たちに残した記憶は,決して幻ではない。彼が残した記録は未来の馬に破られて消えても,彼が遺した記憶は,決して消えることはない。
(Retsuden.com-サラレブレッド列伝-第30話「永遠の幻―サイレンススズカ列伝」 より)
上記の文章は,かつてサイレンススズカについて書き下ろされたものだが,今や我々は,この文章がサンデーサイレンスのためにも捧げられる時代を生きているのである。
このように,「Kanon」に秘められていた"サンデーサイレンス・メタファー"とは,1999年当時においては予言であり,2006年現在においては追想だったのである。何という深遠だろうか…。「Kanon」という物語の中に,このような一読しただけでは到底発見できない,しかし実際には極めて峻厳かつ真摯なメッセージが競馬に対して向けられていることに気付いたとき,筆者は深い感動に胸を打ち抜かれてしばらくは言葉も出なかった。
我々競馬ファンは,競馬場へ来て,馬を見て,馬券に勝つ。それは永遠のように繰り返される日常。まるで競馬という営みは,未来永劫不滅であるかのような隆盛の真っ只中にある。しかし思い返してみてほしい。21世紀が到来してからのほんの数年間だけでも,どれだけの競馬場が消滅し,有名無名の人馬たちがターフを去ったことだろう。サンデーサイレンスですら,例外ではなかったのである*64。
競馬という営みもまた,果てしなく残酷で,果てしなく優しいのだ。
このような発見に基づき,「Kanon」の水瀬名雪シナリオをリプレイしてみると,同シナリオにおける"Bond(絆)"というテーマは,作品内における登場人物たちの営みだけを捉えていたのではなく,競馬という営みに対する普遍的なメッセージでもあったことを痛感させられる。競馬ファンが「Kanon」のことを愛してやまなかったとするならば,それは「Kanon」が競馬という営みに向けていた優しいまなざしに,無意識のうちに感応していた結果だったのかもしれない。
「まじかる☆さゆりん杯」が開催された高崎競馬場は消滅したけれども,タッキーくんと人間がダートコースを疾走した事実は永遠に消えない。サンデーサイレンス亡き後も,たとえ記憶の共有が不可能であっても,人々は記録を介して同馬の種牡馬としての業績を語り継いでいくことだろう。かつて,ヒンドスタンやテスコボーイ,ノーザンテーストがそうであったように。「まじかる☆さゆりん杯」も,サンデーサイレンスも,"思い出"に還っただけ。私たちに起きた出来事は,たとえ過ぎ去ろうとも,どれも消えることがない。
競馬という営みもまた,“思い出”の中に還っていく―。
馬は,愛や思いやりの素晴らしさ,現実の厳しさも美しさも,すべてを教えてくれる。馬が果たした役割の大きさは,かくも計り知れない。
そこに馬がいたから。馬は,常に人間の傍らに在る―。(文責:ぴ) *65
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*2:定義は,kaien「ビジュアルノベル論 多世界解釈と同一世界解釈」(2004年,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402)による。
*3:「『過去』は何より『思い出された/語られた過去』であり,目の前の相手との関係性を前提としてのみ意味を持つものである」,今木「ひとりでは思い出せない」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#5)より。もっとも,今木氏は後述の"遡及的過去形成"の立場から「そのようにして思い出されたものが『過去の真実』であるかどうかは甚だ心許ない」とする。しかし,"確定的過去共有"の立場からいえば,磐石な客観的実在的な『過去』が存在しているが,『現在』における重要度・必要性に応じて,思い出されるべき『過去』が取捨選択されているに過ぎない,ということになる。
*4:涼元悠一「ノベルゲームのシナリオ作成技法」(2006年,秀和システム,ISBN:4798013994)83頁以下,同167頁以下より。
*5:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「黒須ちゃん,練る(3) 一般的なマルチシナリオ型ノベルゲーの構造」(2005年11月,d:id:crow_henmi:20051101#1130830269)より。
*6:ササキバラ・ゴウ「傷つける性 団塊の世代からおたく世代へ―ギャルゲー的セクシャリティの起源」(2003年3月,角川書店『新現実 vol.2』所収 / cf.2005年,d:id:genesis:20050728:p1)より。
*7:定義は,kaien「ビジュアルノベル論 多世界解釈と同一世界解釈」(2004年,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402)による。
*8:火塚たつや「ビジュアルノベル論」(2004年,http://tatuya.niu.ne.jp/dialy/04/02.html#19)より。
*9:アシュタサポテ「ギャルゲーの定義」(2000年2月,http://astazapote.com/archives/200002.html#d16)より。
*10:今木「初期設定における同一性など」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#4)より。
*11:この例は,kaien「ビジュアルノベル論 多世界解釈と同一世界解釈」(2004年,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402)による。
*12:「作品の深層,すなわちシステムの水準では,主人公の運命(分岐)は複数用意されているし,そのことはだれもが知っている。しかし作品の表層,すなわちドラマの水準では,主人公の運命はいずれもただひとつのものだということになっており,プレイヤーもまたそこに同一化し,感情移入し,ときに心を動かされる。ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾と感じない。彼らは,作品内の運命が複数あることを知りつつも,同時に,いまこの瞬間,偶然に選ばれた目の前の分岐がただひとつの運命であると感じて作品世界に感情移入している。」,東浩紀「過視的なものたち(データベース的動物)」(2001年初出,講談社現代新書『動物化するポストモダン』123頁所収,ISBN:4061495755 / cf.2003年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#9 / cf.2003年, http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#11)より。
*13:拙稿「競馬サブカルチャー論・第16回:馬と『Fate/stay night』〜「燃え」によるビジュアルノベルの復興/英雄的"馬"表現の金字塔〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060417:p1)も参照されたい。
*14:拙稿「競馬サブカルチャー論・第19回:馬と『ひぐらしのなく頃に』〜陰謀か。偶然か。それとも祟りか。〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060828:p1)も参照されたい。
*15:涼元悠一氏発言「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」(2001年,『カラフル・ピュアガール』2001年3月号所収)より。また,同じインタビューで麻枝准氏も「アドベンチャーゲームの墓場が見えてしまう」と発言している。
*16:現に,PS2版「ひぐらしのなく頃に祭」(アルケミスト,2006年)は選択肢分岐を含むマルチシナリオ型ノベルゲーム1枚で発売される。
*17:「鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」「暇潰し編」「目明し編」「罪滅し編」「皆殺し編」「祭囃し編」
*18:1992年以降について解析した論考として,「美少女ゲームのパラダイムは4年で交代する〔仮説〕」(2006年,d:id:genesis:20060406:p1)を参照されたい。
*19:かえってきたへんじゃぱSS「共通設定ではやっぱり弱いわけです」(2005年,d:id:K_NATSUBA:20051112)より。
*20:サブシナリオがメインシナリオを喰おうとするのも,この一例だろう。涼元悠一「ノベルゲームのシナリオ作成技法」(2006年,秀和システム,ISBN:4798013994)172〜176頁も参照されたい。
*21:というよりも,文章を読んでも判らないときは,書いた本人に尋ねるのが手っ取り早いというだけのことである。
*22:"メタ的必然性のある物語"か否かという観点から分析した論考として,族長の初夏「ノベルゲームの『読み方』」(2006年,http://umiurimasu.exblog.jp/4607988/)も同旨。cf.http://rosebud.g.hatena.ne.jp/milkyhorse/20061103/1162526613
*23:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「巡り巡るKanonの季節」(2006年6月,d:id:crow_henmi:20060607#1149687431)より。
*24:しかも,この「夢」を見ている人物は,1月7日未明に挿入される1回目の「夢」にある「夕焼け空を覆うように,小さな子供が泣いていた。どうすることもできずに,ただ夕焼けに染まるその子の顔を見ていることしかできなかった」という描写から,早くも月宮あゆに特定可能なのであって,そこに相沢祐一が見ている夢かもしれないというような余地は残されていない
*25:kaien「ビジュアルノベル論 多世界解釈と同一世界解釈」(2004年,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402)より。
*26:まさかとは思うが,(1)「名雪のことを好きでいられたこと…(水瀬名雪シナリオ)」「それが俺の初恋だった(月宮あゆシナリオ)」「俺が当時恋いこがれていた女性の名だった(沢渡真琴シナリオ)」というそれぞれの祐一の独白や,(2)祐一とヒロインとの別れが,名雪とあゆとは7年前,真琴とは7年以上前,舞とは10年前となる点を指して,シナリオごとに描写される祐一の過去に矛盾があるというのならば,それは失当である。特に前者は,マルチシナリオ解釈方法論で処理すべき事柄ではなく,既述の「一人称の語り手は信用できない」という次元の問題に過ぎない。
*27:全シナリオ脱稿後のこととはいえ,本作の制作過程では,久弥氏と麻枝氏との間では現に脚本のすり合わせが行なわれ,キャラクター相互間で時系列や場所の矛盾解消が図られているのである。久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より。
*28:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「いまさらながら『Kanon』における奇跡の扱い,みたいなこと」(2006年,d:id:crow_henmi:20060526)も同旨。曰く,「『誰かを助ければ,誰かが死ぬ』みたいな解釈が生まれるのは,プレイヤーが神の視点で物語世界の全てを見下ろせる存在だからなのだけど,そこには『全体を見下ろせるがゆえに,それを関連付けてひとつの世界と解釈してしまう』錯誤(があって)…この錯誤の身体的感覚における根強さ(とは)…全部体験したものだから全部同じ感覚的次元に存在しているものであって,それが世界の一体性へと流れて行くことは必然的なのだ(というものである)」。
*29:伏線ともいう。
*30:【名雪】「祐一に思い出してもらいたいって願ってる人がひとりでもいるのなら,思い出した方がいいと思うよ」/この台詞のように,シナリオごとに意味が可変的なセンテンスは多い。
*31:制作者意思もこのことを強調している。「明確な答えを用意するのが好きじゃないんです…けど,手を抜いているわけでもない(んですよ)…ほんと,ユーザーさん次第です」,久弥直樹氏発言「Key Staff Interview 6 久弥直樹」(2000年,エンターブレイン『Kanonビジュアルファンブック』より
*32:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「忸怩たるイマ(4)―誤読せよとロミオは云った 」(2006年,d:id:crow_henmi:20060519#1148071028)も同旨。この指摘は,そのまま「Kanon」に前倒しすることができる。
*33:BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「日々雑感 趣味の問題,あるいは便宜性の問題」(2006年,d:id:crow_henmi:20060102#1136183137)より。
*34:「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年,d:id:imaki:20051119#p1 所収)より。
*35:まるで「CLANNAD」(Key,2004年)のプロットを想起させるようなアイデアを2000年当時の久弥直樹氏が持っていたということは,そっと記憶に留めておきたいところである。
*36:ちなみに,久弥直樹氏の同人誌『if 〜Kanon another story〜』(2000年,C59,Cork Board)所収の「if」を読んでしまっていると,上記の感慨がいっそう強くなるかもしれない。この短編は,美坂栞シナリオ「名前のないクラス替え」ENDのエピソードである。あゆが姿を消し,栞が病死した後,それぞれ悲しみや後悔,謎を抱えることになった祐一,香里,北川(なぜか)。そんな彼らの「思い出」のかけらが集まったとき,誰もが小さな奇跡の終わったことを悟る―「そんな,つまらない話」である。うわあ。
*37:"実質的意味のビジュアルノベル=形式的意味のビジュアルノベル+恋愛ADV"と同義といっても差し支えない。
*38:世界律の面白さのこと。アドベンチャーゲームにおいて,選択肢の正解を探る行為も,その物語世界における世界律=ルールを探る行為であり,これもまたシミュレーションゲーム性に含まれる。
*39:リアクションの面白さのこと。テキストを送るためのマウスクリックにゲームとしての面白さを付与したものであり,「文章を読む→クリックする→新しい文章が表示されてキャラクターの表情が変わる」という繰り返しによる面白さの演出である。/cf.http://memoria.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%af%e3%81%ae%e5%bf%ab%e6%a5%bd/紀田伊輔「ギャルゲーテキスト論-指先の感情移入-」(2000年,http://www.tinami.com/x/review/01/page2.html),アシュタサポテ「エロゲーの持つゲームとしての身体性・肉体性」(2000年,http://astazapote.com/archives/200006.html)も同旨。
*40:キャラクターやシチュエーションについてプレイヤーが想像を広げること,つまりゲームから離れて二次的に創作することの面白さ。ゲームをプレイしている間,プレイヤーはキャラクターが三次元に生きているものと認識してその行動を想像するようになる。つまり,脳内で二次創作する。
*41:同じような行動の反復が生む恍惚のこと。アクション性に支えられたルーティーンワークによって,トランス的な悦びが生まれる。
*42:元長柾木「回想―祭りが始まり,時代が終わった」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』所収/cf.http://memoria.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%80%8c%e5%9b%9e%e6%83%b3%e2%80%95%e2%80%95%e7%a5%ad%e3%82%8a%e3%81%8c%e5%a7%8b%e3%81%be%e3%82%8a%e3%80%81%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%8c%e7%b5%82%e3%82%8f%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%80%8d)より。元長氏による"ゲーム性"の定義は,マルチエンディングを重視する東浩紀氏の分析とは異なる。東浩紀氏発言「美少女ゲームは『ゲーム』なのか」(2006年,http://www.hirokiazuma.com/archives/000247.html)を参照されたい。
*43:伊達に,コミケで1回は天下を取ったわけではないのである(C57における関連同人誌冊数を想起せよ)。
*44:「ONE〜輝く季節へ〜」や「AIR」に勝るとも劣らない
*45:2000年夏のコミックマーケット(C58)で配布された,Cork Board名義の同人誌。
*46:のり@臥猫堂「批評 Kanon」(2005年,http://homepage2.nifty.com/nori321/review/kanon.html)より。
*47:「両手には降り注ぐかけらをいつまでもいつまでも抱いて」,「Kanon」OP『Last regrets』より。
*48:【あゆ】「きっと,祐一君にとって,名雪さんは特別なんだよ」
*50:他にも,OP「Last regrets」イントロのシューシューいう効果音が,病院のベッドで眠り続けるあゆの呼吸音ではないかとか,あゆの想念と祐一の想念が交感して"夢の世界"の次元が街を覆い尽くす音ではないか,といった具合に想像逞しく語られるのもこの一例だろう。
*51:マルチシナリオのゲーム原作を一本道ルートのシナリオでテレビアニメ化することに関する問題意識については,BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「巡り巡るKanonの季節」(2006年,d:id:crow_henmi:20060607#1149687431),KAZUMiX memo「Kanon PRELUDEを観て思ったこと」(2006年,d:id:KAZUMiX:20060829:1156862944)を参照されたい。
*52:え。
*53:公式サイトは,http://www5.airnet.ne.jp/multi/sayuhai.htm。
*54:第1期TVアニメ版「Kanon」(2002年,東映アニメーション)の第4話「夜へ」Bパート・アイキャッチにおいて,その映像化が実現したことは本当に衝撃的だった。/cf.http://www.toei-anim.co.jp/tv/kanon/c_4a.html
*55:ちなみに,勝ったサクラエスポワールは,倉田佐祐理さんと同じ5月5日生まれ。
*56:http://www5f.biglobe.ne.jp/~hck/WLTD4.htm
*57:え。
*59:舞台探訪アーカイブ Kanon〜京都アニメーション版〜より。
*60:この他にも,「息子たちが海外の友人からテリー,カーリー,ハリーと呼ばれているのなら,私はゼリーと呼ばれたい」という名台詞がある。吉川良「血と知と地―馬・吉田善哉・社台」(ミデアム出版社,1999年)所収。
*61:いわゆる旧・社台ファーム。現在は社台ファーム,ノーザンファーム,追分ファーム,白老ファーム,社台スタリオンステーション,社台レースホース,サンデーレーシング等から構成される社台グループに発展している。
*63:間違っても,イシノサンデー7頭分ではない。それでも相応の値段になるが。
*64:そして,そのことは私たち競馬ファンも同様である。競馬を見届けることができなくなる日は,いつか必ずやって来るのだから。
*65:すべての先行文献の執筆者の皆様に,深く感謝いたします。
競馬サブカルチャー論・第20回:馬と『Kanon』その4〜主な先行文献の相関関係〜
競馬サブカルチャー論とは
この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで,歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し,数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と,その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
―馬は,常に人間の傍らに在る。
その存在は,競馬の中核的な構成要素に留まらず,漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では,サブカルチャーの諸場面において,決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
※本稿には,PCゲーム版の内容に関する強烈なネタバレが含まれています。本文に施されている注釈は,熟読したい人向けです。なお,ゲーム版を"水瀬名雪"→"沢渡真琴"→"川澄舞"→"月宮あゆ"→"美坂栞"*1の順でクリアした後の読者を想定しています(え)。
1.Visual Art's/Key 『Kanon』より
2."ジュブナイルファンタジー"としての「Kanon」
1) 文芸様式としてのファンタジー
1:「Kanon」におけるファンタジーの世界観〜"夢の世界"と"風の辿り着く場所"
1) ヒロインたちの"幼さ"に関する傍論
2:「Kanon」におけるシュブナイル的な主題〜"思い出"に還る物語
1) 月宮あゆシナリオにおける"ジュブナイルファンタジー"の構成
3.「Kanon」における"奇跡"のガジェット〜小さな"奇跡"の物語
1:"奇跡"は月宮あゆの力による超常的な救済なのか
2:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(1)〜あり得ないはずの状態
3:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(2)〜超常的な救済
1) 水瀬名雪シナリオの場合
2) 月宮あゆシナリオの場合
4:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(3)〜日常の中にある非日常的な状態
1) 久弥直樹・麻枝准両氏のシナリオ方向性の比較
5:多義的に用いられる"奇跡"という言葉(4)〜日常的な,奇跡のように思える偶然
1) 世界は果てしなく残酷で,果てしなく優しい
2) あらゆる物語可能性に想いを馳せる
6:あるヒロインが助かると,他のヒロインは助からない?
1) "同一世界解釈/確定的過去共有"とは
2) "多世界解釈/遡及的過去形成"とは
3) マルチシナリオ解釈方法論に見る比較不能な価値の迷路
4) 「Kanon」に見る"確定的な過去共有"の推測的未来
7:それは,思い出のかけらが紡ぎ出す,小さな"奇跡"の物語
1) 7年ぶりだね。わたしの名前,まだ覚えてる?
4.馬と「Kanon」(←ここから読んでも無問題)
5.主な先行文献の相関関係
主な先行文献の相関関係
ファンタジー様式論+ジュブナイル主題論
◆ファンタジー説
- Jun Yokoyama「Kanon ファーストインプレッション」(1999年6月,http://web.archive.org/web/20010111200500/http://www.imasy.or.jp/~nysalor/kanon.html)
◆ジュブナイル(シリアスドラマ)説*2
- 源内語録「『Kanon』考察 序章 肯定・否定の根底にある,今日性の考察」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20040313203053/http://www.erekiteru.com/gengoro/000020.html)
- 源内語録「『Kanon』考察 本章 「Kanon」とは表層のファンタジーとは裏腹のシリアスドラマである」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20030711040412/http://www.erekiteru.com/gengoro/000021.html)
- 源内語録「『Kanon』考察 最終章 ゲーム「Kanon」から出発するサブカルチャーの社会論的断章」(1999年8月,http://web.archive.org/web/20040329102047/www.erekiteru.com/gengoro/000022.html)
- Kanonのメッセージはどれだけユーザーに届いたのか?/メディアでのこのテーマの扱われ方/なぜ,少女達はこの問題から自由でいられるか?そんな閉塞した時代の男の子生き方は?/物語を棄てた作家達
◆"ジュブナイルファンタジー"説*3
- 火塚たつや「『Kanon』構造分析〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜」(1999年9月,http://tatuya.niu.ne.jp/review/kanon/%5Bkanon%5D.html)
◆"ジュブナイル"+"ファンタジー"説β*4
- 総論:フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_index.html)
- 序論
- 第1部 世界を呑んだ少女
- 第2部 AYU
- 第3部 Kanon
- 各論:フジイトモヒコ「Last examinations」(2000年9月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/L.e_index.html)
- 序論
- 第1回 ONE前提考察
- はじめに/物語ということ/「過ぎていくものだから,それは大切なこと」 では,「過ぎないこと」はどういったこと?/【永遠否定=流転】⇔【流転否定=永遠】/ONEとKanonとの比較と,キーワード『絆』の継承
- 第2回 §1,NAYUKI〜Bond〜 「わたしの名前,まだ覚えてる?」
- 第3回 §2,SHIORI〜Time Limit,1〜 「起きないから,奇跡っていうんですよ」
- 第4回 §3,MAKOTO〜Time Limit,2〜 「春が来て…ずっと春だったらいいのに」
- 第5回 §4,MAI〜Break Eternity,1〜 「私は魔物を討つ者だから」
- 第6回 §EX,SAYURI〜Cure〜 「相手に幸せを与えて,みんなで一緒に幸せになる」
- 第7回 §5,AYU〜Break Eternity,2〜 「……約束,だよ」
- 第8回 The last examinations
- 各論:フジイトモヒコ「『舞』〜タナトスの牢獄〜」(1999年10月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/mai_tana_index.html)
- 各論:ほんだなおと「『舞』〜タナトスの牢獄〜」解説(1999年10月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/mai_tana_exp.html)
- よしづきみのる「Kanon 舞シナリオに関する考察」(1999年7月,http://www6.airnet.ne.jp/mandn/favorite/mai_txt.html) *5
- 雪駄「「Kanon」における五つの旋律の構成表 ver.0」(1999年11月,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d9911-1.HTM#11.3) *6
- then-d「身体的関係性と経験」(2000年7月,http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe6.htm) *7
- then-d「自己の物語化及び物語の交錯論」(2002年7月,http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe9.htm) *8
◇リアリズム文学的理解からの批判
- しろはた「アフター・エヴァの一つの極北"Kanon"」(1999年8月,http://www.ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/kanon.htm)
- 琥珀色の南風「『Kanon』考察」(2002年1月,http://www1.ttcn.ne.jp/~NIGIHAYAMI/kanon.htm)
- サロニア私立図書館「Miracles do not come true. You only realize miracles by yourself.」(2003年,http://april1st.niu.ne.jp/column/Kanon.html)
主な先行文献の相関関係
「奇跡」論
◆通説(「あゆ+舞+真琴のもたらす超常現象としての奇跡」構成)
- フジイトモヒコ「Der Kanon von "Kanon"世界を呑んだ少女」(1999年11月,http://www22.ocn.ne.jp/~pandemon/text/Der_K_index.html)
◇麻枝シナリオ有力説(「気づいたらそこにあった奇蹟」構成)
- 雪駄「Kanon論考:「奇蹟」から考えるKanonという表現」(1999年,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/kanon4.htm)
- 雪駄「Kanon -日常の視点- 久弥直樹というシチュエーションテラー」(2000年5月,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/kanon6.html)
- のり@臥猫堂「批評 Kanon」(2005年1月,http://homepage2.nifty.com/nori321/review/kanon.html)
◇久弥シナリオ有力説(「不確定・多義的な奇跡」構成)
- 今木「忸怩たるループ "miracle and sacrifice"? 」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2)
- 今木「八月の残りの日 Kanonにおける奇跡の扱い」(2005年11月,d:id:imaki:20051119#p1)
- 今木「現実の偶然性(外因)はどこまでも残酷にも優しくもはたらくという認識」(2000年2月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/g0002.shtml#07)
- 今木「取るに足らぬ出来事による『中断』」(2003年11月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200311.html#21)
主な先行文献の相関関係
マルチシナリオ論*9
◆通説(「同一世界解釈=確定的過去共有」説,ゲームシナリオ構成)
- 高御結「Kanon ロングレビュー」(2000年,http://www.himorogi.jp/denpa/review/kanon.html)
- 雪駄「持っているはずの完備情報を取り戻す事であるというシナリオ構造」(2000年5月,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d0005-3.HTM#5.27) *10
- 雪駄「Kanon -日常の視点- 久弥直樹というシチュエーションテラー」(2000年5月,http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/kanon6.html) *11
- then-d「自己の物語化及び物語の交錯論」(2002年7月,http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe9.htm) *12
- ササキバラ・ゴウ「傷つける性 団塊の世代からおたく世代へ―ギャルゲー的セクシャリティの起源」(2003年3月,角川書店『新現実 vol.2』所収,cf.d:id:genesis:20050728:p1)
- 高橋直樹「誰かを守ると言うことは,他の誰かを守らないということだから」(2003年8月,http://web.archive.org/web/20041013173715/http://www2.osk.3web.ne.jp/~naokikun/diary17.htm#030804) *13
- trivial「世界と感覚とヴ」(2003年8月,http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308a.html#p030804a)
- ASTATINE「Kanon評。」(2005年3月,http://blog.livedoor.jp/april_29/archives/16475542.html) *14
- kaien「ビジュアルノベル論 多世界解釈と同一世界解釈」(2004年2月,http://web.archive.org/web/20041115042110/http://d.hatena.ne.jp/kaien/200402) *15
- bmp_69「エロゲーADVの構造分析序説」(2005年11月,http://bmp69.net/archive/erogeadv.html) *16
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「黒須ちゃん,練る(3) 一般的なマルチシナリオ型ノベルゲーの構造」(2005年11月,d:id:crow_henmi:20051101#1130830269) *17
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「黒須ちゃん,練る」(2005年10月,d:id:crow_henmi:20051021#1129836246)
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「黒須ちゃん,練る(2)」(2005年10月,d:id:crow_henmi:20051026#1130297150)
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「黒須ちゃん,練る(補論) コンプリートという審級と『意思決定の無効性』」(2005年11月,d:id:crow_henmi:20051102#1130921701)
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「黒須ちゃん,練る(メモ2) メモと疑問」(2005年11月,d:id:crow_henmi:20051123#1132731154)
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「悲劇の操作性について 」(2006年7月,d:id:crow_henmi:20060722#1153596088)
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「日々雑感 趣味の問題,あるいは便宜性の問題」(2006年1月,d:id:crow_henmi:20060102#1136183137) *18
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「忸怩たるイマ(4)―誤読せよとロミオは云った 」(2006年5月,d:id:crow_henmi:20060519#1148071028) *19
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「忸怩たるイマ 」(2006年5月,d:id:crow_henmi:20060509#1147157421)
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「忸怩たるイマ(2)―「CROSS†CHANNEL」との類似性・対称性」(2006年5月,d:id:crow_henmi:20060510#1147263208)
◆同一世界解釈=確定的過去共有のまま単一シナリオ構造を採ることへの問題意識
- BLUE ON BLUE(XPD SIDE)「巡り巡るKanonの季節」(2006年6月,d:id:crow_henmi:20060607#1149687431)
- KAZUMiX memo「Kanon PRELUDEを観て思ったこと」(2006年9月,d:id:KAZUMiX:20060829:1156862944)
◇有力説(「多世界解釈=遡及的過去形成」説,ゲームシステム構成)
- アシュタサポテ「ギャルゲーの定義」(2000年2月,http://astazapote.com/archives/200002.html#d16)
- 2.14「死刑台のエロゲーマー(死エロ)」(2000年11月,http://www.geocities.com/lovelyaichan2000/11.html#16)
- 東浩紀「過視的なものたち(データベース的動物)」(2001年1月初出,講談社現代新書『動物化するポストモダン』所収,cf.2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#11)
- 東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」(2003〜2005年『ファウスト』1〜4号所収,講談社現代新書『動物化するポストモダン2』収録予定)
- 2.14「死刑台のエロゲーマー(死エロ)」(2003年8月,http://web.archive.org/web/20040407165056/http://asciipad.at.infoseek.co.jp/0308.html#06)
- 今木「初期設定における同一性など」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#4) *20
- 今木「思い出す」(2002年10月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#6)
- 今木「叙述トリックかも」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#3)
- 今木「ひとりでは思い出せない」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#5)
- 今木「乖離と解離」(2003年9月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#9)
- 2.14「死刑台のエロゲーマー(死エロ)」(2002年7月,http://web.archive.org/web/20031208150913/http://asciipad.at.infoseek.co.jp/0207.html#05) *21
- fulrry「偶有性と二者択一。夢。」(2003年8月,http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200308.html#05_1) *22
- 今木「しあわせに理由はいらないと思います」(2003年8月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200308.html#9) *23
- 今木「『選ばれなかった女の子』が特権的なのかという問題」(2003年8月,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200308.html#6) *24
- 火塚たつや「ビジュアルノベル論」(2004年2月,http://tatuya.niu.ne.jp/dialy/04/02.html#19) *25
- かえってきたへんじゃぱSS「以下,個人的なチラシの裏。」(2005年10月,d:id:K_NATSUBA:20051031#1130788958)
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*2:様式についてはファンタジー説に立つことを前提にした上で,主題論に絞った論考を施しているという意味において,"ジュブナイル"+ファンタジー"説αと分類することもできよう。ただし,ファンタジーとしての様式美については無視する姿勢に終始しており,その分,主題としてのジュブナイル要素が極めてシリアスに強調されている。その背景としては,論者は「Kanon」のファンタジー要素を"奇跡のファンタジー"と捉えているふしがあるからだと思われる。
*3:ファンタジーとしての様式美にも着目する。ジュブナイルとしての構造を"失恋と成長=別離→挫折→克服"と定義し,ファンタジーとしての構造を"消失→帰還"と定義した上で,両構造の不整合を指摘する。問題は,論者の設定した両構造の定義やその当てはめがが適切か否かという点である。論者もやはり,「Kanon」のファンタジー要素を"奇跡のファンタジー"と捉えているふしがある。
*4:論者は,「Kanon」のファンタジー要素を"奇跡のファンタジー"に限られないことを考察し,ファンタジー様式とジュブナイル主題との整合性を見出すことに成功している。少数派かもしれないが,比較的穏健な見解といえよう。
*5:舞シナリオについて参考。
*6:対位法としての"Kanon"シナリオ構成について参考。
*7:名雪シナリオ"秋子さんの交通事故"について同旨。真琴シナリオ"けっこん"について同旨。
*8:佐祐理シナリオについて参考。
*9:"マルチ"のシナリオ論ではない。念のため。
*10:同一過去共有の完備性回避について重要な指摘。
*11:同一過去共有の完備性回避について重要な指摘。
*12:舞シナリオにおける同一過去共有の非歴史性について重要な指摘。
*13:主人公が何もしなくてもそれぞれなんとなく解決したという風には書かれていないという指摘。
*14:「同一世界解釈/確定的過去共有」を所与の前提とした場合の「Kanon」マルチシナリオ構成についての評釈の典型例。
*15:両定義を適切に要約している。
*16:既に終わってしまった,取り返しのできないことを用意しておくシナリオ構造という指摘。
*17:多世界解釈が制作者の意図として繰り込まれ明示されていない限り採るべきでないという指摘。
*18:「Kanon」における「○○を選ぶと○○が死ぬ」問題は確定的過去共有とは別次元という指摘。
*19:「かくあったから,かくある」ではなく「かくあるから,かくあったのだろう」で充分という折衷的見解。「Kanon」にも妥当する。
*20:「共有ルートからツリー状に分岐する,というゲームの形式からは,作品内時間でゲーム冒頭部に相当する時点より以前での世界の固定,という作品内設定は導きにくい」という見解。
*21:「選択肢においては,選択の意味は事後的に決定される」という指摘。
*22:奇跡の連鎖が起こるべきだという主張。
*23:少なくとも物語上の因果によらなければならぬわけではないという主張。
*24:「よかったのかもしれないし,わるかったのかもしれないし,どっちでもないかもしれない」という折衷的見解。
*25:シナリオにおいてほとんどヒロインたちの交流がなく,個々のヒロインたちの物語が互いにクロスしていない点に着目する。
ダーレー・ジャパン・ファームがJRAによる馬主登録申請却下に対し不服申立て
北海道日高町の競走馬生産法人、DJFダーレー・ジャパン・ファーム(高橋力代表)が、9月4日までに、JRA日本中央競馬会への馬主登録申請を却下されたことを不服として、行政不服審査法に基づく異議申立てを行った。
これは、日本経済新聞の9月5日付朝刊紙面で報じられたもの。
ダーレー・ジャパン・ファームは、世界有数の馬主として知られる、アラブ首長国連邦ドバイの首長シェイク・モハメド・アル・マクトゥームの事実上の日本における現地法人の1つである。今年の7月、昨年に引き続き*1JRAに対して馬主登録を申請していたところ、7月5日付で却下されていた(http://www.nikkei.co.jp/keiba/column/20060814a898e000_14.html)。
なお、地方競馬においては、別の現地法人であるダーレー・ジャパン・レーシングが馬主登録を認められており、2005年の羽田杯、東京ダービーを制したシーチャリオットらを送り出している。
今回の馬主登録申請却下については、その理由が「財務上の問題」(Racing Post)と報じられたことなどもあり、国の内外で少なからぬ疑問の声が挙がっていた。これに関連して、米国の競馬雑誌"The Blood-Horse"の記事(http://www.bloodhorse.com/articleindex/article.asp?id=34355)に対し、高橋政行JRA理事長名義で、報道内容が事実と異なるという抗議ならびに経過説明が投稿されたという(http://blog.livedoor.jp/poo0801/archives/50751714.html)。
従来、ダーレー・ジャパン・グループは、「日本の競馬界ならびに馬産界に貢献したい」という立場を表明し、昨年、結局周囲の反発を理由に馬主登録の申請を行わないなど、可能な限り波風を立てない方法を取ってきたように見受けられる。今回、JRAに対する不服申立てを行ったという報道が事実であるとするならば、「波風の立つ」手段を用いてきたとも受け止められうるだけに、ダーレーグループ内部で何らかの方針変更があったのか、その背景が気になるところである。(文責:ま)
ちなみに、日本経済新聞9月5日付朝刊の記事ではダーレー・ジャパン・ファームによる不服申立てが「行政手続法に基づく不服申し立て」として行なわれたと記載されていたが、行政手続法に不服申立てに関する条項は存在しないので、おそらくは"上級行政庁を観念できないみなし行政庁"としてのJRA日本中央競馬会を相手取った行政不服審査法6条所定の異議申立てがなされたことを誤記したものと思われる。
今回の発端となったJRAによる馬主登録申請却下は、日本中央競馬会競馬施行規程8条10号所定の中央競馬馬主登録の拒否事由「調教師に競走馬を継続的に預託することが困難であると認められる者」に該当するという理由に基づくものと推定されるが、JRAは馬主登録申請を却下する決定を行うに際しては、その理由を書面で示さなければならず、しかもその理由は審査基準を数量的指標その他の客観的指標によって根拠付けられる程度に具体的でなければならない(行政手続法8条)。上記の日本経済新聞「サラブnet」の記事が事実だとするならば、高橋力DJF代表に対するJRAからの"公式説明"がないこと自体に違法のおそれがある。
上記の"The Blood-Horse"報道とそれに対するJRAの反論が事実だとするならば、それ相応に具体的な査定が行なわれたことは間違いなく、異議申立てが容れられるためには、企業会計等を巡る専門的な見解の相違が争点となる公算が大きい。他方で、上記の日本経済新聞「サラブnet」の記事が事実だとすると、JRHA日本競走馬協会その他馬主団体の反対が却下の実質的理由だったことになりかねず、法令の要件(日本中央競馬会競馬施行規程8条)以外の事情を考慮した"他事考慮"を理由に当該却下処分を取消すべき余地が生じる。
今後の見通しだが、ダーレーによる異議申立ては学識経験者によって構成されるJRA審査会に付託され、90日以内にその認否が決定されることになる(日本中央競馬会法18条の2、日本中央競馬会法施行規則2条の3)。もっとも、JRA審議会は最初の馬主登録申請を却下した審議機関でもあるので、特段の事情がない限り判断が覆ることはないだろう。そして、異議申立てが再度棄却されたときは、JRA日本中央競馬会を相手取って裁判(行政訴訟)で争うことになると思われる。そこまでこじれると、JRA審査会やその前置審査機関であるJRA馬主登録審査委員会(馬主団体代表も構成員)の議事録や審議経過を詳細に明らかにする必要に迫られることにJRA側はなりかねず、見世物として面白い、もとい馬主資格のあり方について高度に専門的な議論が交わされる契機となることだろう。(文責:ぴ、へ)
*1:昨年は、馬主界などの反発が強いことなどが報じられたためか、実際には申請を行わなかった。
競馬サブカルチャー論・第19回:馬と『ひぐらしのなく頃に』〜陰謀か。偶然か。それとも祟りか。〜
競馬サブカルチャー論とは
この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
―馬は、常に人間の傍らに在る。
その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
※本稿には、「鬼隠し編」から「祭囃し編」までPCゲーム版の内容に関する記載が含まれています。
07th Expansion/竜騎士07「ひぐらしのなく頃に」より
昭和58年初夏。
例年よりも暑さの訪れの早い今年の6月は、
昼にはセミの、夕暮れにはひぐらしの合唱を楽しませてくれた。
××県鹿骨市。県境にある寒村、雛見沢村。
人口2千に満たないこの村で。それは毎年起こる。
雛見沢村連続怪死事件(1979年〜1983年)
毎年6月の決まった日に、1人が死に、1人が消える怪奇。
巨大ダム計画を巡る闘争から紡がれる死の連鎖。
昭和中期に隠蔽された怪事件が、蘇る。
陰謀か。偶然か。それとも祟りか。
いるはずの人間が、いない。
いないはずの人間が、いる。
昨夜出会った人間が、生きていない。
そして今いる人間が、生きていない。
惨劇は不可避か。屈する他ないのか。
でも屈するな。
君にしか、立ち向かえない。
(「ひぐらしのなく頃に」鬼隠し編 より)
「ひぐらしのなく頃に」は、竜騎士07氏を代表とする同人サークル"07 th expansion"によって製作され、2002年8月から2006年8月までの間、「鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」「暇潰し編」「目明し編」「罪滅し編」「皆殺し編」「祭囃し編」の8編に分けて発表・頒布された、同人ゲームソフトである。
「ひぐらしのなく頃に」は、画面に表示される文章を読み進めることによって物語が進行する形式をとっており、さらに効果音や音楽によって文章の効果を高めることも志向されていることから、通常は"ビジュアルノベル"に分類される。もっとも、「ひぐらしのなく頃に」はいわゆるマルチエンディングの形式をとっておらず、それどころかゲーム内に一切の有意な"選択肢"が存在しないため、そのプレー形式は、ひたすらにマウスの左ボタンをクリックし続け、作者によってあらかじめ定められた物語を定められた順番に従って読み進めていくというものでしかない。そのため、一部には「ひぐらしのなく頃に」とはPCを媒体とした小説であり、ゲームであることを前提としたビジュアルノベルと呼ぶべきではないという見解も根強く存在している。
この点、原作者である竜騎士07氏は、「ひぐらしのなく頃に」がゲームか否かと問われた際に、「インターネットを通じて不特定多数の読者とともに推理を楽しむことによってゲームたりうる」と答えている。しかし、この解釈による場合、ネタバレ回避等の目的に基づきインターネットの情報をあえて遮断してプレーするユーザー、あるいは既に物語が完結してネット上にも真相が流布された後にこの作品を入手したユーザーにとっては、もはやゲームたりえないのではないかという指摘が可能である。また、物語の進行中にインターネット上で考察がされるのは紙媒体の推理小説においても同様であるが、これらの推理小説を"ゲーム"と分類するのは困難であることからしても、作者の説明である一点をもって説明十分というわけにはいかない。
思うに、プレイヤーの技術や偶然に左右されるアクション性やシミュレーション性―"ゲーム性"と総称されるものをゲームから切り落とすという方向性は、「ひぐらしのなく頃に」以前から存在していた。コンシューマーゲームの「弟切草」に端を発する"ビジュアルノベル"というジャンルは、あらかじめ作者によって設定されたテキスト文、CG、音楽等の情報コントロールという手段のみで完結する娯楽である点に本質がある。無論、こうした要素は従来のゲームの一部としては既に存在していたものだが、"ビジュアルノベル"という単体のジャンルは、"ゲーム性"の排除によって読者の関心をシナリオに集中させ、そのシナリオの完成度を徹底的に追求することによって成立したという歴史的経緯がある(なお、ビジュアルノベルと18禁ゲーム界の関係については「馬と『Fate/stay night』」参照)。
ならば、その方向性の究極の到達点として"有意な選択肢が存在しない"という形式が採用されるのは道理であり、現に、"ビジュアルノベル"形式でありながら有意な選択肢がほとんど存在しないゲームも、「ひぐらしのなく頃に」のリリースより早い時点で既に発売されていたこと(一般的な評価は低かったにしても)も、見落としてはならない。その意味で、「ひぐらしのなく頃に」は、やはりゲームに分類することが妥当であろう。
ところで、「ひぐらしのなく頃に」が"ゲーム"に属することを前提としてビジュアルノベルに分類した場合、この作品に用いられている技術的水準は、決して高いものとはいえないことに気づく。
「ひぐらしのなく頃に」の長所とされるのは、テキスト文の平易さ・読みやすさ、音楽・効果音といった、ビジュアルノベルと呼ばれるために最低限必要な要素における水準の高さである。しかし、それ以外の付加的要素についてが、「ひぐらしのなく頃に」には極端に薄い。有意な選択肢が存在しないこともそのひとつだし、作成に技術を要する一方で2002年ころには既にビジュアルノベルに不可欠の魅力と位置づけられていたはずのいわゆるイベントCGについても、「ひぐらしのなく頃に」に登場するのは、全編を通じてなんと「罪滅し編」での1枚だけ(しかも、その評判は極めてよろしくない)である。
同人ゲームである「ひぐらしのなく頃に」に商業ゲームと同水準を求めるのは酷、という声はあろうが、「鬼隠し編」の2年前に登場し、今なお同人ゲームの代名詞として語られる「月姫」(「半月版」は2000年8月、「完全版」は同年12月リリース)がイベントCGを豊富に投入してファンの感嘆を誘っていることからすると、同人ゲームであるという一点のみをもって「ひぐらしのなく頃に」のイベントCGの少なさを全面的に擁護することはできないだろう。
しかし、「ひぐらしのなく頃に」において特筆すべきは、それらの点ではない。2002年当時、「ひぐらしのなく頃に」より優れた技術を投入し、革新的なシステムを投入していた同人ゲームは少なからず存在していた。そうであるにも関わらず、数多の同人ゲームの中で、同人という枠を大きく超えた成功を収めたのが、"ありふれた技術的水準"で製作されたはずの「ひぐらしのなく頃に」だったことにこそ、この作品の深遠さがある。
「鬼隠し編」の頃にほとんど注目するファンはいなかったという「ひぐらしのなく頃に」だが、物語の進展につれて次第に固定ファンがつき始め、「暇潰し編」までの前半部分が完結した時点で体験版として「鬼隠し編」の公式HPからのダウンロードが可能になると、「ひぐらしのなく頃に」の人気は燎原の火の如く広がっていった。今や、「ひぐらしのなく頃に」はアニメ化、漫画化、コンシューマーゲーム進出―とその勢いはまったくとどまるところを知らない。2006年8月時点において「ひぐらしのなく頃に」と比較しうる同人ゲームといえば、もはや既出の「月姫」以外には存在しない。比較対象を商業作品も含めたゲーム界全体まで視野を広げたとしても、近年でこのクラスの成功を収めたものは数えるほどしかない。
「ひぐらしのなく頃に」がこれほどまでに成功した理由を、思いつくままにいくつか挙げてみよう。
このゲームは、冒頭で紹介したとおり、主人公・前原圭一とその仲間たちが、原因不明の"雛見沢村連続怪死事件"に立ち向かうという内容である。村の守り神であり、また村の敵に祟りをもたらすとされる"オヤシロさま"の伝説が伝わる村で、毎年祭りの夜に1人が怪死し、1人が消えるという魅力的な舞台設定と、物語を伝える竜騎士07氏の平易な文章、効果的に挿入される音楽・効果音のコラボレーションは、プレイヤーを物語世界に引きこみ、かつその心に恐怖を引き起こすという目的を最大限に現実のものとしている。
ゲームにしろ小説にしろ、製作者とプレイヤーの関係において最も困難なのは、なんら共通の社会的基盤を有していない両者の間に、物語世界という共通の基盤を構築することである。まして、"恐怖"というものは、理論ではなく感覚である。言語によって理論を共有することは容易だが、感覚を共有することは極めて困難であるはずだが、「ひぐらしのなく頃に」がその困難を乗り越え、本来不可能の領域に属する恐怖感覚の共有を成し遂げたことは特筆に値するといえよう。
また、ゲーム内でプレイヤーの恐怖心をかき立てるために奇襲的に用いられる演出―「鬼隠し編」におけるあるヒロインの突然の変貌や、「綿流し編」での突然の○○の写真の挿入も、それ以前に叙述される平和な日常に慣れたプレイヤーを非日常の世界へ引きこむ手段として、実に秀逸であった。
前記のとおり、これらのシーンに用いられている技術は、ゲーム製作のために必要な技術としては、そう高度なものではない。しかし、このゲームにおいては、最善のタイミングで発動される平凡な技術が、秀逸な技術を大きく上回る効果をもたらしている。まさに、発想の勝利である。「ひぐらしのなく頃に」は、高度な技術を持たないスタッフが、比較的手っ取り早い技術によって実現できる手法だけを武器に、その組み合わせの妙を最大限に生かすことで成功の原動力とした好例といえる。
さらに、「ひぐらしのなく頃に」の全8編、4年にわたるリリース期間が゙プラスに作用したという側面も否定できない。「ひぐらしのなく頃に」は、もともとリリースの予定が半年に1本(夏・冬、年2回というコミックマーケットの予定に合わせられている)、完結まで丸4年という、同人ならではのゆっくりしたペースでなされた。
もし「ひぐらしのなく頃に」が商業ゲームだったとしたら、このようなペースでのリリースは許されなかったであろう。しかし、同人ゲームであった「ひぐらしのなく頃に」の場合、1編がリリースされてから次の編がリリースされるまでの"間"がそのままインターネット等での議論の熟成期間となり、評判が口コミで広まる宣伝期間ともなった。
かつて、ファミリーコンピューターのディスクシステムで、「前後編」という構成をとったアドベンチャーゲームが存在した。「新・鬼が島」、「ファミコン探偵倶楽部・消えた後継者」「ファミコン探偵倶楽部2・うしろに立つ少女」等が有名なこのシステムは、もともとはディスクシステムの容量が限定されていたことから、大容量のアドベンチャーゲームを実現させるために考え出された苦肉の策だった。しかし、開発の都合上前編・後編の同時発売ができず、数ヶ月のタイムラグが生じたこれらのゲームにおいて、プレーヤーたちは物語がいよいよ進展しようとする前編のラストで"こうへんにつづく"とお預けを食らい、悶々たる思いで後編の発売を待望せざるを得なかった。…作者が是を意識していたのかどうかは分からないものの、「ひぐらしのなく頃に」はこのお預けを7回食らわせることで、プレイヤーたちの欲望を支配し、自らに対する期待を高めることに成功したのである。
その他の「ひぐらしのなく頃に」の特徴として、完結するまでジャンルが明確にされず、それゆえに幅広い層のプレイヤーを獲得したという点も挙げられよう。
「祭囃し編」がリリースされ、「ひぐらしのなく頃に」の世界が無事完結した今になってみれば、「ひぐらしのなく頃に」の主題・ジャンルがなんだったのかを語ることは可能である。「ひぐらしのなく頃に」で提示された謎は超常的な現象によって初めて説明しうるものであり、その意味で「ひぐらしのなく頃に」はホラー的要素の強い物語だった。しかし、「ひぐらしのなく頃に」が完結する以前の段階においては、最初からホラー作品として紹介されていたわけではない。
「ひぐらしのなく頃に」のうち、プレイヤーに"謎"を投げかける「暇潰し編」までの前半部分―いわゆる出題編のみがリリースされ、それ以降の後半部分は未発表だった時期、製作者である竜騎士07氏は、出題編での"謎"の解決が純粋な"推理"によってもたらされるのか、それとも"ホラー"の要素を含むものなのかについて、明確にしないというスタンスをとっていた。この手法は、結果的に「ひぐらしのなく頃に」に注目するファン層をより広範なものとし、推理小説として楽しみたい人、ホラーとして楽しみたい人、どちらなのか解決をつけてもらいたい人をすべて集結させることになった。「ひぐらしのなく頃に」のプレイヤーたちの中には、結果的に正しかった"ホラー派"だけでなく、出題編の前半時点での"正解率1%"という煽り文句に乗せられた"推理派"がかなり多数含まれていた。「ひぐらしのなく頃に」の人気は、それらの総和によって構成されたものである。
もっとも、この手法はいわば諸刃の剣であり、特にすべての謎が人為的・論理的なものとして解決されることを期待していた層からは、最終的に示された"解答"に対して少なからぬ不満の声があがる結果となったことも事実である。文学の中で最大のファン数を占めるミステリー小説、特に古典的推理小説においては、謎に対する解答は、読者に予測、せめて了解可能なものでなければならないとされている。そこでは謎を解き明かすために必要な情報が事前に読者に与えられ、読者がその情報に基づいて真実にたどり着くことが可能な作品が優れているとされ、そのための作法は"ノックスの十戒"、"ヴァン・ダインの二十則"等の形で半ば常識となっている。
「ひぐらしのなく頃に」を純然たる推理小説としてとらえた場合、その解答は、推理小説における事件の解決に用いてはならないとされる性質のものである点が少なくない。例えば"凶器は未知の薬物"という点は"ノックスの十戒"、"ヴァン・ダインの二十則"の双方に抵触するし、"真の敵は秘密結社"という点も"ヴァン・ダインの二十則"に抵触する。"ノックスの十戒"、"ヴァン・ダインの二十則"は必ずしも絶対的なものとはいえず、これらの中には"真犯人が中国人であってはならない"という意味不明なものや、"探偵が犯人であってはならない"といった時代遅れのものが含まれること、後にこうした定義に反発する動きも顕在化し、これらに反するトリックを用いた作品も少なからず名作として認知されるに至っている点などを考慮しても、「ひぐらしのなく頃に」の解答が、本格推理ならではの完全に理論的な解決を期待していた"本格推理派"には強烈な拒否反応を受ける性質のものだったことは否定できない。
ただ、その点を批判しようとする場合、作者である竜騎士07氏が「鬼隠し編」当初から"犯罪か、それとも祟りか?"という形で非科学的な解決もありうることをプレイヤーに予告してきてたこと(出題編に収録されている「お疲れさま会」を見れば明らかである)を無視してはならない。
この観点から言うと、ホラー的要素を必要とすること自体はそれほどアンフェアな手法だったわけではないのである。また、謎のすべてを論理的に解決したわけではなかったとはいえ、「綿流し編」「目明し編」で用いられたメイントリックは極めて正統な推理小説的手法であり、また推理に必要な伏線も十分に張られていた。
結局のところ、「ひぐらしのなく頃に」は、インターネットという媒体との相性の良さゆえに時流に乗ることに成功したメガヒット作品といえるが、他のどの作品でもなく「ひぐらしのなく頃に」がメガヒットを飛ばした背景には、やはり「ひぐらしのなく頃に」の中に、そうなるにふさわしい魅力が詰まっていたからだと評価すべきであろう。「ひぐらしのなく頃に」は、同人ゲームの歴史を語る上では、「月姫」と並ぶターニングポイントとして今後語り伝えられていくことだろう。
馬と「ひぐらしのなく頃に」
さて、このような形で日本の同人ゲームの歴史にその名を刻んだ「ひぐらしのなく頃に」だが、その世界観の中に馬との極めて密接な関連性が存在していたという事実には、果たしてどれほどの読者が気づいただろうか。
「ひぐらしのなく頃に」は、物語の舞台が閉鎖的な村という空間に限定されていること、主要登場人物の多くが未成年であることから、馬や競馬への直接の言及は薄い。かろうじて"雛見沢村連続怪死事件"の解決に執念を燃やす刑事"大石"に関連して、彼が北海道出身であり、また競馬を嗜むという描写が見られるものの、これらは物語の本筋とはそう関わりのない記述であり、極端な話、"大石が沖縄出身で競輪を嗜む"という設定であったとしても影響はなかったと言える。
しかし、我々がたびたび指摘してきたとおり、サブカルチャー界においては、名作であればあるほど、作品のあらゆるところに馬・競馬に対するリスペクトが散りばめられている。中には馬・競馬とのかかわりが誰の目にも明らかな形では示されないけれど、"分かる人には分かる"という高度な形で言及されるものも少なくない。同人ゲームの歴史に大きな足跡を残す「ひぐらしのなく頃に」もまた、決定的な形で馬・競馬との関係を物語の中に取り込み、自らが名作であることを見事に証明していたのである。
「ひぐらしのなく頃に」と馬との真実の関係が明確にされたのは、物語も大詰めを迎える第7話「皆殺し編」でのことであった。
「皆殺し編」は、「ひぐらしのなく頃に」の世界がひとつの世界で破滅するごとに新たな世界への転生を繰り返す"ループもの"であることが明確に語られ、「罪滅し編」までいくつもの世界で逃れえぬ破滅を経験してきたプレイヤーが、ついに真の敵の存在に気づくという重要なパートである。プレイヤーの前に立ちはだかる"真の敵"は、大日本帝国の復興をもくろむ秘密結社、通称"東京"であった。ある理由により雛見沢村を狙っていた"東京"の一勢力は、ある目的のために、圭一の仲間のひとりである"梨花"の生け捕りを実行すべく、配下の防諜機関"山狗"を差し向ける。仲間を守り抜き、それまでの世界では一度も避けることのできなかった破局を避けるために懸命に"山狗"と戦う圭一とその仲間たちだったが、ついに彼らの前に姿を現した"黒幕"によって敗れ去り、ついには"皆殺し"の憂き目にあってしまう。
これこそが日本史の中で馬が経験した、ある未曾有の殉難を再現したものであることに、どれほどのプレイヤーが気づいただろうか?
ここでのヒントは、"山狗"という防諜機関の名称である。"山狗"という名詞が本来指し示すものは、単なる"山にいる犬"ではない。イヌ科ではあるものの、イヌとは明確に種族を別にする"オオカミ"である。
オオカミ…それは、今も人間に最も親しまれる動物であるイヌの仲間でありながら、人間の友として生きていく道を選んだイヌとは袂を分かち、孤高の道を歩むことを選んだ誇り高き肉食獣である。かつては野生の状態で日本全国に生息していたとされるオオカミだが、明治維新以降の乱獲や開発による環境の急変によって生息数が急減し、ついに1910年の捕獲例を最後に日本での発見例は完全に途絶え、既に絶滅したと見られている。
では、日本のオオカミは、なぜわずか50年ほどの間に、日本列島から完全に姿を消すほどの過酷さをもって乱獲されなければならなかったのか? その答えは、馬と密接に関連している。
明治維新によって国のかたちを大きく変えた日本は、軍の近代化に必要な軍馬、欧米からとりいれた競馬を発展させるための競走馬を大量に必要とするようになり、日本各地で大規模な馬産が開始されるようになった。
だが、明治維新以降の開発の急速な進展は、それまで山の中で静かに暮らしていたオオカミの棲み家や、それまで彼らの餌となっていたシカをも大幅に減少させる結果となった。行き場を失い、いつも腹をすかせるようになったオオカミが、人間たちによって飼育されている馬たちを狙うようになったのは、ある意味で必然的なことだった。
もともと野生のシカを狩っていたオオカミに、馬を狩れない道理はない。しかも、オオカミは狩りの時も集団で行動する賢い獣である。いったんオオカミに侵入された牧場の馬たちは、圧倒的な力を持つオオカミによって皆殺しになり、短期間で壊滅的な被害を受けた。…数え切れないほど多くの馬たちがオオカミの犠牲となり、悲惨な殉難を遂げた。
ここまで言えば、賢明なる読者諸君は、もうお分かりであろう。
「皆殺し編」における圭一たちと"山狗"との戦いは、まさに馬(=圭一とその仲間たち)とオオカミ(=山狗)の関係をなぞっているのである。なるほど、未成年6人と秘密結社の手下の防諜機関との力の差は、まともに考えれば、草食獣と肉食獣以上に大きいかもしれない。圭一たちも、さまざまな秘策をめぐらして善戦はするのだが、最後は黒幕が放った無情の銃弾によって形勢を逆転され、最後はオオカミに侵入された牧場の馬たちがそうであったように、全員「皆殺し」となった。
しかし、完結編である「祭囃し編」では、圭一たちと"山狗"の戦いの結果は逆転する。圭一たちは、「皆殺し編」で勝ち得ることのできなかった何人もの大人たちの全面的な支持と協力を受け、途中で訪れる致命的な危機をも乗り越えてついに反撃に転じ、最後は"山狗"を撃破する。戦いに敗れた"山狗"を待つ運命は、悲惨な壊滅でしかなかった。
ここでの"山狗"の運命も、史実におけるオオカミたちの運命をなぞっている。馬を襲うことによって飢えから逃れようとしたオオカミたちだったが、彼らがもたらした馬たちの悲惨な被害は、やがて人間による報復という形で、オオカミ自身に降りかかることになったのである。
かつて農地を荒らすシカの天敵として敬意を集めていたオオカミは、一転して人間に敵対する害獣に貶められた。当時オオカミの被害に悩んでいた岩手県では、白米1升(約1.8リットル)が4銭という時代に、オオカミ1匹につき雄7円、雌5円の懸賞金を出してオオカミ退治を奨励したという。ハンターたちは、懸賞金目当てに銃を抱えて山に入り、オオカミを見つけ次第に射殺した。また、牧場主たちは、銃殺だけでは効率が悪いとばかりに、アメリカで成功したという硝酸ストリキニーネを使った罠も次々と導入していった。硝酸ストリキニーネ入りの肉をばらまくという残酷な罠の前に、それまで"毒"という概念を知らず、飢えゆえに馬を襲うしかなかったオオカミたちは"面白いようにかかった"という。
それでも、人間たちは彼らを決して許しはしなかった。オオカミ用にあまりに売れるため、硝酸ストリキニーネが一時国内から姿を消したという凄惨なオオカミ狩りの果てに、彼らはわずか50年の間に日本列島から完全に姿を消した。
「ひぐらしのなく頃に」の防諜機関"山狗"の名前のルーツが、今は亡き"オオカミ"にあることは明らかである。彼らは単体での戦いでは圭一たちを圧倒し、皆殺しにするだけの力を持っていた。だが、外部からの応援を得た圭一たちには及ばず、ついには滅びゆく運命にあった。そう、単体では馬を圧倒しながら、馬を救おうとする人間たちの徹底的な弾圧の前に敗れ、ついには絶滅という道をたどるしかなかったオオカミたちのように。
オオカミたちは、人間にとっては馬を襲うという大罪を犯した許すべからざる害獣だった。しかし、それに先立って人間によって住処と餌を奪われていた彼らにとって、それは生きるためのやむを得ない行為だったろう。馬も哀しい存在だが、オオカミもまた哀しい存在であった。「ひぐらしのなく頃に」は、終盤における圭一たちと"山狗"の戦いを通じて、日本の歴史の暗部…すなわちオオカミの食害による馬たちの受難と、それに続くオオカミたちの悲惨な運命を、ゲームという形に仮託して、鋭く告発したのである。
「ひぐらしのなく頃に」が明治〜大正期の馬とオオカミの悲劇を告発しているという視点は、「祭囃し編」における"黒幕"の描写においても裏づけられている。すなわち、「皆殺し編」で圧倒的な存在感をもって姿を現し、プレイヤーの憤激と憎悪を一身に集めた"黒幕"に対し、作者は「祭囃し編」で暖かい視線を向ける。竜騎士07氏の筆は、"黒幕"の過去を徹底的に描くことにより、"なぜそんなことをしなければならなかったのか"を焙り出してゆく。そこには"黒幕"なりの理由があり、また悲しみがあった。…だが、そうした過去を暴いた上でなお、"黒幕"は自らが指揮する"山狗"とともに、最後は敗れ去るのである。圭一たち全員が無事に"綿流しのお祭り"を迎え、ようやく大団円を迎えるというハッピーエンドの裏で、彼らの敵、すなわち悪役として葬られた者たちの悲しみがあることを考えさせる構成は、善悪二元論とは全く一線を画するものである。
このような深遠なアイロニーは、忘れられたオオカミたちの悲劇と絶滅を意識したのでなければ到底理解しうるものではない。「皆殺し編」において初めて"真の主人公"であることが明らかになった、オヤシロさまと呼ばれる超常的存在"羽入"が時に圭一たちを"ゲームの駒"と表現する不自然さも、この文脈においてならば理解しうる。圭一らが馬を象徴している以上、彼らを"駒"と呼ぶことは、なんらおかしくないのである。
このように、「ひぐらしのなく頃に」は、極めて高度な形で人間と馬を描くことにより、忘れられかけたオオカミの悲劇をも現代に甦らせるという極めて洗練されたレトリックで、馬に対する敬意を捧げている。筆者は、「ひぐらしのなく頃に」と馬との間に、一見しただけではとても気づかない、しかし実際には極めて密接な関連性が存在することに気づいた時、深い感動に胸を打ち抜かれてしばらくは言葉も出なかった。
この史観に基づき、圭一とその仲間たちが馬を象徴する役割を与えられているという前提のもとに再度「鬼隠し編」からリプレーしてみると、彼らの自由な魂と、それでいて運命に翻弄される悲しみが、まさに馬そのものであることを痛感させられる。「ひぐらしのなく頃に」の作者の視点・発想は、近年のサブカルチャー界においても稀有な異形の才であると言わなければならない。
やはり、サブカルチャー界において名作と評価される作品は、名作であればあるほど馬との深いかかわりを持つ。馬が果たす役割の大きさは、かくも計り知れない。
そこに馬がいたから。馬は、常に人間の傍らに在る―。(文責:ぺ)
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競馬サブカルチャー論・第18回:馬と『ONE〜輝く季節へ〜』その1〜えいえんはあるよ。ここにあるよ。〜
競馬サブカルチャー論とは
この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。
―馬は、常に人間の傍らに在る。
その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・ゲーム・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載では、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。
※以下の記述・文中リンクには、18歳未満に販売されない商品に関するものを含みます。それから、ネタバレ全開です。
0:競馬サブカルチャー論とは
1:NEXTON/Tactics 『ONE〜輝く季節へ〜』より
2:「ONE〜輝く季節へ〜」の四つの歴史的意義
1:「To Heart」というフォーマットからの応用と脱却
1:「To Heart」によるビジュアルノベル形式の完成
2:"会話とエピソードの積み重ね"という「To Heart」のフォーマット
3:「To Heart」から「ONE〜輝く季節へ〜」に至るまでの時代背景
4:「ONE〜輝く季節へ〜」によるビジュアルノベル形式の応用〜恋愛ADV形式の復権
5:「ONE〜輝く季節へ〜」における「To Heart」的フォーマットの応用
6:"ヒロインと主人公の物語"という「ONE〜輝く季節へ〜」のフォーマット
2:「永遠の世界」というガジェットのもたらした衝撃
3:快楽系の希薄化と感動系(泣きゲー及び鬱ゲー)への端緒
1:「To Heart」マルチ・シナリオにおける"泣きゲー"のシナリオ構成〜"キャラ萌え"からの帰納
2:「ONE〜輝く季節へ〜」における"泣きゲー"のシナリオ構成〜"ヒロインの物語"からの演繹
3:「ONE〜輝く季節へ〜」における"鬱ゲー"の端緒〜長森瑞佳シナリオの意義
4:Key的世界観の出発点にして終着点
1:失われた"恋愛"のかけらを求めて
2:「夢」「奇跡」「空」「光」に関するメモランダム
3:馬と「ONE〜輝く季節へ〜」 (←ここから読んでも無問題)
4:主な先行文献と参考資料
NEXTON/Tactics 『ONE〜輝く季節へ〜』より
とても幸せだった…
それが日常であることをぼくは、ときどき忘れてしまうほどだった。
そして、ふと感謝する。
ありがとう、と。
こんな幸せな日常に。
水たまりを駆けぬけ、その跳ねた泥がズボンのすそに付くことだって、それは幸せの小さなかけらだった。
永遠に続くと思ってた。
ずっとぼくは水たまりで跳ね回っていられると思ってた。
幸せのかけらを集めていられるのだと思ってた。
でも壊れるのは一瞬だった。
永遠なんて、なかったんだ。
知らなかった。
そんな、悲しいことをぼくは知らなかった。
知らなかったんだ…。
(BGM:折戸伸治(がんま)作曲「追想」)
1998年、冬。幼い頃に家族を失い*1、心に深い傷を負ったという過去を持つ折原浩平は、叔母の家に引き取られて成長するが、仕事で忙しい叔母とはお互いにほとんど干渉せずに過ごし、独り暮らしに近い生活を送っている。成績は可も不可もなく、運動神経が良いわけでもなく、部活*2は幽霊部員。落ちこぼれというほどではないけれど、ぐうたらで平凡な高校2年生だった。
カーテンの引かれる音と、そして目の奥を貫く陽光。チャイム寸前、校門を一気に駆け抜ける登校風景。退屈な午前の授業。両手に抱えた購買のパンと牛乳。他愛ない友達とのやりとりや、たまのすれ違い。放課後の閑散とした中庭。帰宅部であふれる昇降口。校舎の屋上に佇む人影。真っ赤に染まった夕焼けの空。師走に彩られた商店街。布団を被ったまま眺めるテレビと電灯。適当な宿題と借りてきたCD―。
幼馴染の長森瑞佳や悪友たちと過ごすそんな日常は、いつも通り変わり映えしない。ちょっとした変化があったとすれば、立て続けに起こった個性的な少女たちとの出会いくらいなものである。
毎朝、浩平を起こしに来てくれる*3おせっかい焼きで心配性な幼馴染のクラスメイト(長森瑞佳)*4。「真の乙女」を目指して可愛らしく振舞っているけれど、地の性格がとんでもなく、実は失敗だらけの転校生(七瀬留美)*5。まるで誰かを待っているかのように、雨の日に空き地で立ち尽くしている無口で神秘的な同級生(里村茜)*6。盲目というハンデを背負うものの、それを感じさせない社交的で前向きな性格の大食いな先輩(川名みさき)*7。唖障害で言葉を話せないため筆談で会話をする、いつも古ぼけたスケッチブックを肌身離さず持ち歩く表情豊かな下級生(上月澪)*8。唯一心を開いた「友達」を失った悲しみに暮れる、「大人になれない」自閉症気味な登校拒否児(椎名繭)*9。
彼女たちとの触れ合いは、浩平にとって、とても大切なものになろうとする。けれども、それはありふれた毎日に、ちょっとした潤いを添えてくれる出来事のひとつに過ぎない。クラスの仲間や彼女たちとの楽しい日常は、今までがそうであったように、これから先もずっと繰り返されていくはずだった。
しかし……不意にもうひとつの世界が生まれる。それはしんしんと積む雪のように、ゆっくりと日常を埋(うず)めてゆく。異変は、静かに始まっていたのだ。
ふと空を見上げる…。真っ赤に染まる信号…。ゆったりとした時間の流れの中で、その場に取り残されそうな錯覚。涙が出てしまうような不思議な概視感。「もうひとつの世界」にいる自分が、空の上から自分をずっと見守っている…。何よりもそれらはイメージだ。そして、それは確実な予感でもあった。
どうしてだろう…よくわからない。ぼくはこの世界からいなくなる…。
「えいえんはあるよ」
彼女は言った。
「ここにあるよ」
確かに、彼女はそう言った。
永遠のある場所。
…そこにいま、ぼくは立っていた。
「ONE〜輝く季節へ〜」の四つの歴史的意義
「ONE〜輝く季節へ〜」*10は、1998年5月26日にゲームブランドTacticsから発売された成人向け恋愛アドベンチャーゲーム(いわゆる18禁PCゲーム)である。本作発表後にKeyブランドを立ち上げることになる制作スタッフ(企画/脚本:麻枝准、脚本:久弥直樹、音楽:折戸伸治、原画:樋上いたる、CG:しのり〜・ミラクル☆みきぽん)によって、Tactics所属時代に企画・制作された2作目の美少女ゲーム*11として名高い本作は、後発のKeyブランド諸作品―「Kanon」(1999年)、「AIR」(2000年)、「CLANNAD」(2004年)など―と同じ系譜に属するものとして、四部作的な評価を受けることが通例である*12。
始祖鳥「同級生」(エルフ,1992年)によって美少女ゲーム(恋愛ADV、恋愛SLG)が成立し*13、「河原崎家の一族」(エルフ,1993年)による黎明といわゆるリーフ・ビジュアルノベル三部作*14―「雫」(Leaf,1996年)、「痕」(Leaf,1996年)、「To Heart」(Leaf,1997年)―による到達をもってビジュアルノベルへの分岐・進化が遂げられた*15とする18禁PCゲーム史観については、本・競馬サブカルチャー論においても繰り返し指摘してきたところである。このような美少女ゲーム/ビジュアルノベル史観に従って、本作の歴史的意義を説明しようとするならば、以下の通りに集約することができるだろう。
すなわち、(1)パラダイム*16ないし年代論という視点から見ると、「To Heart」というフォーマットからの応用と脱却に他ならないし、(2)表現技法としてのメタフィクション*17という視点から見ると、「永遠の世界」というガジェットのもたらした衝撃は計り知れず、(3)ジャンルないし構造論という視点から見ると、快楽系の希薄化と感動系(泣きゲー及び鬱ゲー)への端緒を見出すことができ、(4)主題論ないし系譜論*18という視点から見ると、Key的世界観の出発点にして終着点であった―という四点である。
―「ONE」というのは存在自体が奇跡であり、コピー可能な代物ではない―
(元長柾木「回想ー祭りが始まり、時代が終わった」より)
1.「To Heart」というフォーマットからの応用と脱却
本作の歴史的意義を説き明かすためには、その前年に発表された美少女ゲームの巨星「To Heart」との関係を踏まえないわけにはいかない。
―「To Heart」によるビジュアルノベル形式の完成―
*19 そもそも、ビジュアルノベル*20とは、文章・画像・音楽*21を表現技法として融合的に用いるPCゲームシステムである。もっとも、この文章・映像・音楽というビジュアルノベルの三大要素は、最初から三つとも同列に揃っていたわけではない。
時系列を追ってみると、まず、①黎明期*22には、パソコンの内蔵音源が向上したことに伴い、BGMとSEが実用的な水準に到達したため、初めて音楽が効果的に用いられるようになった。次に、②発展期前半*23になると、シナリオを「読ませる」ことを強く意識した制作者*24が現れるようになったため、画像と音楽を背景にしつつ画面全面にテキストを表示するという手法*25が初めて導入され、文章の果たす役割が劇的に大きくなった。ちなみに、この頃までの画像は背景画とイベントCGが中心を占めており、キャラクターの立ち絵については、服装変化に枚数が割かれることはあっても、表情変化は重視されていなかった*26。
そして、③発展期後半、「To Heart」(1997年)の登場によってビジュアルノベルのパラダイムはいったん完成を見る。「To Heart」では、演出の一環として、キャラクターの立ち絵に大量の枚数が投入されることとなり、セリフに応じてキャラクターの表情が微妙に変化するという革命がもたらされたのである*27。
ここに初めて、ビジュアルノベルは音楽・文章・画像の三位一体を名実ともに実現したといえるだろう。
―"会話とエピソードの積み重ね"という「To Heart」のフォーマット―
それでは、「To Heart」は、立ちキャラクター表情画の大量投入によって何を表現しようとしたのだろうか。それは、「居心地の良い仲良し空間」*28という世界観そのものだった。―誰かといないとおもしろくない。なぜなら、人間はつくづく共感する生き物だから―。このような世界観*29を浸透させるために考案されたものこそが、主人公とヒロインとの会話とエピソード(コミュニケーション)を丹念に積み重ねることによって、プレイヤーのキャラクターに対する感情移入を促すという、現在なお通用している萌え系美少女ゲーム―いわゆる"ハートフル学園恋愛ストーリー"のフォーマットだったのである*30。立ちキャラクターの豊富かつ微妙な表情変化も、その迫真性を演出するための切り札に他ならなかった。
ここでは、佐藤心*31による分析を参考にしながら、「To Heart」のシナリオ構造を俯瞰することを試みたい。佐藤心は美少女ゲーム/ビジュアルノベルにおけるシナリオの構造を、探偵小説になぞらえて"叙述の視点とキャラ萌え"*32"会話とエピソードの積み重ね"*33"ヒロインと主人公の物語"*34の三層に解析している*35。すなわち、プレイヤーは、(1)主人公*36の視点を通して、他の登場人物*37の外見と性格に関する情報(萌え要素)*38を収集してヒロインへ関心を寄せると、(2)日常的な会話を繰り返しながら"エピソード"を蓄積してヒロインとの関係性(コミュニケーション)を深めた後、(3)日常で築かれたエピソードの束とは別次元の、いわば非日常的なヒロインと主人公の"物語"*39を知らされてクライマックスに至るというのである。
このプロットに即していうならば、「To Heart」とは、"会話とエピソードの積み重ね"という第二階層そのものを、そのまま「居心地の良い仲良し空間」というかたちで作品の主題に据えている。そして、「仲良し空間」の「居心地の良さ」を引き立てるための道具として、"叙述の視点とキャラ萌え"という第一階層―会話の相手となるヒロインたちのキャラクター設定―を高度に類型化することに成功した稀有な作品に他ならない。もちろん、キャラクターが個性的であればあるほどそのようなキャラクターを相手にした会話や逸話は魅力的なものになるに違いない、という制作者の確信があってこその所産だということは論を待たない。
*40 それは、1980年代風な古典的萌え要素の集大成といっても過言ではない。朝起こしに来てくれるリボンの幼なじみがいて、流行に敏感だけど勉強嫌いなボーイッシュ娘がいて、眼鏡っ娘で三つ編みな委員長がいて、金髪碧眼でスタイル抜群なハーフの帰国子女がいて、格闘技が得意なスポーツ少女がいて、おっとりとした大金持ちのお嬢様がいて、なぜか魔法使いもいるし、超能力少女もいる。そして何よりも、ドジで泣き虫だけど純真なAI(心)を持つメイドロボット―「その登場により、萌えの中世は終わり、近代を迎えた」とも、「萌えにおけるアルティメット・ワン」「人類の叡知による結晶」とまで評される―マルチがいた。「To Heart」が"キャラ萌え"の金字塔として今日まで語り継がれる所以である*41。
―「To Heart」から「ONE〜輝く季節へ〜」に至るまでの時代背景―
「To Heart」以降、特に同作品の商業的成功が明らかとなった1998年に入ると、「To Heart」を模倣した"学園恋愛もの"18禁PCゲームが粗製濫造されるようになる。当時、18禁PCゲームの制作現場において、「To Heart」のCD-ROMをポンと上司から渡されて、「これと同じようなゲームを作って」と命じられることは決して珍しくなかったという。
こうして、この時期は多数の"えせTo Heart""To Heartもどき"が発売されているのだが、哀しいかな駄作であるがゆえに歴史には残っていない。この1年未満の短期間のうちに、退屈と紙一重で当意即妙な会話を描き切るシナリオ、人情の機微を微妙に描き分けるだけの作画、タイミングまで演出し尽くすような作曲が三つとも同一の制作環境に揃うことは、やはりめったに起こらなかったのである。わずか1作品で美少女ゲームのフォーマットを全面的に塗り替えた極星「To Heart」の眩しさには尋常ならざるものがあり、その軌道上を周回する衛星が光を放つことはまったく許されないかのように思われた。
本作が生み落とされた時代背景には、このような、「To Heart」的な"何か"をLeaf以外のブランドからオリジナルを乗り越えるかたちで送り出したい、という18禁PCゲーム業界の機運と葛藤が存在していたのである。
―「ONE〜輝く季節へ〜」によるビジュアルノベル形式の応用〜恋愛ADV形式の復権―
本作は、「To Heart」から遅れること約1年にして、立ちキャラクター表情画の微妙かつ繊細な描き分けに成功してしまった二つめの美少女ゲーム作品である。それは、世に言う"いたる絵"*42の効能によるところ大だった。その画風は、記号的なデフォルメの効いた癖のある絵柄であって、デッサンが狂っているとしか言いようがないにもかかわらず、キャラクターの微妙な表情をドッド単位で描き分ける技巧については絶妙の一言に尽きた。既に「To Heart」における"タレ目"*43に予兆があったとはいえ、当時の主流とされたアニメ的リアルなグラフィックとは明らかに一線を画するものであり、良くも悪くも18禁PCゲーム業界のグラフィック・モードに新風を巻き起こすものだったのである。
しかも、本作における立ちキャラクターの表情描写には、「To Heart」より一歩先へと進む新規性が含まれていた。それは、セリフがないタイミングでの表情変化である。本作のヒロインたちは、沈黙したまま微笑んだり、気が付くと涙をこぼしているのだ*44。
全文表示型のビジュアルノベル形式を採用した「To Heart」の場合は、ノベル的要素が重んじられていたため、文章による叙述を画像と音楽によって補完的に再現するという表現技法に終始しているきらいがあった。これに対して、画像表示部分とテキストフレーム区別型の恋愛ADV形式を採用した本作では、むしろビジュアル的要素とサウンド的要素に比重が傾いており、あえて文章が沈黙したまま画像と音楽だけでキャラクターの心情を物語るという表現技法が可能になったのである。
この表現技法が画期的だったのは、従来、恋愛ADV形式はテキストフレームにプレイヤーの意識が集中する結果、キャラクターのポーズや表情の変化が見落とされがちだとされ、テキストとキャラクターに満遍なくプレイヤーの注意が向けられるビジュアルノベル形式の方が優れているとみる風潮があったところに、テキストフレームを沈黙させればプレイヤーの視線は自ずとキャラクターの方に向けられるという逆転の発想を持ち込んで、恋愛ADV形式を復権させたところにある。また、プレイヤーの文章読解力という理性に対するよりも、視覚や聴覚といった感性に対して訴えかける効果の方が大きいという特色を備えており、この点にも「To Heart」との差異を認めることができるだろう*45。
―「ONE〜輝く季節へ〜」における「To Heart」的フォーマットの応用―
本作のシナリオ構造を俯瞰してみると、「To Heart」を模倣した側面はやはり大きい。本作の制作期間は1998年上半期の三ヶ月程度といわれており、「学園恋愛ものを作ろうとした」という制作スタッフの当時の認識*46からも、この指摘を裏付ることは容易である。
本作のシナリオ前半は、ありふれた日常を居心地良くかけがえのないものとして描写することに徹している。学園生活を通じてヒロインたちと出会い、"会話とエピソードの積み重ね"という第二階層を経て、二人は恋に落ちる。まさに「To Heart」的な"ハートフル学園恋愛ストーリー"のフォーマットそのものである。
ところが、本作の場合、"会話とエピソードの積み重ね"と"叙述の視点とキャラ萌え"のあり方は、「To Heart」とは解釈が異なっている。
"会話とエピソードの積み重ね"という第二階層について、「To Heart」は日常のささやかな会話や出来事を細かく丁寧に描き、主人公とヒロインが少しずつ共感していく様子を写実的に表していた。これに対し、本作では、日常会話をメインにシナリオを書かなければならないという「To Heart」的フォーマットの制約を逆手に取って、主人公とヒロインたちは延々と甘ったるいギャグと漫才を応酬し合い、ささやかだったはずの日常はどんどんコミカルになっていく。
また、"叙述の視点とキャラ萌え"という第一階層については、確かに本作でも、幼なじみの同級生は毎朝布団を引っぺがして起こしてくれるし*47、街角で出会いがしらに女の子と衝突してみれば*48実はその娘は転校生でした*49、なんてお約束はむしろ「To Heart」以上に強調されている。ところが、そのヒロインたちのキャラ造形を整理してみると、口癖が「だよ・もん」*50、好きな食べ物はワッフル*51といった属性もあることはあるが、むしろ「えいえんはあるよ」、夢見がちな自称「乙女」、PTSD、盲目な大食い、唖障害者、自閉症、登校拒否児、死人といったトラウマ的諸要素のオンパレードとなっており、"萌え要素"と呼ぶには前衛的に過ぎる*52新機軸が飛び出していた。
―"ヒロインと主人公の物語"という「ONE〜輝く季節へ〜」のフォーマット―
もっとも、これらの新要素だけでは、いずれも後世の美少女ゲーム業界に及ぼした影響は多大には違いないが、"叙述の視点とキャラ萌え"と"会話とエピソードの積み重ね"という二段階層式の「To Heart」的フォーマットの応用に留まっていたことだろう。それでは、本作を「To Heart」的なフォーマットから脱却せしめたものは、いったい何だったのか。それは、シナリオ構造において、"叙述の視点とキャラ萌え"と"会話とエピソードの積み重ね"に引き続くクライマックスとして、"ヒロインと主人公の物語"という第三階層を極めて効果的に導入したことに他ならない*53。
つまり、ヒロインや主人公は何らかの理由でトラウマ的な過去を負っており、彼女らはシナリオ終盤、「夢」「回想」「告白」などのかたちで自分自身の秘密を語り、プレイヤーはそれをヒロイン又は主人公の"物語"として聴く。そして、最後にはトラウマの克服が果たされ、トゥルーエンディングを迎えるのである*54。
すべてが自分をこの世界に繋ぎ止めていてくれるものとして存在している。
その絆を、そして大切な人を、初めて求めようとした瞬間だった。
(「ONE〜輝く季節へ〜」デモムービー より)
本作では、張り巡らせた伏線を消化しながら、プレイヤーは徐々にヒロインたちが抱えるトラウマ的過去へと近付いて行く。そして、主人公との恋愛関係がまさに成就する瞬間、ヒロインは個人としての来歴を主人公に告げ、主人公との恋愛をさらにシリアスな高みへと導く。こうしてプレイヤーは"ヒロインの物語"*55を見届けることになるのだが、これだけならば強弱の程度を度外視すれば過去に類例がないわけでもない。
本作は一挙に、プレイヤーの視点キャラであるはずの主人公にもストーリーを用意した。本作の主人公・折原浩平は、ヒロインとの絆を求めようとしながら、実は自身のトラウマ的過去との葛藤を繰り広げており、むしろ本作のシナリオ構造は"主人公の物語"を描き切ることに主力が向けられている。"ヒロインの物語"を通して"主人公の物語"を読ませるというシナリオ構成の妙は、美少女ゲームの成熟を5年は早めたといっても過言ではない。
ここに、"叙述の視点とキャラ萌え"→"会話とエピソードの積み重ね"→"ヒロインと主人公の物語"*56という三段階層式のフォーマットが成立し、わずか1年弱にして「To Heart」的フォーマットからの脱却が果たされたのである。
どこまでもつづく海を見たことがある。
どうしてあれは、あんなにも心に触れてくるのだろう。
そのまっただ中に放り出された自分を想像してみる。
手をのばそうとも掴めるものはない。
あがこうとも、触れるものもない。
四肢をのばしても、何にも届かない。
水平線しかない、世界。
そう、そこは確かにもうひとつの世界だった。
(「ONE〜輝く季節へ〜」 永遠の世界Ⅰ より)
2.「永遠の世界」というガジェットのもたらした衝撃
本作における「永遠の世界」とは、主人公たちのいる日常世界とは異なる、非日常的な「もうひとつの世界」の絶対的な存在をにおわす世界観の挿入部である。後の「夢。夢を見ている。」「あの日の麦畑が広がっている」(Kanon)、「この空の向こうには、翼を持った少女がいる。」(AIR)、「幻想世界」(CLANNAD) *57にも見受けられる通り、いわばKeyのお家芸的なガジェットといえる*58。
前章との関連でいうならば、"主人公の物語"にプレイヤーを巻き込んでいく導線としての機能が大きいのだが、この「永遠の世界」の抽象度と難解さ*59はKey四部作の中でも突出している*60。たとえば、オーソドックスな読み方をするならば、次のような解釈になるだろう。
―主人公・折原浩平は幼少期に妹(みさお)を亡くし、心に大きな絶望・孤独・虚無を抱える。悲しい現実を拒絶し、幸せな思い出の中に留まることを願った彼の幼い心は、あるひとりの少女*61のとの「盟約」をきっかけに、やがて現実世界とは異なるもうひとつの世界―「永遠の世界」を自らの中に作り出した。それは潜在的な「可能性」*62に過ぎない世界だったが、現実世界で浩平が他者と深い絆を築こうとしたため*63、彼は現実世界に留まるか否かの二者択一を迫られることになる*64。やがて、彼を知るすべての人間が彼のことを忘れてゆき、絆を失った彼は「永遠の世界」へと呑み込まれてしまい、現実世界から消滅する。
本作のシナリオは、主人公が「永遠の世界」へ連れ去られた時から始まり、「この世界」にいる彼が「あの場所」での日々を追想するというかたちでストーリーが進行する。最後に、主人公が元の世界へと戻ることを決意できたとき、元の世界に残してきたたったひとりの少女との絆の深さによって現実世界への帰還を果たす。結局、「永遠の世界」とは、それを平行世界や超常現象、神秘、言霊、幻想、妄想、精神疾患*65、臨死といった具体的事実に換言されることを巧妙に回避しつつ*66、"別離と消滅、そして再会"をもたらす暗喩的ガジェット*67として用いられた―。
このように読み取るならば、本作における「永遠の世界」は極めて独創的ではあるものの、決して複雑怪奇なものではないはずである。ところが、「永遠の世界」がどのようにして成り立っているのか―暗喩されたものの正体は何か―については、本作内の判断材料から"合理的"に説明することはできない。というよりも、「永遠の世界」をリアリズム的な事象現象へと矛盾なく還元することは不可能といったほうが早いだろう。そのため、本作はしばしば観念的、抽象的、説明不足、ご都合主義といった批判を浴びることも多いわけだが、にもかかわらず本作終盤で全貌を顕わにする「永遠の世界」がもたらす言い知れぬ不気味さ、切迫感には、そこに疑いようのない圧倒的なリアリティを感じざるを得ない。突拍子もない、いわゆる"超展開"であるはずなのに、ストーリーの流れとしては妙な必然性すら覚えてしまう。それはなぜだろう?*68
とりあえずここでは、「永遠の世界」とは、日常に対する非日常、現実に対する非現実といった二項対立的なものではなく、近代科学的な事象現象の暗喩ですらないということを指摘するに留めたい。それまでの日常から切り離された世界ではなく、地続きのまま徹底してリアルな場面として「永遠の世界」が描かれている点を看過してはならない*69。このように解釈したとしても、「永遠の世界」を含め本作のシナリオは、確かにリアリズム文学の文脈とは無縁だが*70、少なくとも文芸様式としてのファンタジーとして読み解く限り、まったく齟齬は生じないのである*71 *72。
そして、この点については、作中でも氷上シュンという隠しキャラによって言及されている*73。
氷上「それは、『誰にだって訪れる世界』だからだよ」
氷上「だから僕にだってわかるんだよ、それが」
氷上「何もキミだけが、幻想の世界に生きているんじゃない」
氷上「誰だってそうなんだよ」
氷上「すべてが現実なんだよ」
氷上「物語はフィクションじゃない。現実なんだよ」
氷上「わかるかい、言っていることが」
(「ONE〜輝く季節へ〜」 氷上シュン・シナリオ より)
「永遠の世界」は、七つ*74のシナリオを通じ、様々な側面が入れ替わり立ち代わり提示され*75 *76、その全貌が容易に明らかとはならない。しかし、それらは決して暗喩として片付けられるような観念的なものではなく、リアルで具体的な物事そのものに他ならないと一貫して描写されているのである。
*1:通説によると、折原浩平は、幼少期のうちに「父親と死別し、妹が死病を患い、母親が宗教に嵌まって蒸発した」という、美少女ゲームの主人公としては相当異色のトラウマを負っている人物だと推量されている。
*2:軽音楽部。
*3:このシチュエーションを実際に再現した剛の者として、http://sukeroku.hoops.ne.jp/kouhei1.html は特筆に値する。
*4:「そして、そこでも、ずっとそばにいてくれたキミ。」 通称「だよもん星人」。
*5:「乙女を夢見ては、失敗ばかりの女の子。」
*6:「ただ一途に何かを待ち続けているクラスメイト。」
*7:「光を失っても笑顔を失わなかった先輩。」 通称「みさき先輩」。あと、おでこ。ところで、最近こそ「涼宮ハルヒの陰謀」の長門有希を推す声が大きいものの、カレーの大食いといえば、「ONE〜輝く季節へ〜」の川名みさき先輩、「月姫」の知得留先生、もといシエル先輩、「ひぐらしのなく頃に」の知恵留美子先生というキャラクター系譜が存在することを看過してはならない。
*8:「言葉なんか喋れなくても精一杯気持ちを伝える後輩。」
*9:「大人になろうと頑張り始めた泣き虫の子。」
*10:以下、単に「本作」と呼ぶときは「ONE〜輝く季節へ〜」を指す。
*11:「MOON.」(Tactics,1997年)に引き続く「心に届くADV第2弾)である。
*12:「MOON.」(Tactics,1997年)を含めて五部作と見る向きもある。なお、「planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜」(Key,2004年)は実験作的な意味合いが大きく、「智代アフター〜It's a Wonderful Life〜」(Key,2005年)は一応「CLANNAD」の外伝なので、ここでは割愛しておく。
*13:拙稿「競馬サブカルチャー論・第08回:馬と『同級生』〜18禁ゲームの始祖鳥/馬は”お嬢さま”と”ポニーテール”萌えを導いた〜」(2004年,d:id:milkyhorse:20041219:1103443200)、拙稿「競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』〜Key的ジュブナイル主題の集大成/人生が競馬の比喩だった〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060406:p1)を参照されたい。
*14:「初心者のための現代ギャルゲー・エロゲー講座 第2集 ビジュアルノベルの完成」(http://www.kyo-kan.net/column/eroge/eroge2.html)も参照。
*15:拙稿「競馬サブカルチャー論・第16回:馬と『Fate/stay night』〜「燃え」によるビジュアルノベルの復興/英雄的"馬"表現の金字塔〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060417:p1)において、ビジュアルノベル史を前史・黎明期・発展期・繁栄期・停滞期・復興期に沿って概観しているので、参照されたい。また、「河原崎家の一族」については、拙稿「競馬サブカルチャー論・第09回:馬と『河原崎家の一族 2』〜マルチエンディングシナリオの極北/滅びは馬によって預言されていた〜」(2004年,d:id:milkyhorse:20041224:1103821200)も参照されたい。このほか、相沢恵「永遠の少女システム解剖序論」(2000年,http://www.tinami.com/x/review/02/page1.html)、「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也&原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/)、「「同級生」から「To Heart」までにおける恋愛ゲームの変遷」(2001年,http://web.archive.org/web/20041030195950/http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/spe10.htm)を参照。
*16:1992年以降について解析した論考として、「美少女ゲームのパラダイムは4年で交代する〔仮説〕」(2006年,d:id:genesis:20060406:p1)を参照されたい。
*18:Key的ジュブナイルにおける「現実受容」という主題と「家族になる」という解答との関係については、拙稿「競馬サブカルチャー論・第15回:馬と『CLANNAD』〜Key的ジュブナイル主題の集大成/人生が競馬の比喩だった〜」(2006年,d:id:milkyhorse:20060406:p1)を参照されたい。
*19:このサイトでは一部、AQUAPLUS/Leaf製品の画像素材を加工・引用しています。また、これらの素材を他へ転載することを禁じます。
*20:実質としてのビジュアルノベル。この下位概念として、テキスト表示形式に応じて、形式としてのビジュアルノベル(全画面)とADV=アドベンチャーゲーム(画面下部限定)の二つに分かれる。
*21:正確には、音楽と音声とを併せて「音」と端的に呼ぶべきだが、便宜上「音楽」という用語を用いることにする。
*22:「河原崎家の一族」「野々村病院の人々」,1993年〜1994年
*23:「雫」「痕」,1996年
*24:「雫」制作スタッフの下川直哉氏(当時,Leafプロデューサー)と高橋龍也氏(当時,Laefシナリオライター)である。「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也&原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/page1.html)を参照。
*25:形式としてのビジュアルノベル。画面下部に数行分しかテキストを表示しないADV=アドベンチャーゲーム形式と峻別される。
*26:服装変化は作中の場面転換や時間の経過を表現するために利用されることがあったが、表情変化はフラグやパラメーターに対応して頬を赤らめたりする程度であり、「電子紙芝居」の域を脱してはいなかった。
*27:「この時、ポルノグラフィとしての美少女ゲームも大きく変質した。ポルノ描写の地位が主から従へと移行したのだ。これは、ポルノ描写が薄くなったとかおざなりになったとかいう単純な問題ではない。ゲームの面白さを主に感じる部分が、フルサイズのCGが表示されているイベントシーンではなく、立ちキャラクターと背景が表示されている日常シーンへと移行したのだ。」,元長柾木「回想―祭りが始まり、時代が終わった」((2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』155頁)より。
*28:高橋龍也氏発言「若い恋愛を書けば、男の立場から言うと…語るドラマもなにもないんです。もしくは相手を束縛したいとか、独占欲とか、そういう方向で書くしかないんですけど。そういうのは書いてもしょうがないと思ったんです。だから『To Heart』でやりたかったのは「一緒にいて楽しい」ということなんです。性欲を抜きにしても、一緒にいて楽しい女の子を。」「そういうときに重要なのはコミュニケーションだと思うんですよ。それを知ってるから、みんな…常にコミュニケーションを持ちたがってると言うか。誰かといないとつらい時代なのかな、と思っちゃたりもするんですけど。…最終的にそういう誰かがいるってだけで、世界が楽しくなる。モノクロで取り込み風の、冷たい背景のなかに、くるくる表情の変わるキャラクターがいるという対比があることで、すごくキャラクターが浮き出てきて、世界に味が出てくるんです。」「『To Heart』は問いかけなんです。こういう空間をどう思いますか、という。それで良いと思うならば、その空間はなぜ構成されているのかを考えると、結局コミュニケーションを大事にしてるんですよ。」,「TINAMIX INTERVIEW SPECIAL Leaf 高橋龍也&原田宇陀児」(2000年,http://www.tinami.com/x/interview/04/page5.html)より。
*29:「To Heart」の場合、主題と言い換えても問題ない。
*30:「何事もなく繰り返される日常に幸福と快楽が潜んでおり、ギャルゲーはそれを表現しうるということ。それが『To Heart』の発見であり、またギャルゲーというジャンルが獲得しゲームの作品領域に付け加えた新たな地平でもあった。」,アシュタサポテ「『ONE〜輝く季節へ〜』(2)」(2000年,http://astazapote.com/archives/200004.html#d17)より。
*31:1979年生まれのPCゲーム評論家・ライター。別名、相沢恵。「生きる『動物化するポストモダン』」と呼ばれているらしい。
*32:正確な言い回しは「キャラクターの層(視点と図像)」だが、分かりにくい表記であるため、この通り書き直してみた。
*33:正確な言い回しは「コミュニケーションの層(日常と関係性)」だが、分かりにくい表記であるため、この通り書き直してみた。
*34:正確な言い回しは「トラウマの層(記憶と物語)」だが、分かりにくい表記であるため、この通り書き直してみた。
*35:佐藤心「オートマティズムが機能する 2」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』178頁)より。初出は『新現実 vol.2』(2002年,角川書店)。
*38:"萌え要素"を"データベース消費"するという思考ルーティーンの分析については、東浩紀「動物化するポストモダン」(2001年,講談社現代新書)が詳しい。また、Ragna Archives Network - Characters Search(1997年〜,http://www5.big.or.jp/~seraph/ragna/ragna.cgi)がまさにその典型例である。
*39:その典型例がトラウマである。たとえば、ヒロイン又は主人公の秘密―トラウマ的過去が「夢」「回想」「告白」といったかたちで明らかにされる、というパターンを挙げることができる。
*40:このサイトでは一部、AQUAPLUS/Leaf製品の画像素材を加工・引用しています。また、これらの素材を他へ転載することを禁じます。
*41:この点に関して、「To Heart」には、たとえば「都合の良いキャラ設定が最初から配置されていて、ヒロインが据膳状態で楽園願望を満たしてくれるゲーム」というような表層的な評価が散見されるが、やはりこれは「To Heart」の本質を捉え誤った誤読といわざるを得ない。「To Heart」の主人公・藤田浩之に対して、ヒロインがシナリオ開始当初から無条件の恋愛感情を寄せているわけでもなんでもないことからも、この指摘の正しさは明らかである。「To Heart」を"キャラ萌え"という文脈で論じるときは、"ヤマなし・オチなし・意味なし"といった類に思考停止するのではなく、"あらすじがない"ということの凄味を想起しなければならないだろう。「To Heart」の面白さは文章から伝わるものではなく体感するしかない、とはよく言ったものである。
*42:原画家・樋上いたる氏の作風を総称する用語。http://blog.livedoor.jp/geek/archives/498261.html はその人気の一例。
*44:当時のリアルタイム・プレイヤーの興奮については、たとえば次のように語り継がれている。「里村茜の場合だと、一緒にお弁当を食べるシーンがあって、三回目ぐらいでようやく少しだけ笑ってくれる。むっつりしていた口許が心持ち上がるだけなんですが、感動のあまりガッツポーズした記憶があります。まさに、ドット単位で変わった表情に狂喜乱舞した。」,東浩紀・佐藤心・更科修一郎・元長柾木「共同討議 どうか、幸せな記憶を。 美少女ゲーム運動1996-2004」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』92頁)より。
*45:この特色こそが、「To Heart」のフォーマットから本作を脱却させる一助を担ったわけだが、この点については後述する。
*46:「当時、タクティクス内で次回は恋愛物を作ろうという動きがありました。その理由は、その時作っていたゲームがシリアスで暗めな話だったので、次回作は明るく恋愛物で行こう、という極めて単純な理由だったのです。」,久弥直樹「One's Memory あとがき」(1999年,同人誌)より。
*47:「ほら、起きなさいよーっ」「ほらぁーっ!」
*48:「ズドーーーーーーーーーーーーーンッ!!」
*49:「ぶつかった出逢いはdramatic?」と宮内レミィ(To Heartのヒロインの1人)も言っているではないか。
*50:世に聞こえし「だよもん星人」。後世のKeyのお家芸「うぐぅ」「あうーっ」「あははーっ」「そういうこと言う人、嫌いです」「が、がお…」「にはは」「観鈴ちん、ぴんち」「わぷっ」「にょわ」「ぴこ〜」「最悪ですっ」等のさきがけである。
*51:後世のKeyのお家芸「たい焼き」「肉まん」「牛丼」「イチゴサンデー」「アイスクリーム」「どろり濃厚 ピーチ味」「お米券」「あんパン」「コーヒー」等のさきがけである。
*52:もちろん、極端に記号化されたキャラ設定に対しては、あざといという批判が向けられることもある。東浩紀「動物化するポストモダン」113頁(2001年,講談社現代新書)による分析も参照されたい。
*53:「To Heart」以前のビジュアルノベル―「雫」(Leaf,1996年)と「痕」(Leaf,1996年)―でも、もちろん"ヒロインの物語"は存在していた。むしろ、"ヒロインの物語"という第三階層だけが突出していたくらいである。"叙述の視点とキャラ萌え"の第一階層もそれなりにあった。つまり、「雫」「痕」は第一階層と第三階層のみで構成されており、"会話とエピソードの積み重ね"の第二階層が欠落していた。これらに対し、「ONE〜輝く季節へ〜」は第一階層、第二階層、第三階層を総合的にバランス良くシナリオ構造に組み込んだ点に新規性があったのである。
*54:佐藤心「オートマティズムが機能する 2」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』179頁)より。初出は『新現実 vol.2』(2002年,角川書店)。
*55:今木「雫と語り手」(2000年,http://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0210.shtml#8)より。
*56:ほのぼのとした恋愛パートでプレイヤーを感情移入させ、終盤の劇的な別れと再会で感動させる、と言い換えても構わない。"感動系"については、後述する。
*57:「永遠の世界」と「幻想世界」の比較については、then-d「〜既視感(デジャ・ヴュ)と記憶と光たち〜『CLANNAD』追究への取りかかり 」(2004年,http://members.jcom.home.ne.jp/then-d/html/CLANNADpre.html)などを参照されたい。」
*58:これらを総称して「内閉世界」と呼ばれることがある。佐藤心「オートマティズムが機能する 2」(2004年,波状言論臨時増刊号『美少女ゲームの臨界点』182頁)より。初出は『新現実 vol.2』(2002年,角川書店)。この概念は村上春樹の小説「ノルウェイの森」(1987年)でも散見される。d:id:imaki:20051202#p1 (2005年)も参照されたい。Herbert Lionel Adolphus Hartが『法の概念』の中で触れる「内的視点・外的視点」との比較も有益かと思われるが、筆者の力量ではまとめることができなかった。
*59:「永遠の世界」を考案した麻枝准氏(tactics所属シナリオライター,当時)は、Brian Wayne Transeau「Flaming June」というエピックハウス楽曲から着想を得たと述べているが、村上春樹「ノルウェイの森」(1987年)と「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年)との類似も指摘されているところであり、いずれも解読の手がかりにして構わないだろう。麻枝准・涼元悠一「Keyシナリオスタッフロングインタビュー」(『カラフル・ピュアガール』2001年3月号,ビブロス)より。
*60:たとえば、「Kanon」ならば「誰の夢か」「誰の力か」、「AIR」ならば「The 1000th Summer―」、「CLANNAD」ならば一ノ瀬博士夫妻による「超統一理論」といったふうに、それなりに明確なヒントが提示されている。
*61:この少女が誰であるかは長森瑞佳シナリオでのみ明言される、といいたいところだが、折原浩平は妹のみさおと幼なじみの瑞佳とを混同して記憶しているふしがあるので、実は断言できない。さらに、川名みさき・里村茜・上月澪の各シナリオ(いわゆる久弥三部作)におけるバッドエンドで提示される「永遠の世界」の現れ方を踏まえると、統一的な解釈は不能とすらいえよう。たとえば、川名みさきシナリオ(バッドエンディング)における折原浩平の「永遠の世界」への消滅シーンの一例を参照されたい。
*62:「最初は小さな違和感だった。」
*63:「オレの中で何かが警笛を発していた。」
*64:「少しずつそれでも確実に存在感を増すもう一つの世界。」
*65:「雫」(Leaf,1996年)が現実世界と「狂気の世界」との対比を生々しくぶち上げてしまったことを想起すれば、本作における「永遠の世界」の洗練さが際立ってくるのではないだろうか。
*66:相沢恵「永遠の少女システム解剖序論」(2000年,http://www.tinami.com/x/review/02/page7.html)ほか。
*67:「タクティクスMOON.&ONE〜輝く季節へ〜設定原画集」(1998年,コンパス)収録の企画書より。
*68:アシュタサポテ「『ONE〜輝く季節へ〜』(1)」(2000年,http://astazapote.com/archives/200004.html#d02)より。
*69:「作品をいたずらに深く読み込もうとした挙句与えられてもいない説明をでっち上げてしまう前に、このラストが作中で具体的にはどのように描かれていたかというごく単純な点を確認しておきたいのである。」,アシュタサポテ「『ONE〜輝く季節へ〜』(1)」(2000年,http://astazapote.com/archives/200004.html#d02)より。
*70:というよりも、そんな読み方をするだけではつまらないだろう。
*71:「 「存在」する以上、その存在を疑うことはもはや無意味であり、そこに「説明」を求めることもまた、無意味となります。永遠の世界は実在する以上、その「存在」を幾ら説明したところで無意味でしょう。実際、現実世界も似たようなものです。説明は無意味であり、重視されるのは実践のみです。現実は存在を疑われず、ただ、存在することのみを断じられ、ただ実践するのみです。ファンタジーとしての『ONE』も現実社会と同じく、説明されることなく、ただそれが「ある」と断じるのみなのです。ファンタジーとしての『ONE』とは、現実社会のごとき厳しさを持った物語だったのです。これは、ある意味徹底したリアリズムでしょう。」,火塚たつや「永遠の世界の向こうに見えるもの 総論 」(2001年,http://tatuya.niu.ne.jp/review/one/eien/outline.html)より。
*72:浩平「ふっ…あまいぞ長森」/疑いのまなざしを、悟りきった表情で返す。浩平「世の中にはな、科学では解明できないような不可思議なことがたくさんあるんだ」/長森「…そ、そうなの?」/浩平「ああ、オレはこの目で見た」/長森「浩平がそういうのなら…そうなんだ」/浩平「ああ…オレも未だに信じられないけどな…」
*73:ある意味、この隠しシナリオは、本作における最も難解なシナリオである。特に、ラスト・シーンの解釈次第では、「永遠の世界」と「絆」との相関関係が根底から覆されることになりかねない危険をはらんでいる。この短いシナリオを蛇足と切り捨てるのはもったいない。
*74:6人のヒロインと氷上シュンを足して、7人のシナリオという意味である。
*75:折原浩平が「永遠の世界」に呑み込まれていく過程ひとつを見ても、彼がひとり諦念の境地に達し、自己の内面から「永遠の世界」に浸食されていくことを受容しているかのような描写もあれば、突如として彼にとっての外部・異界から「永遠の世界」が覆い被さってくるかのような描写がなされることもある。前者の例として上月澪シナリオにおける「永遠の世界」を予感させるシーンの一例を、後者の例として川名みさきシナリオにおける「永遠の世界」を予感させるシーンの一例を参照されたい。
*76:「永遠の世界」から主人公が日常世界へ帰還するためには、ヒロインが主人公との絆を待ち続けでいるだけでは駄目で、主人公もヒロインとの絆を心底求めていなければならないという条件があるのだが、その側面の意味するところを明確に物語るのは里村茜シナリオだけであるというのも、この一例である。